日記。ただの日記。

前提となる読まなくていい話

「オタクはキャラクターをキャラクターとして愛している。それは実在の女性を愛する練習台ではない」
たぶんこれを理解できないことが、例の界隈との断絶なんだと思います

オタク活動をしているオタクに向かって「マンガなんか見てないでそろそろ現実の恋愛をしなよ(笑)」などと言う人がいるのは、みなさん聞いたことくらいはあると思う。
わたしは実際言われたこともあります。

そういう人たちはマンガやアニメなど創作物のキャラクターを“代用品”だと思っています。
現実の女性や男性の代用品であり、本物が横にいれば迷わずにそっちに飛びつくただのその場しのぎのもの、と思いこんでいる。

そんな思いこみがあるので、萌え絵で作られたキャラクターというのは『本物の女性に似せた姿絵を改変しているもの』に見えてしまう。
もっと言うと“私に似せた姿絵を改変したもの”と思いこんでいる

オタクからすればなんでやねん。って感じですね。

「お前のどこがこのキャラに似てるんだ」そう思うかも知れませんが、それは逆です。
「こんな女、現実にいるわけないじゃん」という見当違いな嘲笑をする人よくいますよね。
あれはつまり「これのどこが私に似てるわけ?(笑)」ということ
です。

分からない人には一生分からない話ですが、あちら側とこちら側で完全なる主客転倒が起きています。

誰かが『自分の写真をコラージュしたもの』を「理想の恋人です」と言って壁に飾ってあるところを想像してください。ドン引きですよね。
その感覚でいるわけです。例の人たちは。

であれば、なんとなくあちら側の気持ちが理解できます。
自分の写真に包丁が突き立てられているのを見て穏やかなままいられる人はいないでしょう。
「お前もこんな風にしてやりたい」というメッセージだと感じ取ります。

キャラクターの設定や事業の内容にひとつも目を通すことなく、絵についてひたすら喚くのも当たり前です。
だって“キャラクター性”というのはイラストに込められた人格です。あの人たちにとってイラストは自分の似姿なわけですから、その人格は自分自身以外にありえません
キャラクターの人格なんていうのは、そもそも存在しないんです。
だってあれは現実の女性の代用品だから、現実の女性は自分だから。

創造物を創造物として愛すること。
キャラクターへの愛は異性への愛の代用品ではないこと。
それが理解できないからこそ、自分を被害者と信じるのです
。だって自分の似姿を変な風に改変して飾っているから。
先に攻撃したのはお前らだから。

ここから本題


しかしそこにあるものに人格を認められるかどうか、というのは古来から人間の課題でもあります。

異教徒は人間じゃないからなにしてもいい。
奴隷は人間じゃないからなにしてもいい。
異国人は人間じゃないからなにしてもいい。

これらはアップデートされてきました。
しかし、この先はどうなるのかわかりません。

最近だと人間並みの知性を持った猿が生まれてしまいそうな科学実験が、倫理的な問題の発生を恐れて成功しそうだから中絶させて中断された。そんな話があります。

もしもその猿が生まれていたら、果たしてわたしたちは人格を認められたでしょうか。
自分が認めなかったとして、認めている人たちがその猿を育てて増やしていたら、果たしてどう思ったでしょうか。多様性を認められたでしょうか。

たとえば計算機の塊に過ぎないAIが人間並みの情緒を持ったとき、人格を認められるのか。
タンパク質の化学反応で精緻に構成された人間という計算機の中に、人格は本当に存在しているのでしょうか


そういうこと考えてたら楽しくなっていました。

人間の認知。
人格の生存競争。
異物の増えていく社会が生むストレス衝動。

そういう小説のネタになりそうな感覚のモデルとなりうる話だなって、わくわくしますね。

「女の子が子育てごっこに使う人形は
実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。
女の子は決して育児の練習をしているのではなく、
むしろ人形遊びと実際の育児が
似たようなものなのかもしれない」

映画『イノセンス』

人形愛とは、人形への愛である。
けして人間への愛の代用品ではない。

では果たして人間並みの知性のロボットを愛するのは、人間への愛と同じような行為や情動になりうるのか。
もしくは、同じ天秤にかけることすら間違いなのではないか。

そういう役に立たないことを考えるのが好きです。

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