鬱と診断されて1年と半年が過ぎた。出来ないことばかりが増え、出来ることが少なくなった。みてくれも悪くなり、正直人目に触れたくない。 薬を貰うために受診し、費用を払う。入るモノもないのに出ていくばかりだ。さりとて、薬を飲んでも奇死念慮は消えることはない。ずっとわたしの背後にしがみついている。 心のどこかでは報われたいとも思っている。でなければ、人生の採算が合わない。整合性がとれない、そう思う。今支払う診療費がいつか自分への見返りになると思っている。
前回はわたしの不安を書き綴ったが、今回はわたしの行く先について考えていることをまとめようと思う。 行く先、つまり将来はどうしたいか。答えは、考えられない。 働かねばならぬが、働けるのか。働くしかないのは分かっているが、現状から歩き出すことが出来ない。その一歩。とても近くて果てしなく遠い一歩である。どうして、その一歩が踏み出せないのか自分でも不思議なのである。 こんなことを言っては批判を浴びるだろうが、わたしはマトモでいたくなかった。気付きたくなかった。没個性であること
最近、強く思っていることは「治ることが怖い」ということ。再度わたしの病名を振り返ると、持続性抑鬱障害と鬱と社会不安障害の3つ。現状、病名が変更されたり疑わしき他の病気は無い。 さて、今、問題なのが「治ることが怖い」ということだが、原因は持続性抑鬱障害にあると考えている。こいつがどうやら本当に、わたしの昔から心に巣食う疫病神のようだ。いつから発症していたのかは主治医にも分からないが、おそらく物心ついたときには、今の感覚だった。 実のところ、昔(だいたい小学生から)の記憶が
鬱には完治がないと聞く。では、いつになったら治るのか。寛解といい、それは鬱状態にならぬようにしなければならない。投薬や、カウンセリングなどの治療を続けることがポイントだそうだ。 上記は、鬱と診断された日に主治医から聞いたことだ。何かの例えで「くしゃくしゃになった心は戻らない」と言われたりするが、まさにその通りだと思った。紙に文字をかいて消しゴムで消しても跡は残る。散り散りになった紙を集めたところで傷痕はのこる。 過去にとらわれ、傷を見つめて悔い改め続けた結果がこれだ。
秋風が立つ。冬の足音が近い。季節はいつの間にか移り変わっていく。 時間だけは平等に時を人々に分配する。そして、その価値は人によって決まる。私にとって時間は今となっては恐怖の対象でしかない。 朝が来て、夜が来る。日が昇り、日が沈む。刻々と冷酷な時間は私を常に焦らせる。「何かしなければ!」という焦燥感を、ベッドに横たわる私の心に残したまま過ぎ去っていく。薬のお陰で、死がすこしだけ遠ざかるのは良いことだが、ずっと脳の片隅に滲んでいる。真っ白な紙に墨を落とすのと同じである。どれ
先日、彼につれられて鳥取へ行ってきた。私はそこで、水平線をみた。島の無い、どこまでも続く青い海を初めて見たのだ。青いサテンを敷き広げたような海面、光が水面と空を分け隔てた。きらきらと光る美しい海だった。 「海は広いな 大きな」と歌われている意味を真に理解した。確かに、海は広かった。どこまでも青かった、大きかった。どこまでも続いていた。 海は広い。人類は狭い。海に生くる生物たちはこんなにも広い世界を知っているのかと思った。海は深いし、広い。人類が一代で解るような世界ではな
私のうつ病は、何かしらに絶望し怯えている。具体的な「何か」は無い。強いて挙げるならば、人や視線や言葉や態度である。 正直、疲れた。生きていくことに手いっぱいなのに、生活をしていくことがとても苦痛である。しかしながら、生活をしなければならない。 苦痛である。 この文章が不快と感じられた方へ、これが私のうつ病である。 自分には自分の地獄や苦痛があるように、他人には他人の地獄があるのだ。自分の地獄を同一視してはならない。
七夕は晴れるどころか、雨が降ることが多いそうな。無理に2人の逢瀬を覗き見るなど、野望ったい。 地上の事など放っておいて、二人っきりでいれば良い。 笹の葉が揺れる。 短冊が星々のようにヒラヒラ煌めく。きっと素敵なことだろう。きっと素敵なことでしょう。 今後一生、永遠に、小さい愛おしい命が、もう、何の害毒にも晒されず幸せに過ごして欲しい。たくさんの愛情に囲まれてスクスク育って欲しい
私は、鬱病患者である。 同情はいらない。 今までは普通に生きてきたはずだった。 少しのボタン掛け違いを感じてはいたが、みんなに合わせて生きてこれたはずだった。結局、ここまで生きてきて産み出したものは歪んだ劣等感と精神疾患だけだった。 薬の副作用の中、半ば夢見心地でつらつらとのろのろと目覚めては寝てを繰り返している。 幸せではないはずなのに、素直に手を叩いて喜ばないのはなぜだろう。どうして常に自分の発言動作に負い目を感じなくてはいけないのだろう。 起きる度に上記