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ラストステージ

去年も雨だったな。

厚い雲に覆われた空を見上げて思う。

軽音部でドラムを叩いている長男が、部活としてではなくバンドとして応募した選手権の予選を通過した。本選は繁華街のど真ん中にある公園に特設ステージが設置され、開放的な屋外で演奏できる上に本格的な動画撮影もあり、いつもの大会とは違う盛り上がりをみせていた。

昨年度も長男達はこの選手権に出場している。こんな機会は無いと、私は心躍らせながらカメラを持って向かった。駅を降りてからポツポツと降り出した雨は、会場に着く頃にはザーザーと地面を濡らし、次第に風も強くなっていた。それでも息子の晴れ舞台を残したくて、演奏が始まると傘を放り出して、雨に濡れながら写真を撮った。

私はいつも写真を撮る。

学校行事はもちろん、試合や大会では必ず写真を撮る。それは私の趣味であると同時に、私が子供達の成長をこの目で見てきた証拠を残したいからだ。

7年前に乳がんを患った時、自分は死ぬかもしれないと思った。左胸を切除し、再発に怯えながら死と向き合った時、私は死の恐怖よりも、この先、子供達の成長を見れない辛さの方が強かった。

だから写真を撮った。もし私がいなくなっても、この瞬間、この感動を、この場所で、『お母さんは確かに見たんだよ』という証拠を残したかった。そうやって写真と一緒に愛情を閉じ込めておきたかった。

でも、今回はカメラを置いてきた。

軽音部の引退は早い。4月に行われる新入生歓迎会でのライブを最後に、彼らは解散する。本当のラストステージはその新入生歓迎会だが、私が観ることのできるステージは今回が最後だった。

そのラストステージを、私は自分の目に焼き付けたいと思った。

ファインダー越しではなく、構図や画角を考えず、ただ長男だけを自分の目に収める。そう決意して、前日に「お母さん、撮らないから」と伝えると、長男は「ふーん」と特に興味なさそうに返事をした。

スマホと財布とハンカチと傘。

それだけを持って電車に乗った。足を踏み出すたびに雨が強くなってきた去年とは違って、会場に着く頃には雨は止み、傘がぶつかり合わないステージはとても見やすい。

どこがいいかな。

長男の出番までの間、ドラムの位置を確認する。少し下がった位置にあるドラムは、どうしてもボーカルやギターと被ってしまう。右に動いたり、左に動いたりしているうちに、なんと中央の一列目に来てしまった。

真正面にいるのも嫌がるかなと思ったものの、今さら後ろにも下がれない。すると「もっと前に来ていいですよ!」と司会者が言い、さらに前に進んでステージまで3メートル程となった。

かなり気まずい位置だ。

いつものようにカメラを持っていれば、文句なしのベストポジションなのだが、私の両手は閉じた傘の持ち手を掴んでいるだけで、顔の周りはひんやりとしている。

ひとつ前のバンドの演奏が終わり、メンバーが準備に入った。長男はツインペダルをセットして、スネアやハイハットの高さを調整していた。私に気付いているのかいないのか、その顔は真剣で少し緊張しているようだった。

どうしよう。

あれほど『この目に焼き付けるんだ』と決めていたのに、カメラがないと落ち着かない。幼い頃のように、私を見つけて小さく手を振ることもない長男の、その眼差しが自分に向かった瞬間、どんな表情を返せばいいのか分からなかった。

私は傘を肘にかけると、スマホを取り出した。しっかりと両手で持って、全体が入ることを確認してから、少し手を伸ばして顎のラインで固定する。

動画を撮ろう。
なんで真正面にいたんだと聞かれても、「動画を撮っていたんだよ」と言おう。

そんなことはきっと聞かないだろうけど、でも思春期の息子に接する母は、息子以上に気まずくて恥ずかしい。小さく振った手に、大きく振り返していたのは、もう随分前の話だ。

「では、次のバンドです。お願いします!」

ステージ上のライトが光り、ボーカルのソロから始まった。5人の演奏は息がピッタリで、長男は大きな口を開けて、楽しそうに歌いながらドラムを叩いていた。

私はその姿を、しっかりと目に焼き付けた。途中で一回だけスマホを確認したけど、それ以外はずっと長男だけを見ていた。



帰りにデパ地下に寄ろうと、一番近い百貨店に入った。一年前、濡れたカメラを必死で拭いていた椅子に座って、さっき撮った動画を確認してから長男に送る。

『ありがとう!』

その返信に表情が緩む。たった5文字につけられた『!』に、嬉しかった気持ちが込められている、そんな気がした。

証拠なんていらないんだな。

愛情は写真に閉じ込めなくていい。私が見た、この瞬間、この感動は、これからはその瞬間、その感動として残していこう。

最高のラストステージを、ありがとう。

心がふっと軽くなった日だった。



#ドラムスコ応援日記



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