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1934年(昭和9)ヂンタ以来

 ヂンタ以来(じんた このかた)は、堀内敬三*1氏がアオイ書房から出版した随筆集で、「ヂンタ興亡史」「吹奏楽論」という興味深い文章があります。なお、堀内氏は浅田飴本舗の家に生まれながら家業には関わらず音楽に興味を持ちピアノ・和声楽・作曲や音楽史も学びましたが、アメリカ合衆国ミシガン州立ミシガン大学で機械工学をマサチューセッツ工科大学修士課程で機械工学の修士号を取得しました。帰国後も音楽に熱中し翻訳、作曲、作詞、放送、音楽教育関係の仕事を行いました。

薩摩藩士軍楽伝習生

 薩摩藩藩士30名がイギリス公使館護衛歩兵第一大隊軍楽長フェントン*2の指導によりイギリスロンドンのベッソン社より届いた楽器(1870年:明治3)で訓練を受けました。その編成は表のとおりですが、堀内はベンチルホルンについて「ホルンであるかサクスホルンであるかわからない。」としています。

ベンチルホルン(Hiraideメモ)

 堀内が不明としたベンチルホルン(ベンティルホーン : Ventil horn)は、イギリスのディスティン社(Distin&Co)によって製造された円形ベルアップの楽器で、E♭ソプラノ・B♭ソプラノ・E♭アルト・E♭テナー・B♭バリトン・B♭ベースが製造されました。その音は、フリューゲルホルンの音に似て、まろやかで豊かであると宣伝されました。

軍楽隊の発展

 1871年(明治4)陸海軍の制度が確立すると、軍楽隊は明治期の西洋音楽発展・導入の担い手として、吹奏楽のみならず弦楽器や作曲・編曲の教育も行われるなどその時代の音楽活動の中心となりました。
陸軍軍楽隊は1872年(明治5)からギュスターブ・シャルル・ダグロン*3(フランス)、1884(明治17)からシャルル・ルルー*4(フランス)が指導を担いました。海軍軍楽隊は1879(明治12)からフランツ・フォン・エッケルト*5(ドイツ) が指導を担いました。なお、フェントンの離日(1877年)からエッケルト来日(1879)の期間はダグロンが陸海軍楽隊指導を兼任したと言われています*6。これらのことにより、陸軍軍楽隊はフランス式、海軍軍楽隊はドイツ式の吹奏楽編成が主となりました。

ヂンタ

 軍楽隊で習得した楽器演奏技術を民間で生かす場として、1888年(明治21)には海軍軍楽隊出身者を指導者に隊員36名を募集して「株式会社東京市中音楽隊」が、翌年には海軍軍楽隊除隊者18名が「東洋音楽会」を創設しました。この2団体はすぐに合併し「東洋市中音楽隊」となり横浜グランドホテル専属となり活動を続けました。明治25年には東洋市中音楽隊の内15人が抜け神戸オリエンタルホテル専属の「神戸市中音楽会」となり、横浜グランドホテルで活動する約15名東洋市中音楽隊と袂を分かちました。
 これらの民間団体では、ダンス・園遊会・演奏会等での十分な仕事が得られずその経営に工夫を重ね、「出征軍人の歓送迎」「運動会」「祝賀会」「広告宣伝街廻り」「売り出しの口上」「引札撒き*7」「行進奏楽(パレード)」「活動写真の伴奏」等が行われました。
 軍歌と俗謡を和声なしで奏でたりする派遣料金が少額の小人数での演奏の需要も増えたことで、演奏者個人の技量がそれほど高くなくても対応するようになり、その音楽はメロディーと「大太鼓小太鼓の2人はトライアングルやタンブリンも受け持ち賑やかにリズムを叩く」というような物が幅を利かすようになっていきました。
 正式な吹奏楽ではなく一種特別の擬似吹奏楽ですが、この時代の人々にとっては十分に満足できるものでした。活動写真の伴奏もヂンタが伴奏するなど、すべての「ハイカラ」な催しにはヂンタが参加しました。

ヂンタの編成と演奏曲

 堀内氏がヂンタ演奏曲として示した曲

君が代マーチ   吉本光藏(よしもと こうぞう 1863-1907)作曲
帝国マーチ    不詳
日の出マーチ   佐藤長助(さとう ちょうすけ 1906-1983)作曲
ジャーマンマーチ 不詳
カールマーチ   不詳
勝利旗の下    フランツ・ブロン(Franz von Blon 1861-1945) 作曲
軍艦マーチ    瀬戸口藤吉(せとぐち とうきち 1868-1941)作曲
アメリカの行進曲がいくつか
美しき天然    田中穂積(たなか ほづみ 1855-1904)作曲
男三郎の歌    美しき天然の替え歌 「あゝ世は夢かまぼろしか」
ドナウ河の漣   イヴァノヴィチ(Iosif Ivanovici 1845-1902)作曲
ディジーワルツ  アメリカの愛らしい小品
名の知れぬ短調のワルツが三曲程度あった
残月一声     神長瞭月(かみなが りょうげつ 1888-1976)作詞作曲
方舞(吉田信太よしだ しんた 1870-1954編の曲集)
カドリールA) 春(胡蝶) B)
「マルタ」農民たちの合唱 替え歌「爺さん酒のんで酔っぱらって転んだ」で知られる コチロンC) フロトー(Friedrich von Flotow 1812-1883)作曲
出所不明の曲   追っかけられた。追いつかられた、逃げろや、逃げろ
ハイアワーサ  チャールズ ・ ダニエルズ(Charles N. Daniels 1878-1943)
ジョージア行進曲 ヘンリー・ワーク(Henry Clay Work 1832-1884)
敵は幾万     小山作之助(こやま さくのすけ 1864- 1927)作曲
元寇(四百餘州)  永井建子(ながい けんし 1865- 1940)作曲
雪の進軍     永井建子(ながい けんし 1865- 1940)作曲
渡るに易き安城の(喇叭の響) 萩野理喜治
勇敢なる水兵   奥好義(おく よしいさ 1857-1933)作曲
櫻花(桜花)    不詳
舟あそび (唱歌)  奥好義(おく よしいさ 1857-1933)作曲
桜井の訣別    奥山朝恭(おくやま ともやす 1858-1943)作曲
鐡道唱歌     上真行(うえ さねみち1851-1937) 多梅稚(おおの うめわか 1869- 1920) 作曲
世界一周唱歌   田村虎蔵(たむら とらぞう 1873-1943)作曲
越後獅子     新潟県新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする郷土芸能である角兵衛獅子を題材とした地歌、長唄、常磐津、歌謡曲の楽曲
舌出三番叟    長唄
かっぽれ     俗謡、俗曲にあわせておどる滑稽な踊り。
六段       八橋検校(やつはしけんぎょう1614―1685)
春雨       端唄
竹に雀      曲馬團や町廻りが奏するちんどんの定番曲
相撲甚句     大相撲の巡業などで披露される七五調の囃子歌
千鳥       ちんどんの定番曲
きぬた      ちんどんの定番曲
君が代      宮内省雅楽課
桃太郎さん    岡野貞一(おかの ていいち 1878-1941)作曲
すずめの学校   弘田龍太郎(ひろた りゅうたろう 1892-1952)作曲

A) カドリール

B) 春(胡蝶)

C)  コチロン

日露戦争*8後の思想界の混乱

 電車焼き討ち事件(1906年:明治39)、足尾と別子の坑夫暴動(1907年:明治40)、赤旗事件(1908年:明治41)、大逆事件(1910年:明治43)、そして世界恐慌(1908年:明治41)という時代背景の中でのヂンタが衰退していきました。 
 それまでの活躍の中心場所であった広告行列では、人数(4,5人)や方法の制限と手続きの厳重化が行われました。そこでは演奏技能の高い楽士の映画館オーケストラへの転身などもあり演奏曲目の貧弱化が起こり、それまで「楽隊」と呼ばれ多少尊敬されていたのが大正初期になると「ヂンタ」と軽蔑されるようになりました。そして大正末期にはチンドン屋が出現しました。
 ちなみに「ヂンタ」という言葉の語源は、その音楽が「ヂンタ、ヂンタ、ヂンタカタッタ」と鳴るから、或いは森下仁丹の広告用の映画伴奏に使われたことからという2説が有力とされています。

吹奏楽論

 堀内はその時代に活躍しているバンドの編成を示した上で、彼が考える演奏効果が上がる最小編成を提案しています。

各バンドの編成

堀内敬三提案の小編成

 従来のクラリネット第二・第三パートは、サキソフォーンと音が被るので省き、二部2人とする。アルトサキソフォーンを二部としてメロディーも演奏する。フリューゲルホルンはメロディーを受け持ちトランペット二部は、従来の第二・第三コルネットパートを担当させる。テナーベーストロンボーンは必要な時にはテューバのパートも演奏する。バリトンサキソフォーンとテナーベーストロンボーンがテューバのパートも演奏することで低音部が弱いことにはならない。
 木管群(フルート、オーボエ、クラリネット、サキソフォーン)、円錐金管群(フリューゲルホルン、アルト、ユーフォニアム、テューバ)、円筒金管群(トランペット、トロンボーン)のそれぞれが独立して和声群を作ることができる。
 菅原明朗*9編曲で戸山学校軍楽隊が試用して放送を行い良い効果を得たとの記述があります。

*1 堀内敬三(ほりうち けいぞう 1897-1983)は、作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家
*2 ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton 1831-1890)イギリス出身のイギリス軍楽隊長
1869年(明治2)から1877年(明治10)までイギリス軍楽隊長(1871年7月まで)その後、雇音楽教師として吹奏楽等の指導にあたった。
*3 ギュスターフ・シャルル・ダグロン(Gustave Charles Dagron 1845-1898?) 1872年(明治5)来日の第二次フランス軍事顧問団メンバー フランス出身の音楽家
*4 シャルル・ルルー(Charles Edouard Gabriel Leroux 1851-1926)1884年(明治17)来日の第三次フランス軍事顧問団メンバー フランス出身の音楽家、作曲家
*5 フランツ・エッケルト(Franz Eckert 1852-1916)1879年(明治12)来日のプロイセン出身の音楽家、作曲家
*6 團伊玖磨「私の日本音楽史 異文化との出会い」NHK出版<NHKライブラリー> 199年7月
*7 引札(ひきふだ)は江戸・明治・大正時代に商店等の宣伝のために作られた「広告チラシ」
*8 日露戦争(にちろせんそう 1904-1905)
*9 菅原明朗(すがはら めいろう 1897-1988)作曲家、音楽教育者、指導者、啓蒙家。


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                       writer Hiraide Hisashi

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