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「暇と退屈の倫理学」を読んで考えたこと。

暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか・・・暇と退屈の倫理学が問いたいのはこの問いである。

年末、一気に読み、いまだに余韻に浸っているところなのだが、少し本の感想を書き留めておきたい。

この本はタイトルのとおり「暇」と「退屈」について書かれている。本を読んで自分なりに「暇」と「退屈」を整理すると次のようになる。

暇と退屈

「暇」とは客観的であり、時間という概念の中で生み出される。
マルクスの時代まで遡る必要があるが、資本と労働の関係の中で労働を苦役と捉えれば、労働から解放された時間が「暇」となる。
経済が発展すればする程、「暇」が増えるわけだが、皮肉なことに「暇」が増えれば増えるるほど、人間は何かをしなければならず、主観的な「退屈」が心を占めることになる。

となると「暇」によって生み出された「退屈への向き合い方」が大事になる。実は「退屈への向き合い方」については、これまで多くの哲学者達が考えてきたことである。
本の引用になるが、一例としてパスカルの例を挙げたい。

「ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではない」とパスカルは述べる。
ウサギ狩りに行く人に、ウサギをあげたら満足して喜ぶだろうか?
恐らく、ウサギ狩りに行く人はウサギを貰っても満足することはない。
ウサギを手に入れることを目的にしているのではなく、ウサギ狩りの行為自体が目的だからである。

そして、その行為自体が、ウサギ狩りに行く人の「退屈」における「気晴らし」なのだ。

そうすると、人間は「退屈」と向き合うために「気晴らし」を見つけることが重要になる。

本自体は、様々な哲学者の言葉を批判的に展開しながら「退屈」の正体を浮き上がらせていくのだが、「退屈への向き合い方」の哲学者達の答えは、「決断(ハイデガー)」であったり、「信仰(パスカル)」であったり、「興奮・熱意(ラッセル)」であったり、飛び道具もなく意外と平凡なものなのである。
著者の國分功一郎さんの答えも「物事待ち構える」であり、「待ち構えた結果、経験する出来事を思考する」というものであった。

このような平凡な結論に少し不満を持つ自分がいる。
もっと具体的な「退屈への向き合い方」についての答えが欲しいのだ。

だけど、ここで少し思うのである。
「退屈への向き合い方」に飛び道具なんてあるはずないと。
Googleに聞けばなんでも分かるというネット社会に自分自身が侵され過ぎているだけなのだと。

そのように考えると、「退屈への向き合い方」を考えることこそが、人間にとっての最高の「気晴らし」なのかもしれないとも思えるのである。

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