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人って、ひとりぼっちよ。だからって悲しまなくてもいい。

「孤独感」というものについて話そうと思う。

自分の記憶の中でずっと残っている景色というのがあって、それはオーストラリアの寂れたビーチがどこまでも続いていく様だ。

ビーチには誰もいなくて、私は一人で波打ち際を歩いていた。

海は青というよりは濁ったグレーで、砂は白というよりは黒っぽいグレーで、潮風はどことなく生臭かった。もうすぐ日没だったので、太陽の光がどんどん弱まり、あたりは薄暗くなってきた。

私はその時、二十歳で、一人でオーストラリアの東海岸を旅行していた。いわゆるバックパッカーというやつだ。本当は一人でバックパッカーなんてしたくもなかったのに、その頃の私は「オーストラリアにいる若者は一人でバックパック背負って貧乏旅行をしなければならない」という謎の強迫観念にかられて旅をしていた。嫌々ながらしていたので、大して楽しくもなかった。当たり前だ。

旅の途中で、例えばユースホステルなんかで、なんとなく友達はできた。友達というより、なんとなく一緒に食事をとったりするだけの、かりそめの友達である。

新しい人と会うたびに「ヘイ!君どこから来たの?」とやりとりするのは結構めんどくさかった。というか気を遣うのでとても疲れるのだ。

それでも、最初のうちは頑張ってかりそめの人々とコミュニケーションしていたのだけど、だんだんその努力も怠るようになり、レインボービーチという町に来るころには、もう一人でええわ面倒くさい、という心境になっていた。


レインボービーチ、という名前から、なんとなくラブ&ピースな楽しいイメージを抱いていたその町は、オーストラリアのどこにでもあるような退屈で小さな町だった。

オーストラリアの田舎町というのはどこも相場が決まっていて、町の中心にスーパーマーケットやらファストフード店やらお店が集まっていて、少し歩いたところにビーチがあって、それでおしまいだ。レインボービーチはまさに、その金太郎飴のようなオーストラリアの退屈な田舎町のひとつだった。これまた似たような他の田舎町から長距離バスでやってきた私は、その町を見て脱力した。

ユースホステルにチェックインして部屋に入ると、先客がいた。体中にタトゥーの入った若い男の子。わりとイケメンであった。そのイケメンはさほどイケていないアジア人の女に関心はないらしく、簡単に挨拶を交わして我々の会話は終了した。

安いドミトリーに泊まることで、最も辛いのは部屋にいられないということである。知らない人がいる部屋でのんびりできないし、部屋自体、なんとなく小汚いし、二段ベッドがぎゅうぎゅうに押し込められていて圧迫感がある。


なので私は仕方なくホステルを出た。そして、他に行くところもないから、ビーチを歩いていたのだった。

思えば「孤独感」というのを強く感じるようになったのは、大学生くらいの頃だったと思う。
それは、自分の中に大きな穴があいていて、ともすれば自分がその深い穴の中にどこまでもどこまでも落下していくような、恐ろしい感覚だった。

強調しておきたいのは、それはあくまで「孤独感」、つまり「孤独な感覚がある」というだけで、実際に孤独だったわけではないということだ。私には家族も友人もいた。
ただし、もっともっと強調しておきたいのは、それが「ただの感覚」だったから、実際に孤独な状態に置かれているのと比べて、「大した苦しみではない」とは言いきれないだろう、ということである。

そして、今振り返ってみて、あの頃の私が抱えていたのはわりと多くの人が経験するタイプの苦しみだったのではないかという気がしている。


誰もいないビーチを一人で歩いていると、だんだん、この世界に自分しかいないような気がしてきた。

今までの人生は幻想で、私はこの世界に一人残された人類なのかもしれない。

というか、そうだ、わたしは独りなんだ。

そのとき、突然ひらめいた。

そうか。

私は、今までも、これからも、ずーーーっと、独りなんだ!!!


まるで、昔のコントで上から落ちてくる金だらいのように、突然うまれたその考えは私の脳天を直撃した。

そして私は謎の高揚感を味わった。

実際、そっかそっか私は独りなんだ!とかつぶやきながら砂浜をスキップした(誰も見ていなくて良かった)。不思議なことに、その瞬間、私は本当にひとりぼっちだったのに、「孤独感」を全く感じていなかった。サークルの飲み会の帰り道のほうがよっぽど孤独を感じた。

だから、あのどこまでも続く薄暗いビーチが、今でも忘れられない。


さて、レインボービーチでの出来事があって以降、孤独感はキレイに消えて幸せに暮らしましたとさ。という話だったら分かりやすいのだが、現実はそう簡単ではなかった。砂浜でスキップしながら一瞬何かわかった気がしたものの、若かりし頃の私は日常にもどった途端にまた例の「孤独感」に襲われた。それから何年も、例の「自分に穴があいている感じ」は続いた。

そう、「続いた」のであって、「今も続いている」わけではない。


いま私は31歳だけど、あのころ感じていていた孤独感を、今は全く感じていない。心は平穏、ラブ&ピースである。

おめでたいことに、なんなら自分が孤独感に苦しんでいたことすら忘れそうになっていたのだが、さいきん友人の恋愛相談にのっていたら、そういえば・・・と思い出したのだった(私は当時、孤独感から恋愛で色んな失敗をした)。

それで、ここに到るまでの道のりと、アドバイスみたいなものを書いたら、今あの「孤独感」に苦しんでいる人たちの助けになるのかな、とも思った。だけど、それはやっぱり意味がない気がするのでやめよう。


というのも、これは最近の大発見なのだけど、

私たちは、体験も、感情も、共有できないのだ。

このことに気がついたとき、まじで本当にびびった。なんだこれは。こんなに当たり前で、めちゃくちゃ重要なことをなぜ今まで誰も教えてくれなかったんだろう。

思えば、小学校の道徳の授業からして、「お互いの気持ちや考えを理解できる、共有できる」ことを前提にされていた気がする。

だけど、それは嘘っぱちだ。私たちは、それぞれの身体に閉じ込められていて、他者の身体で何かを体験したり感じたりすることはできない。「言語」は不完全なツールでしかない。


ジャック・ラカンという精神分析家の理論でおもしろいなと思ったのがあって、「生まれたばかりの赤ん坊は、自己とそれ以外の境界線を認識していない」というものだ。要するに、「自分の右手」が「自分」に所属していて、「お母さんのおっぱい」が「自分以外」に所属しているということがわからず、全てが渾然一体となったイメージを生きているのだという。

すべてとつながったまま、大きなものに包まれて、赤ちゃんでいるのはとても気持ちの良いことだし、できればそこに留まりたいと思うものだろう。

私たちが「個」を獲得し、自己を形成していくこと、つまり独立した大人になるということは、それなりに苦痛を伴うものだ。その過程で発生するのが、あの「孤独感」だったのだろうと、今になって思う。


だから、もし今あなたが途方もない孤独感で苦しんでいるとしたら、言えることは一つだ。

いつか、その孤独感を受け入れられるときがくる。そうしたら、意外と淋しくも悲しくもないなって、思うはずだ。たぶん。

なので諦めず、色んなことを体験し、感じればいいと思う。


とかなんとか偉そうなことを言ってしまったが、私もこれから先、また違う種類の「孤独感」みたいなものに苦しむことがあるかもしれないな・・・と思ったりもする(中年クライシスとやらがアヤシイ、と睨んでいる)。

なんだか本当にとりとめのない文章になってしまった。無念。次はまた鼻の穴の話とかにしよう。





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