「教える人」のための教育論。
こんにちは。中村です。
この季節は本業の繁忙期でなかなかnote更新の頻度が鈍ってしまいます。
時間がないということよりも頭の切り替えがしにくい時期という感じです。
それでも「続けていくこと」に価値があると考えていますので、今日も一生懸命に書いていこうと思います。
もしお時間がありましたらどうぞお付き合いくださいね。
今日のテーマは「教育」について。
今日は「教える人のための教育論」というテーマで書いていこうと思います。
私は勤め人の頃に人財教育部長という職責を何年もやってきました。
自ら希望した職責ではなく未経験領域でしたが、それでも会社に貢献するために「教育の専門家」という仕事について正面から向かい合って学び、そしてその職務を何年もやらせていただいたわけです。
私のように「教育」のスペシャリストとしての仕事に就く人もいるでしょうが、リーダーの役割の中にも「部下の育成」があります。その意味では「リーダーとしてスタッフを教育する」という観点もあるでしょう。
また、リーダーでなくても自分自身が「教えられる立場」の人もいることでしょう。
今日の話は「教える側」も「教えられる側」にも、私自身が経験し身に付けた「人財教育論」をお伝えしていこうと思っています。
まさに今、人財教育の真っ只中にいる人。または教育に悩んでいる人の、何かのきっかけになったらそれはとても嬉しいことです。
人材? それとも人財?
「人材」と「人財」という言葉。ともに「ジンザイ」と読みますね。意味もほぼ同じように使われます。企業などに所属する「人」のことを「ジンザイ」と呼びます。
正確には「人材」の方がもともとあった言葉だそうです。
「材料」の「材」。つまり、「人は材料」だという思想が根底に見え隠れします。
日本という国は、戦後の経済復興を発展させた高度経済成長期に
自動車や家電などの「ものづくり」産業によって発展していきました。
だからいまだに労働基準法は製造業の勤務形態中心であるわけです。
当時は 決められた作業手順を決められた通り正確に速く行う「人材」が必要だったのですね。まさに生産する人は「労働力」という材料のような感覚だったのかもしれません。
大量生産していくためにまさに「人材=労働力」が必要だったのですね。
いやいや、人は材料なんかじゃない。財産なんだ!
と思える時代が後にやってきて、その頃から「ジンザイ」を「人財」と書く人が現れ始めたわけです。
人は財産だ!という考え方。
「人財」の「財」は、いわゆる「財産」の財です。
「人は財産だ」なんていう人もいますが、では「財産ってなんだ?」というところを考えているかというと そうでないケースが多いのですね。
「財産とは何か」ということを調べてみると、
「金銭や宝石、土地・建物・家具・商品など経済的価値がある物の総体。」と辞書には書かれています。
つまり、お金や宝石、土地のように
経済的に価値があるものを財産というのです。
それを「人」に置き換えてみると、
会社にとって「会社の業績に貢献できる人」を「人財という」ということですね。
別の切り口で見てみましょう。
仮に「お金とか宝石など」が財産だとするならば、その財産を持つ人は その財産をどう扱うでしょう。
お金なら銀行に預ける人もいるでしょうし、資産運用する人もいるでしょう。それがモノなら時々磨いたり、安全を確保して大切に保管するでしょう。割れでもしたら台無しですからね。
そしてそれが少しでも「増えていくように」いろいろ手を施すでしょう。
そう、財産とは「大切に育むもの」「大きく育てたい」ものです。
少しでもその価値が大きくなるように大切に育むものです。
こっちの銀行よりもあっちの銀行に預金したほうがより増えていくと思えば、誰もがそうしたいと思うのです。それが「財産」というものです。
話を戻しましょう。
「人財」という書き方は「人は材料ではなく、財産だ」という考え方です。
人を財産だと思うならどうするべきか。
その答えは、「人を大切に育むこと」「大きく育てようとする」ことです。
その価値が今以上に上がっていくように育てることです。
その価値がたくさんに増えるように育むことです。
より安全に確実に「人が育まれる環境」を整えることです。
私はこう思うのです。
「人は材料じゃない。人こそ財産だ」と。
そして同時にこうも思うのです。
「人を育てることはビジネスを育てることだ」と。
「教える」と「教育」の違い。
「財産を育むこと」と「人を育むこと」は同じ。
少なくとも「人を財産と考える=人財」であるならば、そこから「育む」という工程は避けて通れないわけです。
そこでその手段として「教育」が必要だという話しになるのですね。
「育てるための手段」。それが教育という方法です。
よく「社員教育」を専門に教えているフリーの講師さんがいますね。
彼らの多くには「カリキュラム」があります。
つまり、「それを教えることのエキスパート」だということです。
それはそれで素晴らしいスキルだし、企業にとっては「社員教育をしている感」が感じられていいことだと思います。
私も教育部長になりたての頃に、何人もの外部講師に来ていただいて研修をしてもらったことがあります。研修は落とし所がちゃんとあるし、それはそれで「会としてはよかった」と思いましたね。
でも何か「ちょっと違うのでは。。」という疑念も同時に湧いたことを覚えています。
私が感じた「疑念の正体」は、「教育」の目的感とのギャップでした。
私の心は「教える」ことで満足してはいけないと言っていました。
「教える」という行為だけを崇めてもいけないし、「教える」という行為に満足してはいけないと思ったのですね。
ちょっとわかりにくいですかね。。^^;
つまり「教える」とか「いい研修をする」とかいうのは目的じゃなくて手段なんですよ。私たち教育者はその目的を履き違えてはいけない。
私たちの目的は「育むこと」。つまり、人が育つことです。
「教育」という字を見てください。「教え育む」と書きます。
これは「教えることによって育まれる」ということです。
「教える」は手段。「育まれる」が目的なのです。
極論を言えば、わざわざ研修なんかしなくても「現場に育まれる環境」があるのなら「教える」なんて工程はいらないわけです。
何度も言いますが、「教える」は手段。「育む」が目的なのです。
でも日本の教育は「教えることありき」です。「上手に教えること」「うまく研修をすること」が良い講師の条件のように言われるし、
研修が上手な先生方は「教え上手な自分に酔っています」。
自分もそうだったからわかります。「中村さんの研修は素晴らしい」と言われたら、教えている自分に酔ってしまうのです。「教えている自分」に価値を感じてしまうのです。
でもその「素晴らしい研修」の結果として、仮に誰も成長しなかったら?
それはもう「教育」ではなく「研修ショー」です。受講者がキャストで講師が舞台俳優?それのどこが価値があるのか。
教育というのは、教え育むこと。
教えるという行為によって、育まれるという結果こそが重要。
それも「ひとり残らず」。「誰も例外なく」。
だから「教育」とは「教えること」ではないのです。
「教育」とは、「できなかったことができるようになった」という実感を与えることです。成長したという事実そのものです。
教えることだけに酔ってはいけないのです。
まとめ
「人は財産」という言葉をよく耳にします。
財産をそんなに粗末に扱うか?
それもよく思ったり目にしたりします。
言葉だけが一人歩きしてるのか。それとも建前だけの財産見せなのか。
それは私にはわかりません。
お金や土地などの財産は個人的ですが、
企業にとっての財産は公です。意思もあるし個性もある。
だからこそ「育む」という扱いが普通なのです。
そして、「育つ」という結果にフォーカスしなくてはならないのです。
そして世の中に多くいる「教える人」は、
「できなかったことができるようになった」
「知らなかったことを知ることができた」
「教わる前より成長した」
そういう「育まれた」という実感こそが「仕事」なのです。
そういう「具体的な成長」こそが実績なのです。
「教える」は手段。
「育まれる」が目的。
教育という字は、「教え、育まれる」と書くのですから。
今日はこのへんで。
またお会いしましょう。
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