見出し画像

生きることと変わること

 先日、漸く又吉直樹さんの「劇場」を読了した。実は、随分前から読もうと思っていたのだが、本を買おうと思ったその時に映画化のニュースがあり、なんとなく買う気になれなくなってしまっていたのだ。随分勝手な話だが、こういうことはよくある。よくあるので困る。

 私が本を好きな理由の一つに、「流行が無い」ということがある。本の中には、世界がある。それは1960年代のアメリカかもしれないし、現代日本かもしれない。或いは異世界だということもあるだろう。本の中の世界には、当然背景として持つ時代や設定を反映した流行が存在するだろうが、その時代の流行は、現代の流行とは関係ない。ましてや、購読の有無には一切影響しない。個々人の好みや思想、気分によってのみ、それは左右されるだろうし、そうであるべきだと思っている。
 しかし、「映画化」となると、そういうわけにもいかない。大々的に宣伝され、世界の空気感やビジュアルが可視化される。音楽や色使いに至るまで、全てが流行に染まる。たとえその舞台が昭和であっても、現在の流行に則って昭和を表現しただけに過ぎない。流行のものに手を出したくないなどという「みんなとは違う自分」を感じたいわけではない。過去にはそういう時期も確かにあったが、それが自分を価値あるものから遠ざける愚かな行為であると知った今、自ら損な生き方をする気にはならない。しかし、どうしても、本来私の頭の中で最終的に構成されるはずだった世界が、他者によって構成され、そして流行となり世間に広まることによって、本の中の世界が自分だけのものではなくなってしまうことが私は悲しいし、勿体無いとも思う。

 しかし今回、映画の宣伝の映像が、なぜか私にとっていい作用をした。映画化の知らせを受けたことによって読めなくなった本を、映画の宣伝によって手に取ってみたくなった。一刻も早く読まなければいけないと思った。次の日には劇場を購入するために、本屋へ向かっていた。

 私が映画の宣伝の中で印象に残っていたセリフがある。
 「ここが一番安全な場所だよ」というものであるが、映画の宣伝では、感傷的で、常夜灯の中にいるような雰囲気のセリフであった。ヒリヒリするような心の表面を感じた。しかし、原作を読んでみた時に感じたのは、空元気。真っ白なシーリングライト。敢えて真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに本音を伝えることで、本音を隠しているような、そんな感覚。どちらがいいとも言えないし、どちらが正しいとも言えない。わたしはこれだと思った。この後者の感覚は、自分の中で構成された”世界”。これを感じるために、私は本を読んでいる。私の本の読み方。私の中で新しい世界を構築し、主人公たちの考えや感情、知識を取り込んでいくのだ。

 さて、少々関係のないことを前置きにしてしまったが、劇場本編において私は「人間の変化」について考えることとなった。
 人間は必ず、変わっていく。変わっていないつもりでも、必ずどこか変化していくものである。
 劇場においては最後の最後まで、永田の人付き合いにおける成長らしい成長はみられないように感じた。ストレートに感情をぶつけて、激しい後悔に苦しむ。結局その後悔の処理の仕方もわからない彼は、全ての感情を怒りに変え、他人のせいにするしかないように思えた。彼の中の信仰は彼にしか決められず、信仰対象外のものには耳を傾けられない。そんな永田は、沙希との関係や演劇だけに関わって生きていく姿勢、それを変化させなかったし、させようとしなかった。こだわりを捨てず、最後まで何も変わらないのかと思ってはいたが、よく見ると、彼にとっての世界ともいえる沙希と演劇を手放さないために、永田自身のその内部が変わっていることに気がついた。後半になるにつれて、自分の好かないものであっても冷静に分析するようになり、その優れている部分や、自分の考え方との違い、それらを思考する描写が増えていくのだ。自分、自分と沙希、自分と沙希と周囲。進んだり戻ったりしながら、それでも沙希と演劇のために成長していく永田がみえるのが、この思考の広がりであるのではないかと感じた。自分を変化させることで、自分の居場所を守っていたのだろうか。

 一方で沙季は、”沙希”で居続けようとすることで、逆にどんどんと変化していった。よく笑って、よく泣いて、溌剌として、絵に描いたような女子大生だった沙希は、どんなに変化していてもその”沙希”を保とうとしていたのではないかと思う。永田との関係を続けるために、”沙希”でいるというよりは、”沙希”でいることで、永田との関係が続けられるような。彼女の生活は第一に”沙希”であり続けることが前提となっていたのではないかと感じた。これは、きっと永田との大きな違いである。永田はおそらくこれまで”永田”であることで得てきたものはそれほど多くないのではないだろうか。だから、人生において”永田”であり続けることを前提としなくても良い。自分の考えにある種の確信がある永田はきっと本当の意味で自分を嫌悪こそしていないと思うが、そうあり続けるべき”永田”を確立してはいない。内省する永田の声は自分を疑い、自分を信じ、裏切られ、期待し、最終的に少しずつ昔の”永田”をおいて前へと進もうとし始める。しかし沙季はきっと”沙希”であることで得てきたものも多くあるはずだ。沙希が、自分が壊れるまで何も変えようとしなかった、変えられなかった原因はここにあるのではないか。

 人間は必ず変わっていくが、必ずしもそれが良い方向だとも限らないし、能動的な変化でもない。むしろ、人間の変化というものは受動的な部分が多いのではないかと感じる。自分で決めたルールに則って自分を変えるより、いつかのあの日に何気なくかけられた言葉によって自分が少しだけ、あるいは大きく変わる。そんなことは、私たちの世界にはきっとよくある話だ。永田のように、自分が崇拝にも近い感情を抱く対照からのみ、自分への介入を(無意識的に)許す人間もいれば、沙希のように自分に対する様々な声に耳を傾ける人間もいる。私から見るに彼らは二人とも、直接的な他者の言葉で自分の意思を変えることはなかったが、沙季に関しては他者の言葉を受けることで、自分の想いとの違いに悩み、”沙希”を捨てない限り周囲の声を取り込むことも、沙希自身の声を永田に届けることもできないと苦しんだことが多くあったのではないだろうか。他者の介入という点では、永田も、”母”なる沙希の存在が自身の変化に影響したに違いない。
 劇場では、もともと正反対な二人が、「変化」という点においてまさに正反対な反応を見せた。そして、どちらが正しいということも、或いはどちらも間違っていたということもできないことを痛感した。

 どう生きるか、どう変化するか、止められない己の変化をどのようにして体に馴染ませるか。ある種の諦観が必要かもしれないが、私たちは変わっていく。簡単に、人を変えてしまう。生きていく上でそれに気がつくことは意外と重要なのかもしれない。




 これは私が劇場を読んで、私が構築した世界での感想と考察で、筆者からすれば、また他の読者からすれば、見当違いで滑稽なものかもしれないが、勝手に読んで勝手に理解して勝手に空想できる本の世界でなら、きっとこんな勝手な感想も許されるだろう。

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?