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【自己紹介】43歳で本当に欲しかったものを手に入れた

はじめまして。とおるです。

まずはじめにカンタンに自己紹介します。



妻と19歳、17歳の娘と
名古屋に住む47歳



偏差値70超えの高校・大学・大学院を出て、
43歳までは、日本を代表する超安定の大企業へ。
俗に言う「エリート街道」まっしぐら。



そんな中、大企業のルールやしがらみ、
ストレスにまみれた人生に嫌気がさし、
世間のレールから意を決して飛び降りて…



いまは、身につけた
プログラミングスキルを武器に
新しい会社で重宝されつつ、



ゆるーく自由に働き、
穏やかな幸せを噛み締めて
やりがいに満たされた人生を送っています。



個人では、どこでも生きていける
プログラミングスキルを初心者にわかりやすく
教える講師をしています。



ぼくが今、勤めているのは、
30人ぐらいの小さな会社ですが、

社長や社員の仲間の、
ときには相談相手、
ときにはまとめ役、
ときにはプレーヤー
と、いくつもの役割を持ってます。



社長・取締役、事務、現場から、

「営業会議の議題どうしよう?」
「うちの部署にも中途採用ほしいなぁ。」
「この契約書、弁護士と相談して作り変えてよ。」
「プラットフォーム作ろうぜ。」
「派遣事業のルール教えて」
「みんなの給料と賞与、どうする?」
「売上利益のグラフ、ぱぱっと作ってよ」
「人事評価制度、もうちょっとよくならんか?」
「パソコン電源つかん。どうしよう。。」
「ペーパレス?変えるのやだよ。。」



というものから、



「トイレ詰まった!!なんとかして」
「ぎゃあ~!ゴキ〇リ!退治して!」
「あの人、なんか足くさい。匂い消して!」
みたいなくだらん(ゴメン 笑)ものまで。



こんな感じで、
総務、人事、労務、経理、財務、
システム、経営企画 みたいな
あらゆる仕事を一手に引き受けています。



大きな会社だと、
それぞれ専門職の人がいます。
ぼくも大企業にいたから
よく知ってます。



でも、
小さい会社だと、すべての分野を
少人数でやるしかない。



で、大変かというと、
ぜん~ぜん(強がってない)。



むしろ、まったく逆。
めちゃくちゃ楽しい。



だって、
自分で考えて好きなように
作り上げていくことができるから。



みんなの、困った、なんとかして~
っていう声を聞いて、
ぼくが、こうしたい、ああしたい、
というものを、
社長に許可とお金をもらって
どんどんやっていくだけ。



特につべこべ言われることもなく、
やりたいようにやらせてくれる。



成果もすぐ見えるし、
みんなが喜んでくれる。



普通に毎日がノー残業デー。
自分のペースで、仕事ができる。



出社もマストではない。
オンラインで仕事もできる。
だから、
家の用事も平日昼間に
やっちゃたりする。



ただ、ぼくは、
みんなの顔を見たり
しゃべったりするのが
好きだから
出社してしているだけ。



家族はもちろん、
社長をはじめ、
従業員の仲間には
感謝の気持ちで
いっぱいです。



で、いまでは、
時間もたくさんあるし、
お金もそれなりに作れたので、
新たにビジネスにも挑戦を始めました。



毎朝、気持ちいい青空の下、
愛犬の散歩して、
妻と娘たちと、
毎日家族そろって食事をして、
ゆっくりとした
生活を楽しむことができています。



しかし、今では日常の小さな幸せも
噛み締められるような
穏やかな毎日を送っているぼくですが…



ほんの3年前までは、
いまのような生活なんて到底考えられない、
真っ暗な絶望の淵にいました。



朝早く夜遅くまで10分刻みのスケジュールをこなす日常。
厳しい叱責に怯え、仕事のことが頭から離れない日常。
期限、ノルマ、説明責任に追われる日常。



そんな地獄にいたぼくが、
どうやっていまのような
「穏やかな日常」を
手にすることができたのか?



すべて、お話しますね。

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本当の自分を探して
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とき、さかのぼること、5年。



42歳になった年の
5月のよく晴れた日。
ぼくは、当時の会社をサボって
神戸の山間の小さな駅に降り立った。



神戸といっても
華やかな街の方ではなく、
六甲山の裏手の山に囲まれた町。
新幹線から地下鉄、私鉄と乗り継ぎ
たどり着いた古びた駅舎。



そこは、
ぼくが幼少期を過ごした町。
35年以上ぶりの懐かしい町。
なぜ、そんなところにぼくはいたのか?



本来の自分を探しに来ていた。



このとき、
自分の生き方に自信を無くしていた。
なにもかも嫌になっていた。



その原因の全ては仕事。
そう信じ込んでいた。



仕事がうまくいかなくなると、
家庭でもイライラし当たり散らす。
休日ですら心から休めることはなかった。
将来に対する希望も薄れていた。



自分の生き方に自信を失い、
全てが嫌になる日々が続いていた。



そんなある日、ふと思い立ち、
幼少期に過ごした故郷を
訪れることにしたのだ。



あれから37年もの月日が流れていたが、
その場所には変わらぬ風景が
広がっていると信じていた。



故郷はぼくにとって、
心の奥深くに眠る
温かな記憶そのものだった。



小さな駅に降り立つと、
そこには懐かしい景色が広がっていた。
古びた駅舎、線路脇に咲く野花、
そして遠くに見える山々の緑。



ぼくは静かに目を閉じ、
37年前の記憶を辿るように深呼吸した。



歩き出すと、子供の頃に通った道や
遊んだ場所が次々と目に飛び込んできた。
すべてが昔のままの姿で、
まるで時間が止まっているかのようだった。



そうだ、
ひとつずつ、ゆっくり、丁寧に、
昔の自分を思い出してみよう。



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安定第一主義
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ぼくってホントなんにも
取柄とか個性がなかったんですよねぇ~。



若い頃の持ち物は、
安心安定の多数派志向。
最初に買った車のメーカーも、
携帯電話のキャリアも、
パソコンのメーカーも。



血液型も多数派。
(これは関係ないか)



マクドナルドでは決まって
てりやきマックバーガーセットの
ポテトとホットコーヒー。
いつもと違うメニューを選ぶには、
勇気が必要。



予見できないことが大嫌い。
臨機応変とかアドリブとか苦手。
面接とかプレゼンとか、
できれば避けたい。



決められたルールは
しっかり守らないと不安。
おかげで、
無事故無違反20年以上。



目立つことは苦手。
多数派にいることに安心感を覚える。
THE日本人。



努力さえしていれば、
ルール通り生きていれば、
安全安心の生活を
送ることができる。



それが信条。



育ちもめちゃくちゃフツー。
あえて言うと、
安定安心とがまん強さが唯一の取り柄かなぁ。



私の父は安定安全の県の職員。
県は広いから単身赴任が多かった。
母は専業主婦の
どこにでもいる普通の家庭。



地道に、コツコツ、定年まで
勤め上げることがあたり前の、
日本が一番輝いていた時代の
ごくふつうの家庭。



冒険や波乱なんて
皆無の超安定志向。



もちろんその遺伝子と
教育を受け継いでいました。
それはそれは、
典型的な長男タイプの
冒険するような性格では
ありませんでした。



石橋叩いて渡らないどころか、
叩きまくって橋を壊すタイプ。



中高の部活はバレーボール。
当時は教師の暴力とか普通。
そんなの我慢するものだと思って、
最後まで辞めずに
必死で耐え抜きました。



高校には毎日休まず通い皆勤賞。



高校~大学~就職と、
敷かれたレールを一歩たりとも
踏み外したことはありません。



凡人が努力していける範囲で,
最高と言われていた、高校と大学へ。
(天才肌の人たちはもっと上に行ってた)



夏休みの宿題は、
7月中に終わらせていました。
大学も単位は落としたことがない。
もちろん留年したこともない。



就職した企業は重厚長大。
明治時代から歴史を持つ
超安定の日本の大企業。



そうやって60歳の定年まで
安心して暮らせるから
何の心配もない。



今までその考えでやってきて
間違いなかった。

25歳になっても、
30歳になっても、
35歳になっても。



それなりに苦労はあるけど
順調順調。



もう40歳直前。
いろいろ大変だったけど、
努力の賜物だね。
これからも、
苦労すれば報われる。



しかし、そんなに人生甘いわけなかった



いまから考えると、
そこがピークであり、
限界だった。



そこから、
徐々に人生、
下り始めていた。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
登ってみたら間違った山だった
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

まあ、
会社員とはなんたるものか、
分かっていたつもりだった。



がんばってさえいれば報われる、
そう思って、ひたすら、がむしゃらに
やってきました。



朝7時に出社、
毎日決まった時刻にミーティング
そこから、現場行ったり、
会議したり、資料作ったり、
データ分析したり、
そうして、
帰りは早くて21時。



暑かろうが、
寒かろうが、
雨降ろうが
雪降ろうが、
陰口言われようが、
パワハラ受けようが、
ひたすらがまん。
会社員たるもの、
それが当たり前。



そうやって、
すこしずつ大きな仕事を
任されるようになってきた、
38歳のころ。



ついに、
大きな失敗をやらかしてしまった。
自分で立てた新規企画で、
かなり大きな品質事故を
起こしてしまった。



毎週、毎週、部長以下の
フォロー会議が
行われることになった。



いや、会議ではなく、
一方的な裁判。



四角形の形で配置された机。
一番奥の被告席には僕が1人。
両側には4人ほどの関係者。
裁判官の席には、
2人の関係部長。
弁護してくれるのは直属上司だけ。



そこで毎回、毎回、
「次、何するんだ!」
「いつまでにやるんだ!」
「早くやれ!」
「なんでできないんだ!」



こんな感じ2時間近く
ずっと詰められる。



なんでこんなに会社のために、
頑張っているのに、
責められなあかん?


いいことしようとしているのに、
失敗したら責められるなんて
アホらしくてやってられんわ。



毎週毎週、
この会議のために、
資料やデータを準備しては、
詰められる。



そうやって、
憂鬱な毎日を過ごしていました。



でも、なかには、
直属上司のように、
しっかり寄り添って
応援してくれる人がいたから、
なんとか持ちこたえることができた。



でも、そんな大事な人も
早くにいなくなってしまう。


たくさんの特許や開発実績を持ち、
この会社には珍しい、
紳士的で物静かな上司。



決して人のことを悪く言わない。
愚痴も言わない。
ぼくは、
その人のことを尊敬していました。



もともと、若いころ、
職場は別でしたが仕事の関係で
かわいがって頂いて、
2年前から
私の直属の上司となりました。



でも、別れは早くやってきました。



「ごめんな、一番つらいときに
 離れることになってしまって。」



一番つらいのは上司のはず。
片道切符の出向だなんて。
きっと無念だっただろう。



まだまだこれからというときに、
出向という形で出ていくことになって。



ぼくはその一言で泣きそうに
なってしまいました。



そうやって
別れを告げて去っていく人。
どうして大事な人から
いなくなってしまうんだろう?



そんなときに、
工場で大きな事故が起こりました。



そして、
その事故を起こした責任者の
一人が僕の同期。
彼はとても責任感が強い
優秀なエンジニア。



日々忙しい業務をこなす中、
ちょっとした管理不足が原因で、
部下が大きな事故を
起こしてしまったのです。



彼は責任感ゆえに、
厳しい社内の取り調べにも
真面目に応じていました。



それは最終的に完成した
100ページ近くに及ぶ
報告書を見れば一目瞭然。



しかし、
現実の彼は、服がヨレヨレ、髪がボサボサ。
顔もやつれ猫背でトボトボ歩く姿。



なんて声を掛けたら良いのか分からず、
自分も含め、みんな、遠くから
見守るしかできませんでした。



「あ~あ、自分だって、
いつあんなふうになってもおかしくない。
ほんと、今まで運が良かっただけ。
自分も同じ運命をたどるかも。



心身共に疲れた僕は、
これから生きていく
意味を見失っていました。



ただ、ただ、毎日、
決められた時間に、
デスクに向かい、
PCのメールソフトに並んだ
未読メールを、
ただ、ただ、処理する日々。



こんなん、いつまで続くん?



その頃から、
夜中、ベッドの中で
目を閉じると
頭に浮かんで来ることが
ありました。



暗く深い海の中に
放り込まれ、
息ができない苦しさで
声も出ず
もがき苦しむ自分。



そんな夢を
たびたび見るように
なりました。



そして、
そんな世界が、
将来、自分にも、
来てしまうような
予感がしました。



そう考えると、
ますます、
苦しくなった。
こんな真っ暗な
世界は絶対やだ。



抜け出したい。
この苦しみから。
もっと光が溢れる
明るく広い世界へ。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本当に登りたかった山
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このような、苦悩を抱え、
希望を探し求めて電車を乗り継ぎ、
たどりついたのが、
この目の前に広がる
優しくて懐かしい風景。



42年間の自分を振り返りながら、
細い路地を折れ曲がり、
当時住んでいた2F建てのアパートを
目にしたその瞬間、
風が、心の中に優しく吹き込んだ。



そして、ふと気づいた。
ぼくが感じていた絶望感、
イライラやストレスの根本原因は、
本当に仕事だけにあったのだろうか?



確かに、仕事は大きな要因だった。
しかし、もっと奥深いものがあるのではないだろうか?



努力さえしていれば、
ルール通り生きていれば、
安全安心の生活を
送ることができる。



実際、これを信条に生きてきた。



だから、勉強でも仕事でも、
世間に決められた道に沿って必死に努力し、
世間から評価されることで、安心感を得ていた。



でも本当か?
それで本当に安心できたのか?
世間から評価されたりすることを目指した結果、
どうなったか?



本当は好きでもないこと、本心ではないことを
ガマンし続けてきた結果が、いまここに現れているのでは?



世間が大事だと言うものを、
まるで、自分が本心からそう思っていたかのように、
カン違いしていただけなのかもしれない。



ぼくはずっと自分自身を見失っていたのだ。
自分が何を大切にし、何を求めて生きているのか、
その答えを見つけられずにいた。



いま、ここで、
故郷の風景が教えてくれたのは、シンプルな幸せだった。
家族との時間、友人との絆、自然との触れ合い。



これらがぼくにとって
本当に大切なものだったのだ。



仕事の成功や社会的な評価よりも、
もっと根本的な幸せがここにあると感じた。



ぼくは、ここで決意した。

この会社を辞めよう。
今まで来た道を外れてみよう
地位も肩書も収入も全部捨てて。



そこからぼくは、立ち上がり、再び歩き始めた。
まずは、会社を辞める準備。
そして、新しい人生の方向を見定める。



自由に働けるところがいいなぁ。
といっても、いきなりフリーランスとか知らんし、
家族もいるし、学費も必要だし、ローンもあるし。
だから、とりあえず、会社員としての転職の道へ。



大きな組織で指揮命令とか、
ルールとか、しがらみとか、もうたくさん。



自分のそれまでのスキルを活かそうとすると、
それまでの会社と同類の職場しかないだろうなぁ。
だったら、異職種しかないだろうなぁ。



そこで、まずは、誰も知らない小さな会社に平社員で入りながら、
イチからやってみようって考えたわけです。



転職して最初の一年は、収入激減、慣れない仕事でしんどかった。
正直、転職ミスったかなぁって思った時期もありましたね。
でも、まあ、それもたった一年だけの話でした。



でも、
一番良かったのは、時間ができたこと。
夕方5時にはきっちり終われる。
家族そろって夕食を取り、10時半には就寝。



家に帰ってからのたくさんの時間。
ぼくは独学で学びはじめました。
資格も1年に1個ずつ取ったりしました。



でも、このなかで一番身を助けてくれたのは、
プログラミングですね。強力な武器になります。
職場でも一目置かれるようになりますね。



「こんな沢山のデータ、処理できないよ。
 どうしよう~~~」
って声、どの職場でもよく聞きます。



ぼくはエクセルについてはそこそこ使えてたので、
ちゃちゃっととデータ整理してやると
すごく喜ばれました。



それをきっかけに、ぼくは1年ぐらいかけて独学で
VBAとかRPAとか使えるように勉強しました。
会社の時間を使って勉強してました。



そんなときにプログラムを書いて、
実行して一瞬で処理できると
「うぉ~、すげー」
みたいな歓声が上がって、はい一丁上がり。



「とおるさんって天才!」
みたいに持ち上げられて、いい気分になれる。
そんな世界が待ってました(笑)



一つなにかプログラム言語を習得すると、
ほかの言語でもほぼ考え方、型は同じなので、
いろんなことができるようになってしまいます。



業務の幅もめちゃくちゃ広がる。
全ての業務に使えるスキルですからね。



総務、人事、労務、経理、財務、システム、経営企画
みたいなあらゆる仕事にプログラミングという
武器で切り込んでいく。



そんな感じで、みんなの仕事が
どんどん良くなっていく。
そして、それを見て楽しんでいます。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
勇気を出して今いる山を下りてみよう
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人生変えたいと思っているあなた。
あなたの本当の苦しみが何から由来するのか
根底から考えてみてはいかがでしょうか?



私の場合、
自分の心の中に
無意識に縛りをかけていたからです。



そして、
それを解き放つには、
まず1歩だけ踏み出してみること



つまらぬルールや檻なんて破壊しちまえ。
これって、
心の成長ですよね。
40歳過ぎても変われるんです。



大企業など大きな組織から離れ、
自分の人生を生きる。



よくよく考えてみてください。



組織の命令一つで、
家族と離れ離れの生活をする。
やりたくない仕事をやる。
人生の大半の時間を奪われる。
大きなストレスを受け続ける。



これって、おかしくないですか?



ぼくは、
自分が辛い目にあって初めて
おかしいということに気付けた。



自分の人生を
自分以外のものに委ねていた。



極端な話、
会社から〇ねって言われて
〇ぬ人いないですよね。



でも、無意識に、
同類のことをしていた。



そんなぼくが、
大きな組織から離れて
生活するのには
不安もありました。



でも、大丈夫です。
大事なことは多くはありません。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
次こそ理想の山を登るとき
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

まず、あななは、
今まで厳しい環境を
生きてきたという
マインド、スキル、実績を
すでに持っています。



だから大丈夫。



ぼくも、20年近く、
大企業でその組織にしか
役に立たない
超超超マニアックな
仕事(大企業の生産技術)
しかしてませんでしたから。



自分でも
どこでどうやって役に立てられるか
分からなかったスキルと実績。



でも、ただ、
使い方を知らなかっただけ、
どこのだれが欲しているかを
知らなかっただけ、
でした。



実際にその場に飛び込まないと
分からなかった。



でも、いま分かったのは、
この3つが揃えば大丈夫。
①マインド
②仕事の知識とスキル
③これらをどこの誰に役立てるか?



そして、プログラミングは、
上の3つをあらゆる会社や仕事に
つなげてくれる最強の武器、
ということを実感しました。



いまだと、プログラミング×AIで
文章書いたり、
プログラム書いたり、
法律調べたり、
資料を作ったり、
とてもハードル下がりました。



ほんと、これだけで、
たいていの仕事の効率化を
できてしまいます。



そうすると、
いつでも、どこでも、
やっていけます。



ぼく自身、
プログラム(VBA)は1年ほど
独学していたのですが、
ChatGPT使って、
習得速度が爆上がり。



たった1ヵ月で
Pythonも普通に業務に
使えるようになりました。



でも、プログラミングって難しいよね。
そう思うひとも多いと思います。



いや、全然そんなことはないです。



たしかに、大規模システムに組み込まれるような
プログラミングは、間違いが許されないし、
範囲が広いから難易度が高いです。



それに、そんなところって働き方がブラックなところも。
ぼくがターゲットとしているのは、
プログラミングを使ってゆるーく働ける世界。

     

そんな世界で働くのに必要な
プログラミングスキルを
ぼくがていねいに
教えていきますね。



そして、
具体的にアウトプットを
出し続けられるように
寄り添って支援していきます。



さて、
ここまで長文を読んでいただき
ありがとうございました。



この出会いが、
あなたの人生をより良くする
きっかけになれば、
とてもうれしいです。


ここまで読んでいただいた
あなたなら、
きっとできます。



全力で応援します。

とおる


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