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悩むくらいならバカなことをしよう

先日、SNSを利用したバーチャル二人旅について書いた。

割と周りからの反応は良かったんじゃないかと思う。色々な人が「面白い」と言ってくれた。


ただ、私は思う。

果たしてあの記事は本当に”面白い”のだろうか。


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今日、とある専門的な勉強会に参加して、その内容があまりにも面白くて2回くらい泣きそうになった。(念のためだがお笑いの勉強会とかではない。)

新しい知識や視点を示されて、一気に目の前が開ける感じ。脳内から快感物質がどっと出てくるあの感じ。もっと知りたい、もっと勉強したい。

それで思い出したのだ(正確に言うとそこからぐちゃぐちゃと色々なことを考えた結果)、

そもそも何故文章を書こうと思ったのかを。


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私は別に、自分の思考回路を外に垂れ流したいからブログを書いているわけではないし、変なことをして目立ちたいからブログを始めたわけでもない。そういう動機を否定するわけではないけど、私はそうではない。

何か、社会に貢献したいと思ったのだ。

社会に貢献などと言うと大それた感じがしてしまうけど、要するに何かしらのアウトプットがしたいと思った。


もっと正確に言うと、既存のカルチャーに対するカウンターカルチャーみたいなものを提案していきたいと思った。

カルチャーというのは「世界の捉え方」と言った方がわかりやすいかもしれない。


文化のミーム論やポストモダニズム論を私は支持する。文化はそれ自体の意思を持たずに増殖する。

いわゆる主流とは異なる価値観を持つ事で、既存の文化について見えてくる事もあるんじゃないか、と思っている。

クスリと笑えるような文章なんて、ネットには溢れている。

面白いことをしてみた系の記事も、溢れまくっている。

自分がわざわざその市場に参入する必要性は特に感じない。(読むのは好きだ。)


バーチャル二人旅をした時、私は「これ、クスリと笑えて面白い記事になりそうだな」と思ったからブログを書いたのか。

否、全然違う。


あの時私が感じたのは、今まで見えていた世界の色が突然逆転するような、今まで海だと思っていたものが空だったと知らされるような、そんな激しい変化だった。

脳では快感物質が噴出されていたし、思考や感覚のみならず身体性も伴ったある種の超越感があった。

例えるなら、目の前に深い崖あって、1メートル先の向こう側に飛び移るような感じ。

飛ぶまではすごく怖いけど、飛んでみたらあっけなくて、その後はどんなに深い崖でもどんどん飛べるようになる。むしろ飛びたくなる。



本当は、もっと掘り下げた話をしたかったのだ。

だけど、軽い感じで面白おかしくまとめてしまった。見た事のあるブログの形に寄せてしまった。

何故か。単純に怖かったのだ、万人に受け入れられないのが。

本気で全力でやって、それを分かってもらえないのは悲しい。

それに、本気で表現しようとすると労力も使うし文章もどんどん長くなる。そして気恥ずかしい。

だけど、それでいいんじゃないか。

それが私の伝えたい事ならば、妥協せず書けばいい。どこかに私の文章を読んで救われる人もいるかもしれない。

そう思ったのだ。


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私は子どもの頃、本当に人見知りだった。


年に一度会ういとこに毎年人見知りして、慣れてきた頃にお別れになるのが常だった。

公園で知らない子の輪に入れなくて、「ほら入ってきな」と言う親の言葉が嫌いだった。

小学校に入学して初めての自己紹介では、何を言えばいいか分からず泣いた。

小学校3年生で、担任の女の先生がおじさん先生に変わったら学校に行けなくなって、一時不登校になった。(おじさん先生も良い先生だったけれど、何故か行けなくなった。)


それから20年後、私は一人で旅行して、知らない人と一緒に写真を撮っている。


もちろん、バーチャル旅行の経験だけが私を変えたのではない。

今まで私も色んなことがあって、少しずつ自分の性格や行動も変化してきた。

だけど、バーチャル旅行が最後のひと押しとなった感はある。それは小さな、それでも確実な影響を私に与えた。


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※今回の旅行では、変なセルフィーを撮ったり、知らない人に話しかけるというゲームをやった。ブログには旅の様子やら写真を載せているが、長いのでNoteでは割愛する。

(変なセルフィーの一例。いかに変なことをするかで得点を競い合った。)



今回の旅も、本当に楽しかった。ただただ、なんと言うか、あっけらかんと楽しいのだ。

そして終わった後には充実感と爽やかな疲労感だけが残る。



最近、というか前から考えていたことがある。

目に見えないもの、手で触れないもの、要するに五感で認知できないものは結局、存在していないに等しいのだと。

国家、法律、文化、社会、道徳、常識、美、醜、悪、善、神、、

これらは全て、私たちの頭の中にしか存在していない。

今読んでいる「サピエンス全史」の著者が、これらを”虚構”と呼び、”集団で虚構を作り上げる”(あるいは集団で”信じる”)能力こそが人間が他の生物を圧倒するに至った要因だと述べており、本当に共感した。



私たちは様々な「当たり前」や「決まりごと」に囲まれて生きている。

例えば、パジャマで会社に行くのは恥ずかしいし、いけないことだ。

だけど、本当に?

その「恥ずかしい気持ち」や「よくないという感覚」を手のひらに乗せて、眺めてみたらどうだろう。

そもそも手のひらに乗せることすらできないじゃないか。



私たちの周りにたくさんそびえ立っている壁は、石で出来ていて、簡単に崩すことは出来ないように見える。

でも、少し手を伸ばしてみれば、実はそれらはぺらぺらの紙に描かれた絵なのかもしれない。

バーチャル旅行で変なセルフィーを撮ったり知らない人に話しかけたりして得られるのは、それらの絵をびりびりと破っていくような感覚に近い。


何も人間の作る虚構が全て悪だと言いたいのではない。

ただ、私たちはしばしば、それらに阻まれて、色々な可能性を自ら断ってしまっているのではないか。集団としての「我々」から押し付けられる「こうあるべき」や「これはよくない」を、自分の価値観と勘違いして、我々はしばしば不幸せになりがちではないか。

例えばチンパンジーに、彼らの言葉で「敵が来るぞ」と言えば、彼らは逃げる準備をするかもしれない。でも、「バナナを一人で食べるのはさみしいし格好悪いぞ」と言ったところで、一緒に食べる仲間を探し始めるだろうか?



もしあなたが今何かに悩んでいるなら、その”悩んでいること”は本当に存在しているのか、考えてみて欲しい。

病気とかは流石に難しいかもしれない。だけど、人間の悩み事のほとんどは人間関係に起因しているという。

別に旅行じゃなくたって良いのだ。「旅行革命」と私たちは呼んでいるけれど、これは正しく呼ぶなら「リアリティ革命」である。


SNSじゃなければ、例えばコスプレとかでもいいのかもしれない。

何かの助けを借りて、今までやらなかった、出来なかったことをやってみる。

その先にあるのは、なんか楽しい!という感覚と、ある種の超越感である。


今まで気にしていたことはなんてちっぽけだったんだろう、とあなたは思うはずだ。

そして周りの人は案外と、大抵のことを笑って受け入れてくれるものだ。(あなたの行動や評判をそんなに気にしているのはあなただけだ。)


長くなってしまったが、私が伝えたかったのはそういうことである。



(この記事は2018年4月9日のブログに編集を加えたものです)


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