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私が失っていたもの



{2023.07.22の記事}

歯医者さんでおすすめされてから歯科専売のキシリトールガムを噛む習慣が出来てるんですけど、今日遂に夢の中でも食後に慌ててガムを噛んでて
『習慣って凄いな…。』って軽く引きました。

 

本日の話は
🔻こちらの記事 🔻

を読んだ後にお読みいただくとより一層楽しんでいただけると思います◎

ご自身の中で
甕をイメージしてみたり、
甕とは何かということを考えてみてから今回の話を読むことでより深く、あなた自身の価値観を見出すきっかけになると思います*⌒ω⌒


心が貧しい人がかつて奪われたものというのは、

【価値を感じる心】

なのです。


価値を見出す眼識
価値が判る認知

という風にも捉えられるでしょう。

様々な物や事柄において、
『これには、価値がある。』と感じられる心こそが、豊かさの本質なのではないでしょうか。


以前から何度も書いてきましたが、私は、[自分の選択肢に対して逐一母から否定される]ということを繰り返しながら育ってきたんです。

母親の好みに合わない物を私が選ぼうとすると、
「何でそんな変な物選ぶの?」
と、確実に否定されたり
「あんたは、本当にくだらない物が好きだよね。」
嫌味を言われ続けながら育ちました。

そういう経験から
『私って、センスが無いんだな…。』の、ような自己否定感を積み上げつつ、何を選ぶべきなのか分からないまま、迷走しながら生きてきたんですよね…。

「私は自分の親を毒親だと思ってる。」と、何度も書いてきたのですが、世間一般的に"毒親"として認定される人を定義しようとした場合
・子供の選択肢
・子供の選択する力
を奪う親のこと
を指すと、私は感じています。

暴力や精神的暴力、方法は様々あるのですが

【"子供が本当に望んでいる選択"を選ばせないようにする親】

に対して"毒親"だと感じる人が多いんじゃないかと思います。

なので、私がずっと経験してきた、[自分の選択を否定される]という行為や、それが転じて
[『どうせ、何を選んでも否定されるから…。』と、選択しようとする意欲から削がれる]という経験は、毒親育ち特有の経験なんじゃないかと思うんです。

(まぁ…子供の選択に対して何でも「OK」と言ってくれる親の元で育った経験が無いので、逆の立場のことが分からないから、何とも言えない面もあるという部分は否定できませんが…。)


[自分の選択を否定される]
この経験っていうのは、

[自分が価値を感じるものが否定される]

っていうことに直結するんですよ。

これを繰り返すと、
【自分が価値を感じていたもの】に価値を感じなくなるし、
【価値を見出だそうとする力】も徐々に失うんです。

そうして、自分の周りにある様々なものに価値を見出せなくなって、人生が灰色に変わるんです。

辛いですよ、様々な事柄に対して

ときめかない

っていう状態のまま人生を過ごすのって!


私個人は結構、自分が気になったことやハマったことに対して
『もう少し深く調べたい!』っていう、知識欲みたいなものは失わずに生きてきたので、見方によってはヲタク気質も持ち合わせてるとは思うんですよ。

だけど、
【自分が好きなもの】
【自分が価値を感じるもの】

『お金や時間を掛けたい!』という感覚意欲無いんです。

分からないんですよ、そういう
【推しを愛でる至高】という感覚が。


自分が少しでも『良いな!』って感じた何かに対して
『だけど、これを「好きだ」と言ったら、また、傷付くことになる…。』っていう無意識下の強い強い拒否反応を抱えたまま生きている感覚って、毒親育ちあるあるなんじゃないかと思うんですけど…どうでしょうか?

日本においては、毒親育ちに限らず
『これを好きだと言ったら…世間体的にどう思われるのか…?』という部分は非常に強く意識させられる文化が根強いとも思います。

程度の差は家庭毎に異なりますが、

自分の感覚<世間体

という意識が強い家庭の方が多いと感じている人はそう少なくないと思うんですよね…。

『世間がどう思うのか?』という、曖昧で、何の支軸にもならない価値基準が優先される

なんて、おかしいということが一目瞭然なのに、それを優先している(されている)ケースは少なくない

って理解している人の数の方が多いのではないでしょうか。

皆様はどうでしょうか?


現代は

『流行っているもの(多くの人から支持を獲ているもの)にしか価値がない。』

という感覚が強くなり過ぎてしまったという風にも思います。

自分の好きな物が、世間受けするかどうか見極めてからでないと「好き」だと言えない。

という空気感が強くなり過ぎていると感じませんか?

この話を読んでいるあなたはどのように思いますか?


こういう【流行】を重視する流れは、マーケティング戦略によって生み出された架空の祭りなのに、その祭りにノれなければダサくて、逆にノってさえいれば他はどうでも良い、というような歪んだ風潮こそが私たち一人一人の持つ【価値を感じる心】を奪ったのだと私は感じています。

この、
【奪われ続けた"価値を感じる心"】の集大成こそが、現代の貧しい日本なのではないでしょうか。

私は、【トレンドばかりを追い続ける思想】を強化してきたマーケティング戦略こそが日本を貧しい国へと変えたと感じています。

過半数が「良い」と判断するものだけが唯一の正解だとする風潮こそが、貧しさの根元だと思うのです。


かつての私は、何事においても文句ばかり言うし、[あら探しをわざわざしては、ケチを付ける]というのが当然として育ちました。

しかし、少しずつ少しずつ、
『いちいち文句を言うのはおかしい。』
『あら探しをすること自体がおかしい。』
と感じるようになってきました。

[文句を言うのではなく、感謝できる部分を探して、感謝を述べる]
[あら探しをするのではなくて、褒める部分を探して褒める]

↑こっちの心のあり方の方が正しいというか、自然というか、人としてあるべき姿勢なんじゃないかな、って今は思います。

ところが、未だに
『文句を言ってる自分が偉い!』
『他人に指摘することで良い仕事ぶりを発揮した!』
のように思っている人が一定数いると感じるのですが、そういう人たちを見ると、かつての自分がそうだったからこそ、
『いや、そのスタンスはおかしいんだよ!』
『てか、私が治せたんだからお前らも治せや!』
みたいに感じてしまうことがあります。

見境なく伝えるなんてことはしませんけどね。

こういう[文句を言ったりあら探しをする]という心理状態も、心の豊かさの器が小さいことを顕著に表しているので、改善できる人が増えるのが望ましいと思います。


もっとも、最近の若い人は、自然にできている人が多いとも思うんですけどね。

それでもやはり、育った環境次第では文句ばかり垂れるのが自然であるように育ってしまうので、沢山の人が
『自分は文句ばかり言ってないかな?』と、振り返る機会を設けることは大切なことですね。

何でも良いんですけど、自分が「良い」と感じる物に対して他人から
「何それ、ダッサ!」
と、言われたことがある人もいると思うんですけど、自分が「良い」と感じる、要は価値を見出している物に対して否定してきた他人は[その物に価値を見出だせていない]というのが真実なんですよね。

本来なら、

[「ダッサ」と、言った人間の方に【価値を見出す眼識】が足りてない、備わっていないだけ]

という認識になるのが正しいはずなのですが、
[「ダサい」と言われた側がおかしいかのように扱われるケース]
少なくないと思います。

一部の人にとっては、センスを勉強するために地球に産まれてきた魂もいると思うので、他人からの「ダサい」という言葉を受け止めなければならない場合もあるでしょう。

しかし基本的には

【自分が「良い」と感じるものを選べる】

ということが自分の豊かさを拡大していくためにとても重要な要素なので、本質的な豊かさを得るためにも
【自分が良いと感じた心】を信じて、貫ける強さも育む必要があるとも言えます。

反面、自分の「良い」だけにとどまらず、他人の感じる「良い」に理解を示せる幅が広い程、豊かさの間口が広いことになるので、自分の意見だけに固執しない、しなやかさを保つ必要があるとも言えます。

心を強く持つ部分としなやかに融通を利かせられる部分と、しっかり見極めつつ自分の甕を育てていけると良いですよね。


世の中の
[物質的豊かさに固執してしまって不安が拭えなくなってしまっている]多くの方に届きますように。

おわり


何気に繋がってるんるん

1個前の🔻購入品紹介の記事 🔻

を書くときに

「いやいやいやいや、「豊かさって物質じゃない」って書いておきながら、何で物質を手に入れた話を書くねん」

って、感じる人の方が多いんかなー?
とか、地味に思った。

けど、実は私の言いたいことの本質というか根幹は繋がってて~……

私が『可愛い~💘』って思った物に対して
「は?どこが可愛いん?ダサくない?」
って思う人も、世の中には一定数いるはずなんですよ。

この世は二元性なので。

「良い」と思う意見には必ず「悪い」がどこかに生まれるのは当然の話だと私は思います。

その上で、
「私は自分が買ったポーチを『可愛い💘』と感じる価値観という豊かさを持っていたんです。」
という話なんですよね。

私が買ったポーチを『ダサい。』と感じた人には、あのポーチを『可愛い。』と感じる価値観が備わってない
っていう話なんです。

私は【ポーチを『可愛い』と感じる豊かさ】を持ってたから、

ポーチという物質を手に入れることができたんです。

逆に【ポーチを『可愛い』と感じる豊かさ】を持ってなかったとしたら

ポーチという物質は目の前に現れません。


逆も然りというか、私が『可愛い』と思わない物も、世の中にいっぱいあります。

それは、
[【私がその物を『可愛い』と感じる豊かさ】を持ってない]
っていう話なんですよ。

それで、かつては
[自分が【『可愛い』と感じる心】に蓋をしていた状態]
だったところから、
[素直に【『可愛い』と感じる心】を解放できたんですよ]
っていう話で、私は私の豊かさを広げることに成功したんだよ◎

っていう…ね。


この話は是非とも沢山の人に伝わることを祈ってます!

多分【豊かさの本質】の話って深過ぎて、
『そういうことか!』ってピンとくるためには、体感することが結構大事だと思うんですよ。

🔻この話 🔻

とかでも書いてきたんですけど、買い物っていう実体験を経ると学びが腑に落ちやすいから、購入品紹介の記事って凄く参考になりやすいんじゃないかと、私は思ってます◎

別に私と同じ物を同じように買うってことを推奨してる訳じゃなくて、

[どういうメンタルでどんな風に買ったことで、どういう考え方に変わったのか]

っていう部分が伝わると良いなと…。

とりあえず、毎回ではないですが、
物質じゃない豊かさに気付くヒント】をちょこちょこ書いていくので、必要な方が上手く受け取ってくれたら良いなって思います☆

心の貧しさからは絶対に全ての人が脱出できるんだと、私は信じています!


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