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「仕事」について

童の頃、わしはなんとなく兎は好きだが亀が嫌いだった頃があった。
しかし何故か世の大人どもはウサギを否定し亀さんを手本にせよ、という。
あの二宮金治郎の様なスタイルが勤勉さ地道さを醸し、オトナ達の建前上の理想像だったのかもしれんが、幼きわしは感じていた。寝ているウサギを横目にそーっと通り過ぎてゆく亀の姿が思い浮かび、湧いてくるそこはかとない苦々しさを。

もう一つほのかに感じていた違和感があった。それはスピードだ。
事あるゴトに「早く!急げ!」を連呼するくせに、時折思いついた様に「急がば回れ」などと分別ありげな顔で言う。結局は急ぐのだ。
スローに描かれている亀もまたスピードのメタファーとして語られているに過ぎない。
運動会などで勝った時の高揚感の裏で幼きワシの感じていた座り心地の悪さはこんな矛盾から来ていたんじゃないか、と思う。

皆のモノ、挨拶が遅くなってしまった。のぶのぶである。
桜も散り、今回はおトヨとヤスとの3人同じテーマで書くターンで「仕事」についてになる。
不用意に書き始めるといくらでも広がってゆきそうなこのテーマ、道幅に気をつけながら綴ってみたいと思う。

かつて天下布武が目標であったあの時代を駆け抜けたわしだが、その根底に流れている仕事感は昔も今も変わらず、「人生をまっとうする事」だと思っている。
昨今、多くの者が生きるコトに向き合い「人生の命題」とか「自分らしさ」の探究など、これまでの「あぁ、幸せだなぁ」と感じる部分の一部に深い切り込みを入れるようになってきた気がする。
ちょっと前まではこんな個人的探究は限られた一部の者しかしてなかったのだが。

ここには時代の変化が背景にある。
農家に生まれれば農民に、商家に生まれれば商人に、武家に生まれれば武士になるのが当たり前。それぞれその枠の中で、また土地の風土にあった自己研鑽と出世を目指した時代があった。
その後、現代に繋がる「国家」というのが生まれ、皆平たく「国民」になり、同じ教育を受けるようになった。
この辺りまでは「個人」と言うものの存在感はまだ薄かった。
わしは戦国大名に生まれ、その時代の流れの中で目指すべきものを目指したし、それがたまたま家の存続と天下国家というものだった。

近代になり、農民も商人も武士も皆国民になり、また国家から見ての労働力になった。
家族の形も会社や教育というやつもその為に生み出され、列車や電信の技術と共に生産性とスピードを加速させるべく皆懸命に働いた。その結果、戦争・敗戦もあったが国も国民も豊み、民主化も進み、皆それぞれ幸福のバリエーションが大きく増えていった。
人類の壮大な実験でもあったんだが、自由主義世界ではファッションや芸術が花開く時代となり、逆に共産主義世界ではモノトーンで全体性が強化されていった。

日本では画一的な教育や仕事の選択に様々な変化が起き、個性の発揮の仕方に競争原理を働かせ始め、更に大きな豊さを求めるようになってゆく。
そんな頃だ。「個性」とか「多様性」が叫ばれる様になったのは。この辺りから世の中が面白くまた怪しいことになってくる。
「その個性の競争に勝てば誰もが社長にもスポーツ選手にも政治家になれる。」そんな夢を手にする時代に入る。「民主化された戦国時代」、そんなイメージでわしは捉えている。

「世界で一つだけの花」という歌がヒットし、「24時間戦えますか?」などのフレーズが世の中でブームにもなった。個性の戦いに勝ち、オンリーワンという名のナンバーワンを目指した。
ある意味無邪気な良い時代だったのかもしれない。
この時代の流れの底辺に冒頭のわしの「亀さん」への違和感もあったのだろうと思う。

今生のわしの個人的な仕事感の話をさせてもらう。
初めて田舎から江戸へ来た時の事はよく覚えている。そびえ立つビル群に怒涛の人・人・人!! 
山手線のホームでは朝夕、大量のサラリーマン・OLを飲み込んでは吐き出す列車の循環を見、その喧騒の熱量に地球を傍観する宇宙人の様な不思議な感覚になった。
そして、その情景に「宇宙から見たらこれは労働分配器に見えるだろうな…」と地球人を理解しようとする宇宙人の様な呟きが口から出た。

この労働分配器、とても優秀で首都圏の隅々まで張り巡らされている。
ヤスの作った頃の江戸は螺旋状に伸びる運河が人や物を運んでいたが、今ではそのスピード・量は数千倍になっているんじゃあないだろうか。
その後わしも一時期この分配器の一員となり、日々決められた時間に決められた建物へ運ばれ、「個」が消失してゆく感覚も身体で味わった。この時も宇宙からそんな自分を眺めている感覚でオモシロイ経験だった。
このコトは冒頭の亀さんの話しの延長上にある。

わしは仕事が好きだ。
今生のわしは多分多くの道くさや遠回りをしてきたと思うが、それぞれの道中に美しい草花があり、苦い木の実があり、楽しい奴・やばい奴との出会いがあった。
その出来事の多くが仕事の中で出会っている。
生業としての仕事もあればライフワークとしての仕事もあり、またボランティアとして取り組んでいるものも仕事のイメージの中にあるのだが、そこには自分で掲げた理想や目標があり、その為の偶然か必然かは分からない不思議な出会いもあり、笑いも涙もあった。

その一つ一つの出来事に際し、自身がどう振る舞って来たのか、自分の中に落とし込んだもの、たとえそれが他者から見た時に不正解に見えたとしても納得出来るモノであるかどうかがまだ人生の半だが振り返って見ると大事なんじゃないかな、と思う。
AIの出現でこれから精度の高い「答え」に出会い、それに向かい如何に振る舞うか、我々にとって新たな経験となろう。

皆のモノ、自分の中に棲むうさぎと亀をもう一度競争させてみよ。
世界に一つの花も良いが普段歩いている道で出会う花に声をかけて見るのも良いぞ。
そんな中で自分が喜べる仕事が作られてゆく、改めてわしはそう思う。

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