【静岡県の皇室伝承】2.遠州入野に移住した大覚寺統の正嫡「木寺宮家」(浜松市)
遠州における木寺宮家の伝説地
鎌倉時代、日本皇室は持明院統と大覚寺統の二系統に分裂し、交互に皇位に即くようになっていた(=両統迭立)。今でこそ大覚寺統といえば後醍醐天皇のイメージがかなり強いが、彼は元々は大覚寺統の嫡流というわけではなかった。同時代の人々は、後二条天皇(※後醍醐天皇の兄)の皇子であらせられる邦良親王の血筋が大覚寺統をお受け継ぎになることを当然のように期待していた。
南北朝時代の皇族・木寺宮康仁親王は、大覚寺統の正嫡にあたらせられるその邦良親王の第一王子でいらっしゃる。両統迭立の約束に基づいて光厳天皇(※持明院統)の皇太子とならせられたものの、後醍醐天皇の興亡の影響を大きくお受けになって、ついぞ即位なさらなかった。
静岡県浜松市西区の入野町には、そんな木寺宮康仁親王がご移住になり、子孫の木寺宮家がしばらく存続したという伝説がある。
1.西湖山龍雲寺
佐鳴池の東畔に、西湖山龍雲寺という禅宗寺院がある。臨済宗妙心寺派の「準別格地」に位置付けられる程度には高い寺格を有している。
当寺には、山門をくぐったすぐの場所に「開基康仁親王之墓 在當山」という大正時代の石碑がある。「開基」とは、禅宗においては、寺院を開いた僧侶ではなく寺院の創建に尽力した俗世の資主を指す。要するに造営させた有力者のことである。
寺伝によれば、南北の両朝廷が戦いを繰り広げる京都から遠州に下向してこられた木寺宮康仁親王が、この地にお構えになった殿邸「遠州入野御所」の脇に御祈願所として造営し給うたのが成り立ちだという。
龍雲寺境内の今日では墓地になっている北東部に、かつて木寺宮家の御殿があったそうだ。寺伝によると、木寺宮家初代の康仁親王以来、「赤津中務少輔」を称せられた戦国時代後期の木寺宮八世が信濃国に逃亡なさるまで、木寺宮家はおよそ二百年間にわたってここに居住していらっしゃったという話である。
本堂に安置されている御本尊の木造阿弥陀如来坐像(※二〇〇九年三月二日に浜松市指定文化財。No.97)は、平安時代後期の作品とされ、寺伝では南北朝時代の開山に合わせて京都から木寺宮家がお持ちになったものとされている。徳川家康に攻められた際に、山門とこの御本尊だけが焼失を免れたという。
本堂の奥には、木寺宮家の御位牌が置かれており、その向こう側の壁には、開基・木寺宮康仁親王の御肖像画とされる絵が掛けられている。
さて、ここまで『寺伝』という単語を繰り返してきたが、これは寺伝の正確性が疑わしいからである。
山門付近に「開基康仁親王之墓 在當山」という石碑があることはすでに触れた。実際、境内の裏山中腹に「木寺宮康仁親王御墓所」とされる古い五輪塔があるのだが、南北朝時代の公卿・洞院公賢の日記『園太暦』によれば、康仁親王は京都で没したというから、その遺骸をわざわざ遠く離れた遠州にまで運んできたとは考えがたい。江戸時代に賀茂真淵の弟子・内山真龍が著した『遠江国風土記伝』には「妃君、宝勝院殿月窓妙桂大禅定尼(有古墓無名)」とあるので、元々これは康仁親王のものだとは断定されていなかったのだろう。
今日の龍雲寺は、南北朝時代に木寺宮初代・康仁親王によって創建されたと説明しているが、龍雲寺の存在を確認できる最古の現存史料は、戦国時代後期の永禄九(一五六六)年四月二十一日のものである。また江戸時代中期に聞き取られた古老の話によると、永禄年間に当時の木寺宮が信濃方面にお逃げになった後、もぬけの殻となった宮邸の地を寺としたのが龍雲寺の成り立ちだという。
以上のことから、初代木寺宮・康仁親王についての寺伝の信憑性には疑問符を付けざるをえない。しかしながら、木寺宮家の下向そのものが架空の出来事だと判断するのは早計だ。『浜松市史』は「木寺宮の傍系が滞在していたことはあり得よう」と書いており、また赤坂恒明(※内モンゴル大学モンゴル歴史学系特聘研究員)は、他に例がない「戦国期在国皇族領主」との位置付けをしうると評している。筆者も、康仁親王からかはともかく木寺宮家が遠州入野に居住していらっしゃったことは史実だと考えてよいと思う。
天正八(一五八〇)年五月、徳川家康が次の判物を出している。
当時の入野に「大宮様」と呼ばれる人物がいたらしく、家康は「大宮様」が存命の間はその御意思にお任せするとしたのである。「大宮」という言葉は、皇太后のお住まいを「大宮御所」と呼ぶように皇太后を指すことが多いが、皇族の母や男性皇族(※近代に「有栖川大宮殿下」や「朝香大宮殿下」などの例がある)にも用いられる。信濃国方面へとお逃げになった木寺宮ご本人がお戻りになっていたのか、あるいは木寺宮ご逃亡後も例えばその母宮がお留まりになっていたのか、いずれにせよ木寺宮家に属されるお方がまだ入野にいらっしゃったと解釈すべきだろう。
前田本『尊卑分脈』第一冊「帝王系図」附載「木寺殿」系図によれば、第五代木寺宮・邦康親王の王子の「童形」が西隣の三河国にお住まいになっていたらしい。また浜松庄は大覚寺統の荘園で、かつて木寺宮家の荘園が存在したという。三河国から遠江国に宮家のどなたかがお移りになった可能性は十分にあるだろう。
寺伝にもあるように、徳川家に攻められて信濃国へとお逃げになったことで木寺宮家は「戦国期在国皇族領主」としての歴史に幕を閉じて、それから程なくしてお血筋自体も断絶してしまったらしい。徳川家と敵対した歴史を持つ宮家によって創建されたという由緒は、江戸時代には積極的に誇るべきことではなかったようだ。
旧記などが焼失し、代々の尊号や墳墓も不明になり、一七世紀末の龍雲寺では、木寺宮家は既にほとんど忘れられた存在になっていた。今日、そんな龍雲寺が宮家の由緒を語ることができているのは、江戸時代後期以降に朝廷への関心が高まった中で、地域に辛うじて残された伝承を組み立て直そうとした結果である。
今日の龍雲寺は、江戸時代とは打って変わって木寺宮家との歴史的関係を大々的にアピールしている。入野町では「桜の樹木葬 宮家ゆかりの地で自然にかえる」という看板など、木寺宮家との繋がりを強調する龍雲寺の宣伝をいくつか目にするが、率直に言って「皇室商法」ではないかと若干の胡散臭さを感じてしまうほどである。
「日本本来」の結婚式を提供するとして境内に仏前結婚式場を用意しているが、その式場名も「木寺宮瑞鳳庵」という宮号を冠したものである。曰く、「かつて木寺宮家が代々お住まいであった地を総称として、木寺宮瑞鳳庵と呼ばれています」。呼ばれているという表現をしているが、自分で命名したものではないのだろうか。
また「木寺宮瑞鳳庵」の公式サイトは、龍雲寺の山門について「姫出世の門」と呼ばれているとしているが、こちらに関しても、本当に古くからそう呼ばれていた事実があるのだろうか。現代になって新しく生み出された縁起のように思えてならない。
日本には多くの寺社があるが、その中には創建された年を少しでも古く、または由緒ありげに見せたがって、縁起を一から創作したところが山のように存在する。西湖山龍雲寺の木寺宮康仁親王伝承を知った時、筆者はこれもそのような性質のものだろうと思った。
確かに康仁親王下向伝説は信憑性が低いし、近年になってからも木寺宮家にまつわるエピソードの創作がおそらくされているだろうけれども、木寺宮家の一族が戦国時代までお住まいになっていたことは史実だと推測される。龍雲寺はその点が、他の多くの皇室伝承とは根本的に異なっていて面白い。
2.六所神社
龍雲寺のすぐ北東に六所神社というお社が鎮座している。少なからぬ参詣者を日々迎えている龍雲寺に対し、足を運ぶ者はあまりいないが、こちらも同様に木寺宮初代・康仁親王が創建したと伝えられている。
参考文献
・『日本史のまめまめしい知識 第三巻』(日本史史料研究会、二〇一八年)より赤坂恒明「室町期の皇族、木寺宮とその下向」
・西田かほる「近世遠江における親王由緒:木寺宮をめぐって」(『静岡文化芸術大学研究紀要』第二十一号、二〇二一年三月)
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