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ママは赤ちゃんになった。
「ひよこ、驚かずに聞いてな。兄ちゃんがさ、遠位型ミオパチーって病気なんよ。」
出産が迫った、3月の事だった。
「話したい事がある。」
両親からの深刻なLINEの後、2人は家にきて、私と夫にそう話した。
「遠位????(変な名前やな)...どんな病気なん?命に別状はあるん?」
やっとこさ口を開き、確認した。
「命に別状はないよ。でもな、進行性で筋肉がなくなる病気やねん。国内に400人しかおらんのやって。」
「そうなんや...。まあとりあえず、命に別状がなくて良かったわ...。」
徐々に話を心の中に落とし込もうとした瞬間、両親がこう言った。
「今日来たのはな、それが遺伝性の病気やからやねん。」
「....は!!!!??????」
こうして202×年3月某日、私は両親より、難病宣告を受けた。
よくコケる私をみて、もしかしたら、と思っていたそうで。
私自身も、もしかしたら、
その想いは拭えなかった。
でも、まだ決まったわけちゃう。
今普通に歩けるし、日本で400人の中に、選ばれるわけないやろ。
そう思って、出産まで、少し悶々としながら、でも気にしないように過ごした。
しかし、その想いとは裏腹に、出産したら、足がもつれて歩きにくくなった。
でも産後の、歩きにくさもあるかもしれないし...。
1年以上経っても、状態は変わらなかった。
覚悟を決めて受診したところ、兄と同様の診断がおりたのであった。
そこからは、崖下に落とされたような日々だった。
毎日、泣いて、多分一生分泣いた。
毎日、下を向いて過ごしていた。
でも、不思議なもので、凹むのも疲れてくるのである。
凹み疲れるなんて、初経験だった。
外に出よう。
自然とそう思い、気分転換に、娘とベビーカーで外に出た。
よたよた足でベビーカーを押し、近くの区役所まで歩いた。
歩いててもチラつくのは、病気の事。
(この先、どうなるんやろ...。娘や、夫にも介護してもらわないとあかんのかな。迷惑、かけてまで生きたくないな。)
生きているのに、未来が決まっているなんて、残酷な話である。
そして、顔をあげた瞬間、
1枚のポスターと、目が合った。
この瞬間、きっと一生忘れない。
可愛いゾウの絵に、
“紙芝居コンクール募集”
そう描かれていた。
(昔、図画工作とか好きやったな。絵描くのも、話書くのも好きやったな...。)
懐かしい記憶が蘇る。
それに...
無心でやったら、辛いこと忘れられるかも。
「よし。」
自分を救いたかった。
「やろう。」
そう決めたら、夫と両親が、全力で協力してくれた。
画用紙など、用具の調達、子供もみてくれて、
ビックリして、ありがたかった。
それから、〆切までの2週間、無我夢中で描いたのが、
空飛ぶゆづちゃんである。
ゆづちゃんという赤ちゃんが、町のスーパーヒーローになるお話だ。(最後少し変えている)
私が夢で見た話を、そのまま紙芝居にした。
ただただ、楽しい時間だった。
受賞はできなかったけれど、この紙芝居が、戻ってきた時、思いがけず、読んでくださった方の感想が入っていた。
「応募してくれて、ありがとう。」
「夢のある話をありがとう。」
自分が楽しいと思った世界を、誰かも共有してくれることがこんなに嬉しいことなのか、と初めて知った。
小さい頃大好きだった、絵本作家のあまんきみこ先生に、お手紙も書いてみた。
数ヶ月後、まさかのあまんきみこ先生がお返事を送ってくださった。
可愛らしい文字で、感謝と、子育てへのエールが綴られていた。
嬉しすぎて、ポストの前で叫びまくった。
走れていた身体は、歩きにくくなって、
左の人差し指は、曲がらなくなって、
何時間も平気で歩けていた身体は、徒歩10分で足が痛むようになった。
でも、いつも何かに遠慮して、言えなくなっていた本音は、どんどん言えるようになって、
好きな時に、泣き、笑い、感情を出せるようになった。
まるで、赤ちゃんのように、
身体は不自由だけど、心は自由に戻っていった。
だから、きっと、これからも、
わたしは”ミライ”に向かって、歩いていく。
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