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阿含経講義・五根法「善聚品」「分別経」の効果と「信根」

お釈迦様が修行法として定義している七科三十七道品のひとつ、五根法について阿含宗開祖の解説+アルファで述べていきます。

五根法を修行して四沙門果に至る

私はこれから善聚を説きます。
弟子たちよ、これをよく心にとどめなさい。
なにを善聚というのでしょうか?それはいわゆる五根です。
なにをもって五とするのでしょうか。
それは信根・精進根・念根・定根・慧根の五つです。

もしもこの五根を修行する比丘がいたならば、その者はシュダオンとなり、不退転の法を得て、必ず真理に達する道を成就します。

シュダオンを得たあとも五根法の修行をさらに進めればシダゴンとなって、人間界と天上界を一往来して完全に解脱を得ます。

シダゴンを得たあとも五根法の修行をさらに進めればアナゴンを成じてまたこの世に還らないで、そこで涅槃を得ます。

アナゴンを得たあとも五根法の修行をさらに進めれば、全ての煩悩・因縁がつきて無漏心解脱・智慧解脱を成就します。
すると自らの身に成仏の証を立てて、佛の境地を喜び楽しみ、生死輪廻や転生はすでにつき、梵行もすべて成し終わり、やるべきことはすべて成し遂げて、もう二度と受胎することはないことをありありと知るのです。

増一阿含経「善聚品」
仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上】P.295

原文、書き下し文は実際の書籍を手にとって頂くか、原典を見る環境にある人は、そちらを参照ください。

シュダオン、シダゴン、アナゴンというのは四沙門果と呼ばれる六道輪廻から抜け出して聖者の境涯に入った人達の霊的なランクの名前です。

今でも時々「八正道」こそが仏陀の修行法だと書いているのを見かけることがあります。
七科三十七道品の七科目の一科目として「八正道」があり、またここで説明している「五根法」も同様に七科の科のひとつです。
だから 「八正道」 こそが!とか、 「八正道」だけが!と断言している文章を見かけた場合、その人の説明は誤り(大目に見て説明が足りない、もっと多めに見てその筆者の勉強が足りない)となりますので、読む側は注意しましょう。

信根

信根とはなんでしょうか?
如来のみもとにおいて清らかな信心を起こし、その信心を堅固で確固たるものにして、世間の仏教以外の出家者やバラモンをはじめ、もろもろの天や魔の信仰、仏教に似て非なる信仰、さらには世間のさまざまな誘惑によっても、その信心が害されることがなければ、それが信根を確立したということなのです。

雑阿含経「分別経」

簡単に言えば仏陀の教法を信じること、仏陀を信仰すること、ということではありますが、阿含宗開祖はこのように説明しています。

なにがどうあっても、天地が逆になっても、自分の信心を堅固にしてビクともしてはいけません。そこまでいった人が信根のでき上がった人です。
仏様の教えを信じ、身につける。これが梵行の根本です。信根とは梵行なのです。不動の信心を、自分に叩き込んでいく、自分の身に備えていくという梵行が信根なのです。

仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上】P.342

如来のみもとにおいて、信じる

もうひとつ、阿含宗会員信徒には常識中の常識なのだが、この「如来のみもとにおいて」という部分、漢文では「於如来所」という4文字が最重要項目です。

「如来のみもとにおいて清らかな信心を起こ」す必要があるのであって、如来がいないところで信心を起こしても、それは信根の成立条件を満たさない。

仏教を思想、哲学、倫理、道徳として捉えていて、信仰として認識していない人は、スタート地点にすら立てていない。

仏典を読んで、理解した気になって、自分は仏道修行者だ、自分はお釈迦様が好きなのだ!と、どこかでひとりで粋がっていても、それは「如来のみもとにおいて」ではないのだから、やはりスタート地点で失敗している。

「そんなことはない!自分は何々如来の仏像を持ってますから条件を満たしています!」という人もいるかもしれない。

それは誤りの可能性が極めて高い。

あなたのそれは、如来「像」であって、霊体の如来そのものではない。

あなたが如来「像」に祈って信仰していると思っている行為は、実はアニメショップで購入したエッチなフィギュアに祈っているのと同じであることに気づかないといけない。

エッチなフィギュアから勇気や喜びや愛情をもらう人はたくさんいると思うけれど、人間の悪因悪業・カルマを断ち切って人を救済する力は無いでしょう?
あなたが信じている如来「像」も、それは同じことなのです。
これは気づきたくない、認めたくない厳しい現実です。

如来の信を得て助力をいただく

そしてもうひとつ、阿含宗の実際の現場で言われる重要項目に、本物の如来から信用・信頼を得ることが挙げられます。

「この者を助けよう、助けなればならない、人々を救うための活動にこの者の力を借りよう」と本物の如来、御本尊様が思うような、そういう自分になる、なれるように努力するということが重要です。

自分が一方的に信じるのではなくて、本物の如来からも信じてもらう必要がある。

仏教の修行というのは、教義教学を思想、哲学、倫理、道徳として学び、瞑想テクニックを実践できれば良くて、信心なんて不要だと考える人もいるかもしれません。

それは誤りだと断言します。

仏教修行をして、六道輪廻を離れて四沙門果の境涯に入るという実践の修行は、自分自身の魂そのもの、人間存在そのもの、潜在意識、深層意識の書き換えを伴う行為です。

それは人間風情の瞑想テクニックでは不可能で、人智を超えた霊的エネルギーの大量注入が必要であり、その霊的エネルギーの持ち主が本物の如来です。

「如来とかいうお前!この俺様にエネルギーを注入して、俺様を無敵の存在に変えてみやがれ、コノヤロー」という態度では一切の協力が得られないということは、一般常識レベルで御理解いただけると思います。
霊的エネルギーを提供する側にも意思があるのですから。

信根の本当のスタートは如来と出会うことから

そうすると、自分を信じて、力を貸してくれる本物の如来はどこにいるの?ということを考えなければいけない。

信根の本当のスタートは、人間の悪縁を良縁に変えて、悪因悪業・カルマを断ち切るような人智を超えた力を持つ本物の如来と出会うことから始まると言っても良いでしょう。

ということで、こちらの実例をお読みいただいて、考えていただければと思います。
魂レベルで人を変える力とは、「縁」を変えて未曾有の大災害でも命を落とさせない力を持つことだ、という話を数字で説明しています。


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