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人と暮らすことは「愛する」を学ぶこと

いま、実家に帰ってきている。なぜいまなのか、という話はあると思うけれど、実家に帰ってきて久しぶりに人との共同生活の良さを考えるきっかけになったので書き留めておきたい。

僕は大学へ入学するときに実家を出たのでもう8〜9年ほど親元を離れて暮らしている。シェアハウスに住んだこともあったけど基本的には1人でずっと生活していた。
一人暮らしは本当に快適で大好きだ。自分のお金と時間は基本的には自分のためにあるものだし、朝起きてから夜寝るまでのあいだ家で何をするか、何をしないかの全てを自分が決めることができる。

そんな自分が実家に帰ったのは、最初は母親に何度も帰るよう呼ばれることに耐えきれなくなったからだった。母は実家にたった独りで住んでいるのでそれなりに心配ではあったし、単純に実家の方が自分が仕事をするうえでも働きやすいなと思ったこともあって、とりあえず一度帰ることにした。
というわけで、今は母と息子でせっせと2人暮らしをしている状態だ。僕の実家はもともと3世帯用の家だったので、2人で住んでもかなり広くて、なんだかんだでとても居心地が良い。

母は庭で家庭菜園をやっていて、毎朝キュウリが実る。ハーブも採れる。それでサラダを作ったりする。僕は午後になると焙煎所で買ってきたコーヒー豆を2人分挽いて淹れる。晩は、技術に甘えてしまって申し訳ないけれど基本的に母がご飯を作ってくれる。なので僕はその間に洗濯物を取り込んで、食後には食器を洗うようにしている。夜は互いの撮り溜めた映画をおすすめしたり消化したりする。正直2人でいて特に会話が弾むわけではないけれど、そんなふうに適度にお互いのできることを分け合って暮らしている。

この年齢になってようやく僕が気づいたのは、人と暮らすことは、その仕組みそのものが誰かに愛情を持って接することへと直結しているということだ。もちろん全ての人がそんな環境で生きてはないだろうけれど僕は基本的に「家族愛」というものを家族の全員に対して持っているし、自分がこの家の一員であることを善いことだと思っている。
この感情の理由を家族なんだから当然そう、と短絡的に結ぶこともできるけれど、「家族」として一緒に暮らしているからそう思えるということもあるかもしれない。

「ただ隣に存在している」ではなく、本当の意味での「共に暮らす」という行動において、僕らは否応なく自分の時間を他人に使うことになる。時間だけじゃない。知識や居場所、道具、その他諸々を他人に使い、相手もそのかわりに自分へと何かを費やしている。つまりそれは、それぞれに出来ることや持てるものの全てを与え合っているということだ。この「与える」という部分はまさしく誰かを愛するということの本質だと思う。

僕は誰かと接するにあたって”Give first”な人間でありたいと常々思っているし、前に別の記事にもメモとしてその実践が「愛するための力」につながると書いたことがあった。そして、ちょうど最近読んだ本の中にも「豊かさとは誰かから何かを得ることではなく誰かに何かを与えることができることである」というようなことが書いてあった。このあたりの価値観の再考やインプットは自分の今の生き方に大きな納得感を持たせてくれている。

長くなってしまったけれど、簡単に言ってしまうとこういうことだ。共に暮らすなかで自分は意図せずして他人に何かを与えることになるし、そのことがまわりまわって自分の心の豊かさを感じるきっかけになっている。もしそうならこれって誰にとっても素敵なことなんじゃないだろうか。
愛する人とは一緒に暮らしていける、と思っているけれど本当は自分の心の窓口はもっと広くて、人と暮らすことがその人を愛するきっかけになるのかもしれない、なんてふうにも思ったりした。


「愛するための力」について書いたメモもまた自分で読み返してみようと思う。


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