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PASSION 【古き良き日本】とは。

野球が上手になったのは、移民として当たり前

 12月19日、少年野球の練習試合があるからと、文野さんが再びウルキーサ移住地へ連れて行ってくれたのだが、車に乗り20分も経たないうちに大雨となってしまった。日本でも経験したことのない激しい雷雨。練習試合は中止になる。文野さんのお兄さんとお姉さんの自宅で話を聞かせてもらうことになった。文野さんの野球仲間・中島さんも、自宅で育てたというぶどうを手土産、話をしに来てくれた。

 文野さんは1948年10月に高知県で生まれ、中島さんも同年11月に愛媛県で生まれた現在61歳だ。二人は家族とともに58年にパラグアイのサンタロサ移住地に入った。
 サンタロサ移住地は1957年に入植が開始されている。文野さんも中島さんも、開拓が始まって2年目というときにやって来たのだ。辺りはまだまだ原生林。文野さんのお兄さんは言った。
 「アフリカのようなジャングルのイメージだった。ターザンができるんじゃないかって思っていた」
実際、予想は当たっていた。
 「太陽が見えないくらいの密林だった。腰を使って斧を持って開拓していく。大きな木を倒すのに2、3人がかりで数日かかったよ。鉄を切るようなものだから」
 当時を振り返る。
 「辛いとか、そんなことを感じるヒマがなかったよね。親としたら、子どものことを考えて移住したのに、“子どもを犠牲にしてしまった”と、ほとんどの親は思っていたはず。我々としては楽しかったけれど」
 唯一の休日である日曜日が野球の練習日になっていた。朝から晩まで野球漬け。パラグアイ特有の赤土は、太陽の熱をよく吸うために夏の地面は火傷をしてしまうほど熱かった。だがそこがグラウンドなのだ。野球をやるのは当たり前。それしか娯楽がないのだから。 
ボールはそのへんの布を使って縫って、バットは木を倒して削って。1、2キロあるバットを振っていた。バットにしてはかなり重い。
 「みんなが力持ちだった。開拓しているうちに自然に体力がついたんだね。学校だって、5キロの道のりを歩いて通っていたんだから。雨が降った日は、長靴がないから裸足で通っていたんだよ。
普段の生活で鍛えられていたから野球も強かったんだと思う。体力だけはあった。しかも教育はスパルタ式。ケツバットもあった。親に怒られた回数より、野球をやっていて怒られた回数のほうが多いはず」
 過去を振り返りながら、みんなが笑っていた。中島さんが言う。
 「青春時代を野球で過ごしてきたから野球が一番。メジャーリーグが始まったら夜中まで見るし、会社に行く時もギリギリまで見ているよ。日本の選手がどこのチームに入ったのかを調べてノートに書いているわけさ。
 日本の移住地にはね、昔の日本があるわけさ。日本人の心、考え方、習慣が息づいている」
 
 戦前から多くの庶民に“贅沢”はなかった。あるもので工夫してやりくりした。だから日常で生まれる小さな幸せを、存分に感じることができたのだろう。
 例えば、近隣の人とおしゃべりを楽しむ。自分たちで育てた美味しいものが食べられる。子どもが元気良く遊びに出かける。悪いことをしたら、子どもを叱る。子どもと喧嘩になったとしても、翌日には親子で笑っている。
ささいなことに、ひとつずつ“生きている実感”があった。
 古き良き日本とは、きっと、生きている実感があることなのだ。

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