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【心理学の限界点】これから心理学を学ぶ人の手助けになりますように。

心理学にはいろいろな解釈が存在する。

この記事では、とある心理学の説明ページをリライトし、詳しめに解説した。

ただし、あえて否定的に解説している。(注:否定形にして解説をしている の意)

否定形にして解説を加えた方が心理学の限界や、心理学が取り扱っている範囲を規定しやすい。そのために否定的に表現している。

まず結論を書く。

その結論こそがこの記事における最も大切なポイントなのだが、最も大切なポイントを冒頭に持ってくるあたり、どれだけ大切かを認識していただきたい。

(むしろ、この記事はこの冒頭部分だけ読んでもらえたらならば後は読む必要はない。それほど大切である。)


● 結論
心理学は「流派」のようなものが多数ある。
現代における心理学界の真相は、
学派の対立ばっかりなのである。
※何十年も前からこの体質にあまり変化はない。

実際、
真面目に心理学を学んでいる諸氏は
「この人はこう言ってるけど、この人はこうだ。」
「どっちが正しいか判断する基準がわからない。」
という声をあげる。

つまり、
心理学が学問たる所以である本質的な解答は、
いまだに得られていない

のである。

以上が結論でした。


この結論が
これから心理学を学びたい人の参考になれば幸いである。

この結論の根拠については、以下にダラダラと書いてあるので、ぜひ、最後まで見ていただきたい。


もし、
「こんな妙な記事を書いた人は誰やねん?」とあなたが思われたならば、時間にゆとりのある時コレ📖 を見てみてほしい。


それでは以下に記事の本文を書く。

まずは、
心理学でよく登場するキーワードから解説。

欲動(=エス)

欲動(=エス)
主に精神分析的な概念
1.うまれながらにして備えているエネルギー
心の内側から動機,動く因となって人びとを駆り立てているという考え方。その動因を欲動とよぶ。エスは一般的な「本能」とは少し切り口が違う。

精神分析はそれらの働きを起源,強さ,目的,対象との関係で理解していく。
エスがなぜ存在するのかが精神分析の対象。

要するに、
「エスの本質やエスがなぜあるのか?」ということであるが、

身体や精神の仕組みには複雑な回路があり,それによって欲動についてのさまざまな理論の構成を可能にしてきたが、
結局のところ現代に至るまで本当に知りたいことは何もわかってわかってないのが実情である。

つまり、この心理学ではエスの本質やエスがなぜあるのかということがわかっていないのである。


欲動は
1.生理学的な側面(これはそもそもが無理がある)

2.生物学的な側面(これにも理論的に限界がある。)

3.心理生理学的な側面

このように
いろいろな側面でとられられている。


生理学的な側面では
欲動が内部に起源をもち,恒常的で,行動によって回避,逃避できないものと定義できるとする。
ただし、これは謬見である。
なぜなら欲動はそもそも恒常的ではなく変化するからである。また、その欲動が存在しない生命体も多く存在するからである。


生物学的な側面では
衝動の興奮が本能に由来するので、それをどのようにコントロールするかが生体の仕事になるが、本能を固定的なものと見ている謬見が存在する。

心理生理的な側面では
身体の内部に由来するエネルギーが、防衛を通して精神的なものの中で心的代理物として変形や活用されるものであり、心理学的にその充足を取り扱うことが主題になる。

フロイトはこのエネルギーをリビドーLibidoとよんだが、これはいわゆる仏典・聖書・神話などに共通する世界観から見るならば、人間界とか性欲の発生を根本としているので、せいぜいが性交が始まる低い天の世界のレベルのことまでである。

経緯は後述するが、長年にわたる研究の結果、
フロイトは「神話的である」と述べていることをみてもも、エスの本質やエスがなぜあるのかがわからないままとなっていることがわかるだろう。

【欲動と本能】 

【欲動と本能】 
欲動の定義は複雑化して増えていった。

欲動は方向性がある。外側に向いたり内側に向いたり対象が変わる。
自我リビドーego libido(自己愛,ナルシシズムnarcissism)
自己保存本能や自我本能(自我欲動)ego instinct
と呼ぶが、結局は対象が変わるだけで欲動は同じものであるとする。
晩年は生の本能life instinct(エロスEros)があるから人間は攻撃的な側面(死の本能death instinct(タナトスThanatos)があることを彼は理解した。
フロイトはエスが基本的な動因とみなされるが,本能衝動は内側に向くか、外側に向かうかであると理解する。

結局、フロイトは晩年になっても「色んな本能衝動の理論は依然として神話的である」と述べ、そこまでしか彼には理解できなかった。

精神分析の方法論の限界は、欲動は本来の姿を理解することができなかったことにある。
表層(現象)に現われる表層意識の働き(防衛や抵抗)を通じて、深層部分を理解しようとしていたため、湖の浅いところから深いところ(本質)が見えることがないのと同じように、意識においても浅いところから根源的な部分は理解できるはずがないからである。

人それぞれが一定のエネルギーをもつことは現代の先端といわれる一般学問ではあくまで仮説として取り扱われている。
たとえばハルHull,C.L.に見られるが,欲動を原理とした本能衝動というよりも,食欲や性欲などの基本的な欲求を主に取り扱う

しかし、
そもそも食欲や性欲は根本煩悩の副次的副産物であるともいえる。大抵の人間に備わっている基本的な欲求とはいえ、例外が存在するからである。

根本的欲求ではないもの、絶対的でないものを物差し📏にして現象を観察するため、そもそもその想定が間違っている。

彼らの論理で定式化することは、手書きの物差しによって現象を正確に測ろうとするようなものである。

ハルトマン

1930年代以後,精神分析は死の衝動をめぐって二つの大きな流れが対立して発展してきているが、一つは自我心理学の,ハルトマンらの流れで,初期の欲動論から出発して自我の分析を行ない,外的な世界に適応していく自我の自律的な機能を想定するようになった。

この場合,欲動はリビドーの一元論で死の本能的な衝動,欲動は重視されない

結局スタート地点の欲動論が曖昧なので、曖昧なものからは曖昧なものしか生まれない。

行ってもせいぜいが西洋神話くらいまでが限界である。その誕生の根本については理解できるはずがない。

欲のスタート地点が彼ら心理学者にとっては不明確なので、表面化した部分をスタートと仮定して彼らは進めている。

要するに、使う「物差し📏」が間違っているのであり、物差しが間違っていれば正しく測れるはずはない。

彼らはこの欲は一体どこからやって来たのだろうか?と、出発点をしりたいのに道の途中の研究ばっかりしているのであるから、何故 欲があるのかを知りたい人=根源的な部分を知りたい人にとっては、このような研究学問はやるだけ無駄である。

クライン理論

クラインKlein,M.のクライン理論は,児童分析と精神病の分析を通して,死の本能の臨床的な意義を認めて研究している

が、結局は生死の根本的な性質を彼女らの結論ではまだ途中の段階までしか認識できていないのである。

なので、現代の精神分析理論のなかでとくに対象関係論は,欲動の理論をそれほど重視しない傾向にある。

たとえば「対象関係論」という概念を最初に用いたフェアバーンFairbairn,W.R.D.の言いたいことは、要するに全ては相対的であるという、当たり前のことを言っている。衝動の成り立ちを考える時に現象の相対性や理論の相対的な矛盾が必ず存在するからである。つまり、頭打ちなのである。

また治療関係を重視する立場からギルGill,M.は個人の欲動を基盤にして構成される心理学を一者心理学one-person psychologyとよび,治療関係の中で構成される心理学を二者心理学two-person psychologyとよんでいる

このように、分類方法や知識などは、経験に裏付けられてしっかりしている。

そのため、分類法や知識を得たい人にはこのような心理学は良いだろう。

しかし、
分類法や知識を得ても使いこなせない人や、根本的な自己や本質的な自己を知りたい人にはフロイト系の心理学は無駄である。

まぁ途中(表面)までは知ることができるかもしれないが。解釈が分かれるところでもある。

一応、フロイト系よりもユング系の心理学の方が深い部分を取り扱っているが、その本質についてはフロイト系の心理学と大差はない。

結論

つまり、わかっていないのである。

したがって結論は、
心理学では精神にはあらゆる仕組み(理論)があることがわかるだけであり、心理学を学んだとしても理論が横に広がるだけであって、根本(本質)を理解できるような状況にはないのである。


そして、
日本における心理学界隈の現実だが、
日本において自由な校風で有名なK大学(名前は伏せることにする)ですら、因習に縛られているため、他大学の状況は"推して知るべし"である。もちろん、良い先生がいることは付け加えておく。

もし
基本的な心理学の全体像のことが知りたければ
↓↓コチラの記事をご覧いただきたい。


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