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「正しい美」って、日本語として正しくないんじゃないですか?

小代焼中平窯の西川です(^^)

先日、出川直樹氏の著書『人間復興の工芸』を購入しましたので、その本の中から「美」と「正・誤」には、はたして相関関係があるのかどうかというテーマを考察していきます。

私のnoteではおなじみの宗教哲学者・柳宗悦氏は民芸(民藝)を語る際に、

・正しい美
・正当な美
・工芸の正系

といった趣旨の言葉を諄いほどに多用し、自身の民藝理論を力説していらっしゃいます。

私も10代の若い頃にはこの「正しい美」という造語を、何の疑問も持たずに受け入れていました。

しかし、よくよく考えてみると「正しさ」と「美しさ」を組み合わせてしまった場合、非常に奇妙な日本語が出来上がるのです。

「美」という単語に自然な形容詞を付けるとすれば、
・繊細な美
・力強い美
あたりの言葉が、日本語としては成り立つでしょう。


試しに「美」を他の単語に置き換えてみますと、
・大きい山
・清々しい朝
という言葉は普通の日本語だと感じますよね?

しかし、
「正しい山」「正しい朝」って言葉は、なんか変じゃないでしょうか?

それと同じような奇妙さが「正しい美」という造語には隠れています。




また、「正しい」という言葉は「何に対して正しいのか」という対象を必ず必要とします。

簡単に例えるとすれば、「1+1」という式に対して「2」という数字は「正しい」のです。

しかし、「2」という数字が、それ単体で何かの正しさを示す事はありえません。



それでは、柳氏の民藝理論は「何に対して」「正しい美」を示すのでしょうか?




柳氏の民藝理論において、作り手・使い手を含む全ての一般民衆は
「無知で無学で美意識を持たない存在」
と設定されています。

そのため、
そもそも美意識を持たない一般民衆にとって「正しい美」は存在しないも同然なのです。

民藝理論の中で柳氏自身が誇るように、当時雑器の美を認識したのは柳氏一人のみであったと仮定しましょう。

その場合、「正しい美」に対応する「何にとって」という対象は、
「柳宗悦氏という一人の個人のみにとって、正しい美である」
という式が成り立ちます。

そして、
「柳氏のみにとっての正しい美」
とはつまり、
「柳氏の個人的な好み」
と言い換えることもできるのです。


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柳氏の力強く、宗教的真理すら感じさせる断定的な言動は、それに心酔する者を一定数獲得しました。

それは柳宗悦教・民藝教という宗教の誕生を意味します。

(※10代の頃の私もその一人です。)



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私が柳氏に心酔した顛末を書いてます。



しかし、
柳氏が一定数の同調者を獲得したという現象は「柳宗悦好み」に同調する人数が増えたというだけの事であり、一般民衆を主体とする「正しさ」とは常に無関係であり続けたとも言えるのです。



2024年6月14日(金) 西川智成

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