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映画『ノストラダムスの大予言』が語るもの

 1974年東宝映画『ノストラダムスの大予言』は現在まで全くメディア化されていない封印作品である。劇場公開された後、大幅にカットされた版がテレビで放映されただけだ。この作品の視聴は極めて難しい。

 『ノストラダムスの大予言』が封印作品となったのは作品中被爆者に対する差別的な表現があったからだとされている。公開中に大阪の被爆者人権団体から東宝 が抗議を受けて該当する場面がカットされた。ビデオの時代が来るとカット版のソフト化が告知されたが結局発売には至らなかった。やはり人権問題で抗議を受 けた影響があるのだろう。

 こうした特殊な事情があるため劇場公開当時以降この映画を観ることは難しくなった。それでも映画雑誌などで取り上げられ評論される機会も少なくはない。しかし、その殆どが低い評価を受けている。
 五島勉の同名ベストセラー本を原作としている本作だが原作自身が小説ではないので映画としてのドラマは創作されている。だから映画はタイトルだけ借りたほ とんどオリジナル作品だ。ノストラダムスの大予言の呼び物だった1999年7の月に空から恐怖の大魔王が降ってくるという人類滅亡を予言はなにかという主 題で公害や核戦争で滅んでゆく人類を描くというものである。

 ノストラダムスの1999年7の月の予言は天文学者でもあったノストラダムスがフランスで観測される皆既日食を予言したものであるということは既に解き明かされている。しかし1970年代特に日本では五島勉の『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになって以来、1999年に人類は滅亡するかもしれないと信じられていたのである。
 ノストラダムスの大予言は終末思想に疎い日本人には鮮烈で社会現象化していたのである。
 
 映画『ノストラダムスの大予言』はストーリーらしきものもなく科学的考証はかなりいい加減で説得力がない。かと言って特撮をメインにしたスペクタクルかといえばそうでもない。ドラマの精密 さと特撮が見事に共存していた前年の『日本沈没』とは比べ物にならない粗雑な作品だった。全体的にストーリー性もドラマ性もなく掴みどころがない。

 公害によって高速歩行をする異常体質の少年が出現したとか、超音速機の爆発でオゾン層が破壊され紫外線で地表や人間が焼かれるとか、そのために湖が蒸発するとか、放射能で人間が食人鬼と化すとかちょっと考えられないようなばかばかしい科学現象が次から次へと登場し、映画ライターたちからこき下ろされるかあるいは笑いものにされている。

 確かに評価しにくい作品である。何が良いのかと問われると答えに困ってしまう。
それでもこの作品の異様な迫力と魅力はなんであろうかと考えてしまう。
 作品で印象として残るのは主役の丹波哲郎が人類滅亡へのカウントダウンに関して熱弁を振るっている姿と声だけだ。黒沢年男のカメラマンも由美かおるの娘も 殆ど作品にとって必要とされる存在には見えない。あるものは丹波哲郎の講話だけなのである。

 舛田利雄監督で丹波哲郎が主役。しかも丹波哲郎の講話がメイン となった作品である。これは明らかに前年の創価学会の教義を説いた大作『人間革命』の影響であることは間違いがない。『人間革命』は舛田利雄監督で丹波哲 郎演じる戸田城聖が延々と教義を熱弁をふるって説く構成になっている。

 そうして考えると『ノストラダムスの大予言』前年の『日本沈没』から続く作品ではなく前年の『人間革命』の直系作品だということに気がつかされるのである。『ノストラダムスの大予言』を近未来SF、あるいは特撮大作映画と捉えたのではまともな評価ができないのは当然なのである。

 つまり、『ノストラダムスの大予言』はノストラダムス信仰を巡る一種の啓蒙映画なのだ。その証拠にタイトルに至るまで丹波哲郎が演じる西山良玄、西山 玄哲というノストラダムスの大予言を使って教義したために江戸幕府や大日本帝国から弾圧を受ける姿が描かれているし現代の部分でも環境学者の西山玄学はノ ストラダムス信仰を受け継いで警告を発し企業権力から弾圧を受けている。あたかも宗教弾圧であるかのような描写である。

 ノストラダムスの大予言を一つの信仰として捉え、その教義を現代社会の問題に当てはめて啓蒙する・・・そう『ノストラダムスの大予言』は『人間革命』の構成に極めて近い信仰を巡る映画なのである。
だとすれば『日本沈没』などのSF映画の基準で比較すればまともに評価できないのもむしろ当然だろう。

 『ノストラダムスの大予言』はノストラダムスの大予言という多くの人が信じている「信仰」に関する教義の映画である。こう考えれば掴みどころのない構成も非ドラマ性もすっきり納得できるではないか。
 ただ、全体的に軽く捉えられがちなのは映画『人間革命』を支えている信仰ほどにノストラダムス信仰の完成度が高くなかったということだ。

 『ノストラダムスの大予言』は1999年に何も起こらなかったために今ではすっかり忘れ去られてしまっている。
 それは信仰としての様相が確かに強かった。ノストラダムスの予言がオウム真理教をはじめとして宗教団体で取り入れられ使われていたことがその宗教性を示している。つまり宗教とコミットしやすい性質をノストラダムスの大予言は持っていたということなのだ。

 映画『ノストラダムスの大予言』は一見、荒唐無稽な科学的設定の中にも震災による原子力発電所の爆発など後に現実となる悪夢の様な予言をこの映画は少なからず含んでいる。
 殆ど評価されない封印されたままの悲運な映画であるが「信仰」を巡る「啓蒙」映画という視点から再度評価が与えられるんことを願っている。

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