イェダラスカレイツァ_201910

ひとふで小説|9-イェダラスカレイツァ:バルヴァリデ[IX]


前章:[I]〜[収録マガジン]


IX

「ヴァンダレ様、いかがなご様子ですか?落ち着いて眠れそうですか?それとも、何か食べられますか?」
 雪棉糸を平織りした大きな浴紗で体を拭いながらターレデが尋ねると、寝間着に袖を通しながらヴァンダレは答えた。少し迷ったようだったが、正直に。
「…穏やかでない一日を送ってしまったせいか、きつい眠気が訪れたとき無理に逃がしてしまったせいか、体がなかなか眠たがらないのです。私は、もうしばらく起きていても良いですか?ターレデ様がもうおやすみになるようでしたら、どこの寝台を使えばいいか、…それから、厠がどこかを教えて頂ければ、一人で過ごしますので」
 ヴァンダレの答えを聞くと、ターレデは二人分の浴紗を簡単に畳みながら、安心の色濃い顔を向けた。
「だったらヴァンダレ様、お酒でも飲みながら、もうしばらくお付き合いくださいな。…昨日のことで気が立っているのか、実は私も、疲れているはずなのに、うまく寝付ける気が湧かずに、困っていたんですの…」

 寝間着に着替えて母屋に戻ると、ターレデはヴァンダレを長椅子に呼んだ。
「食卓の椅子は木ですから、疲れている時には体が硬くなってしまいます。柔らかいこちらへどうぞ」
 それからふと気付いたような顔をして、ヴァンダレの失った右腕を包もうとする寝間着の袖の余りに目を遣った。所在なく、ひらひらと下がっている。ターレデは何も通っていない袖をそっと手にとって、
「結んだほうが過ごし好いですか?」
 と尋ねた。
「まったくターレデ様は細かく気付く方ですね。…先ほど村の方があなたを嫁として貰ってくれる者が私の縁故に居ないかと心配しておられましたが、あなたのように何から何まで世話を思いつく人は、どこかに嫁げば疲れて倒れてしまうでしょうから、お一人で過ごされていることに安心しますよ。忝ない…」
 かつては手首が出てきたはずの袖口は薄く平らに閉じたまま、宙で静かに休んでいる。ヴァンダレは済まなそうに、途中から袖の垂れた右腕を、ターレデに差し出した。ターレデはヴァンダレが動いた折に寝間着が突っ張ったりしないよう、少し余裕を持たせて袖を結ぶ。なにかの時にヴァンダレが一人でも結び目を解けるように、端を咥えて引っ張れば元に戻る結び方で。それから、ふんだんに綿を仕込んだ部屋枕と毛織布をヴァンダレに渡して、暖炉に火を熾し、湯冷めしないよう部屋を温めた。
「これはまた上等な…。これも、やはり…?」
「毛織は私の祖母が遺してくれたものですが、部屋枕は私の作ったものです。大きくて柔らかいでしょう?遠慮なく、背でも腰でも、腕でも頭でも、凭れてくださいな。ヴァンダレ様が私の言葉に甘えてくださらないと、私も気を抜けませんから、どうぞごゆるりと」

 台所の壁に掛かっている柄杓を手に取ったターレデは、練り米酒を寝かせてある酒壺の蓋を抜いた。そっと柄杓を入れると、下から掬い上げるようにして、丸く、丸く、掻き混ぜる。さらさらとした液体を撹拌する時に感じる涼やかな手応えとは違う、もったりと、ねっとりとした重みがターレデの手首に掛かった。ふわりと米の香りが立ち込める暗い壺の奥で、とろみと、無数のざらつきをその肌いっぱいにその体いっぱいに湛えた、白く、貫禄のある美酒が尾を引くように柄杓から酒の溜まりへと戻っていくのが見える。
 用意した手鍋にたっぷり注ぐと、暖炉の前にしゃがんで、しばらく温めた。ヴァンダレが興味深そうにこちらを見ているのが分かる。きっとまた、大喜びしてくれるに違いないと思うと、ターレデはもう随分と嬉しくなった。それでも、口に合わない場合だってあるのだから、と思い直し、気を鎮めてから石筒に注ぐ。酒の残った熱い手鍋は木板を敷いて、石筒はそのまま、食卓に置いた。

 ターレデは食卓の木椅子をヴァンダレの腰掛けた長椅子の前まで持って来ると、座面を机に見立てて、酒の入った石筒を二つ置いた。
「礼を欠いた持て成し方とは思っていますが…、お疲れの時は食卓で背筋を伸ばすより、ここのほうが好いんじゃないかしらと思って…」
 柔らかな毛織布に身を包み、ふくよかな部屋枕に体を沈めて安息を愉しんでいたヴァンダレは嬉しそうに微笑んで、上体を起こした。
「こちらこそ…有り難きこと。野宿中ならいざ知らず、身を寄せる家の主の眼前にあって、このような姿で過ごせるのは至福というもの。普通は、いかなる時でも背筋を伸ばしていなければなりません」

 それからターレデは台所にある炉にも火を熾して、丸い押し焼き鍋を何者も寄せ付けぬほど熱した。ターレデの家の押し焼き鍋は、穀物の焼き物を好んで食べる一家のために父が特製したものだ。天板のようになった蓋と土台となる鉄板との間に食物を挟み込み、天地両側から圧し潰すようにして焼き締めることができる。他の家にも似たようなことに使える押し焼き鍋はあったが、大人が持っても重く、熱く、扱いが難しかった。まだ少女だったターレデが火傷をしないようにと父が手を加えた焼き鍋は、熱に触れずとも調理できる持ち手がしっかりと備えられているばかりでなく、安全に扱えるように軽く小さく作り直されている。ターレデはいつもいつも父に感謝しながら、この焼き鍋で手早く作れる焼き物を愉しむのであった。
 潰した山黍を挟み、天板をぎゅっと圧し込むと、たちまち香ばしい匂いで母屋は満たされた。
「…いい香りだ。…ところでターレデ様、つかぬことをお聞きしますが、昨日あなたは、防具を仕立てる基礎は身につけていると仰いましたね?」
「ええ。…でも、父たちのように何でも作れるわけではなく、本当に基礎の基礎。革靴を直すとか、単衣の胸当てを作るとか、そのくらいです…。鉱石を熱く打った兜などは上手く作れませんわ」
 ヴァンダレの問いに答えながら、ターレデは出しておいた燻し肉を細く割いている。「なるほど…では、新しい頑丈な防具は難しいとしても…私の着てきた旅衣を修理して頂いたり、丈を合うよう直して頂くことはできますか?」
「ええ、その程度は…そうですね」
 肉塊から一番に上等な部位を割いたとき、はたと思いついてヴァンダレに差し出すと、上体を前に屈めて、ぱくり、と、端っこを咥えて持っていった。
「腕が無いからこのように食べたと思って、憐れまないでくださいね。こういう、父上や母上に見られたら叱られてしまいそうな怠惰を、やってみたかったのです。………けれども、いざやってみたら存外に恥ずかしいものですね…今の姿は忘れてください」
 手で受け取るかと思っていたターレデは、とんだ横着に驚いたが、ヴァンダレは弁明しながらもどこか嬉しそうにしていた。
「ターレデ様、では、旅衣の所々に、革などをあてて傷を受けにくくして頂くことなどは…?」
「…そうですねえ、旅衣を元にしながら形を整える…布服を皮の鎧のようなものとして作り変える、ということでよろしいんですよね」
「まさしく」
「その程度でしたら、きっと私でも。…皮や鱗や羽の類いであれば…あまり華美な装飾は施せませんが、ヴァンダレ様の背格好に合わせて、仕立てられますわ。先ほども申しました通り、鉱石を打って重ねて、頑丈で複雑な新しい鎧をご希望通りに仕立てるには、相当な修行の時間を頂かなければ難しいと思いますが…」
 ターレデは立ち上がって、洗ってあった山野菜を手に取り、割き終えた燻し肉と共に小刀で刻み始めた。刃受けの木板が、とん、とん、とん、と弾みのいい音を鳴らしている。
「…ターレデ様は、“その程度”と仰いますが、これがどれほど私には有難いことか…。多くの職人様は女のための無骨な鎧に槌を振るい針を走らせてはくださいません。優美で豪奢な服を作りたがってくれる方はとても多いのですが…」
「それはヴァンダレ様の心身が美しいからですわ。あなたほどの逸材と出会えば、無骨な鎧で包むよりも、金や銀や真紅や純白の糸をふんだんに使って刺繍を施した衣装を召して頂き、優雅に舞うところを見たくなるのが職人の性というものです。私だって、あなたに着せるなら簡素な革より刺繍をしたくなってしまいます」
 ヴァンダレは伝わらない物事に、世界を分断するようなターレデの言葉に、少し苛立ちを覚えていた。
「と、とにかく私たちの安全は、戦う者ほど、軽いのです」
「戦士というのは、そういうものなのでしょう…?」
「…説明が難しいのですが…そういうことではなくて。私たち女は、男と異なる役目を負っているようで……………。ま、まあいい…この話は、やめましょう」
 ターレデは、まだ、一体なぜヴァンダレがこんな山奥まで父たちを訪ねて旅してきたかを、本当の意味では分かっていなかった。

 母屋にはターレデが肉と野菜を切る音だけが響き、止んだ頃、しばしの沈黙を置いて、ヴァンダレは言った。
「……どのみち私の体格では重い青鋼や赤鉄の鎧で動くことはできません。望んでいたものは、鉱石の板を所々に使った皮装束なので、もしも私がこの村に居る間に間に合えばお願いしたいところですが、まずは今ターレデ様が手掛けられるものの中で、最高のものを目指して頂きたいのです。いかがでしょうか。この我が儘、聞き入れて頂けますか…?」
 炉に掛けて熱した丸鍋にほうった乳油の小さな塊は鍋の曲面を勢いよく滑るようにして溶けた。瞬間、芳醇な空気が、煙のように立ち上る。
「ヴァンダレ様、私はあなたに従妹の望みを預ける身。あの子はこれから、至高の教えを浴びるのだと存じておりますわ。…それと引き換えて頂くには、私の仕立てた防具は余りに見窄らしいものですが…それでも、望んで頂けるなら、なんなりと。お代も結構ですわ」
 ターレデは、よもやこんな形で客が付く日が来るとは思いもせず、修行の道を選ばなかった事を悔やんだが、今更どう嘆いても間に合わせようがなかった。知る限りの技を尽くして、ヴァンダレの望みを聞きながら技を磨くほか、道がない。
「ありがたい…!しかし、お代は、そうはいきません。幸い私は路銀や溜め込んだ報奨を余らせております。ターレデ様にはしっかりお金を取って頂いて、良い食材を買って頂かなければ」
 乳油が塗れた丸鍋に肉と野菜を放り込んだ途端、じょう、じょう、と、旨味の滴るあぶくを立てて鍋の中身が瑞々しく踊り出す。ターレデは、湧いた食欲が臓腑を鷲掴みにするのを感じた。ヴァンダレは今しがたの微かな苛立ちを忘れるほど、間も無く自分の目の前に並ぶであろう素晴らしい香りについて知りたいことが喉の奥から湧いてきたが、生唾を飲み込んで、じっと耐えた。
「お金を頂いて買うのは、食材でよろしいんですの?革や鋼や新しい布ではなくて?」
「そうでした」
 笑っている間にターレデはすべてを手早く木皿に盛り付けて、椅子で急拵えした食卓に並べた。ヴァンダレはどうにか片手で、山黍の板に肉と野菜を絡めようとしたが上手くいかない。
「いけない、片手では食べにくいものを作ってしまいましたね。これからはもっと食べやすく工夫して作ります。つい、自分ひとりの時と同じようにしてしまって…」
 ターレデは飲んでいた酒の筒を置くと、ヴァンダレが一口で口に含められる大きさに山黍の板を折って、具が落ちないよう、板の中ほどに乗せた。
「子供のようにして頂いて、お恥ずかしい」
「何を恥じることがありますか。失くした片腕が世界に尽くした名誉の証となって、従者が増える世界もあるのでしょう?」
 ターレデがヴァンダレの口に運ぶと、今度のヴァンダレは、燻し肉を元気よく咥えたときとは違う、心から恥じ入るような、何かを悔しく思うような目の色を浮かべた。小さく口を開け、料理を呼び込むと、山黍の板が歯に割られる音が、ゆっくりとゆっくりと聞こえた。間違って見せてしまった苦悩を砕いて腹の底に隠すような、咀嚼だった。静かに、おいしい、と言って、控えめに微笑んだ。
「ヴァンダレ様、私は、あなたの腕を見て、嘸や不便だろうと思っていますわ。動く両手が欲しいに違いないと思います。…剣で落とされたのなら、どんな深く長い痛みを味わったか。思いを馳せただけで泣いてしまいそうです。ただね、恥ずかしい姿と思ってあなたを見たり、情けなく思うことはありませんわ」
「ターレデ様、あなたは聡明すぎて、私はあなたの心についていけないかもしれません」
 ヴァンダレは目に涙を溜めたが、ターレデは意に介さぬ素振りで、もう一つ山黍をヴァンダレの口に運んだ。今度は少しだけ早く、咀嚼された。

 二人は、語らった。疲れていたが、暗い興奮が、さめなかった。目が冴えて冴えて仕方がなかった。死地を知るヴァンダレと違い、特にターレデは、すべてが現実の出来事だと確かめるように。語らずにはいられなかった。
 昨日の出来事について。剣の道について、剣門について。父たちの作る防具について。シオとサラについて。ターレデとシオについて。この村について。ヴァンダレの旅について。互いの半生について。

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つづく

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 企画「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに一筆書きで突き進む方法でおはなしを作っています。
 具合悪くて寝込んでた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。
 いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興に挑戦しています。
 挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)