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できないとしたくないはちょっと違う


まぁ、
「できない!」

「したくない!」
っていう表記にすれば、それらが違うのは一目瞭然なんですけど、結構これらを混同してることで社会生活に不和が生じてることもあるので、その辺の話。



先天的な能力によって、
「どう工夫しようとできないものはできない!」
という事柄って人それぞれ抱えてると思うんです。

骨格、それに伴う筋肉や脂肪の付き方…挙げればキリが無い位に私たちは一人一人抱えてる条件が違います。だから、動きにも当然個体差は生じるので、できることとできないことにも差は出てきます。

ですが、そういう【変えようのない差】による、
[できないのは仕方がない]
という部分を全く理解できずに
「できないのは努力してないからだ!」
だけで解決しようとする考えなしもいて(今もまだいるのかな?流石にもういない?わからないけど)、パワハラやモラハラに繋がったりしてしまう訳ですね。



全く別の例で、
【その仕事においてキャリアがあるからこそ簡単にできる作業】

【能力もキャリアも何も無くても誰でも簡単にできる作業】
これらの差が分からずに
「何でこんな簡単な作業できないの!!?」
と、叱責する考えなしも結構出会ったことがあります。

同じ作業を何度も何度も行っていれば簡単にできるようになる作業であっても、新人にとっては
「(慣れないから)できません!」
というケースも重々にしてあり得ます。



「どうしてもできません!」
には、結構理由が存在するんですよね。



そんな中で
「(やりたくないから)できません!」
という人も当然いるんです。

「いや、「やりたくない」とか「やりたい」とかじゃなくて、仕事だから、やってください!」
みたいな場面であっても
「(なーんか、この作業したくないんだよね。だから)できません。」
っていう人もいます。



私はエンパス体質です。似たような繊細な体質の人も、これらの
『「できない」の中には様々な種類が存在している。』
という事実が簡単に分かるのに、周りの人には全然伝わらない、という苦い経験をしたことがある人、結構いるんじゃないでしょうか?いませんか?

私個人的には、「できません。」に対する"原因"が結構大事だと思っていて、
「できません。」
と言われたら、
「○○してみてもできませんか?なら!△△してみた場合はどうですか?」
など、「できない。」の"要因"が能力によるものなのか、精神的部分によるものなのか、慣れによるものなのか…色々とヒアリングしたり、試させることを繰り返すことで、ある程度できるようになる人の方が多いとも感じているんですよ。

成長のスピードなんてそれこそ人によりけりではあるんですけど、多くの人に
「できない!」
なんてものは無いと、私は感じるんです。

ですが、経営者や、組織の上の方の立場の人になるにつれ、

「できません。」=やる気がないからだ。

としか見ないタイプの人が増えるんですよね。

これ、本っ当に不思議なんですけど、どんな会社、職種であっても、上にいけばいく程
[できるかできないかはやる気に起因している]
としか考えていない考えなしばかりでした。(私の経験に基づく話です。)

だから、成長の可能性も、仕事の伸び代もある人財を
「あなたはこの職場に向いていません。」
って、切り捨てる人間を数多く私は見てきたんですよね。

ねぇ、じゃあ、今まで真剣に新人を教育しようとしてきた私の頑張りって何やったん?

って、上司をボコしたくなっていた私のかつての気持ちよ……笑



話を戻しまして、仕事などの作業で
できるorできない
を量る際は、
『"根性論"とか"感情論"だけじゃなくて、様々な要因がある中から原因を見出ださなきゃいけない!』
って、考えられる人が1人でも増えたら良いのにな、って私は思うんですよ。

つまり根性だのやる気だのの体育会系のノリはクソって話なんですけど

世の中に"組織"として成り立ってる仕事のほとんどは、原因究明すれば大概の人が"苦にならないで"こなせるようにはなるっていう部分、もっと広がって然るべきかと思うんですよね。

そういう部分を細かく把握してる人の比率が高まれば、
・生活に困窮する人
・人手が足りなくて困る組織

双方が減るんです。

引いては安定感を得られる人も増えるので、鬱など精神的な病だって減らせる可能性も見出せると思いませんか?



私個人的には、逆も然りだと感じていて、
「自分は年寄りだから、手伝って貰って当然。」
というスタンスの年寄りに対しても憤りを感じます。

「(本当は面倒臭いから、年寄りであることを免罪符にして)できません。」
と、訴える人間にもかなり出会ってきました。ですが、こういう
『【『やりたくない。』という感情】の尻拭いを"動ける人間"が担って当然!』
という風潮は間違ってると、私は考えています。

年寄りだけでもないのですが、
『自分は弱者なのだから、手伝って貰って然るべき!』
という姿勢の人間がどんどん減ると良いな、って思うんですよね。



社会生活というフィールドで考えずとも、自分という個人で捉えてみた場合でも
『できない!』

『したくない!』
を明確にできておくことって、とても大切なんです。

『できない!』
と、思い込んで、本当なら工夫すればできるようになるはずなのに、自分で自分に
『無理だ!』
と制限をかけて自分の可能性を潰してしまっている場面も少なくありません。

一方で、
『(本当は)したくない!』
なのに、
『できないのは努力が足りないせいだ…。』
と、無理をし続けて身体やメンタルを自ら壊してしまう場面だってあります。

いずれにせよ、
『自分は何故できないのか?』
という点を正しく捉えているのといないのとでは、自分の人生の軌道がかなり変わってくる訳です。

せめて"自分の"実力や心情をありのままに見極めて、不和無く過ごせる方が幸せだと思いませんか?



私、身長が158cmなんですけど、そんな私が
「ダンクシュートできるようになれ!」
って指示されたとしても、不可能に近いと思うんですよ。

「いや、できません。」
って言ってるのに
「努力しろ!」
って言われて、ひたすら跳び続けるのって、かなり時間の無駄じゃないですか。

もし、私が
「私はどうしてもダンクシュートできるようになりたいんだ!!!」
っていう野望を抱いていたのであれば、その努力は無駄にはならないかもしれませんが、別にダンクシュートに思い入れが無い私にとっては、ひたすら跳び続ける時間の中で得られるものって、ほぼ無いと思います。

こういう感じで、
・自分が発揮できる性能
・自分が理想とする意志

を明確にした上で何かに挑む機会が増えれば、人生への幸福感が増すんじゃないでしょうか?



「先天的理由により、できません。」
「自分の思想に反するので、できません。」
色々と、できない事由がストレートに受け入れられる世の中になれば良いのになって、私は思います。

できない人が現れれば、必ずできる人も存在するし、したくない人が現れれば、必ずしたい人も存在する。この二元性がもっと当然のものとして広まれば、我慢しなければいけない人が減るのでしょうかね?

何にしても、我慢を続けながらやる人が1人でも減ったら良いなって思います。


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