『GMK・大怪獣総攻撃』の解読:太平洋戦争と戦争責任(後編)
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『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』太平洋戦争と戦争責任(後編)
⭐️いつもながらネタバレ満載です。ご容赦の程を。
『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』2001年・東宝
監督:金子修介
脚本:長谷川圭一
横谷昌宏
金子修介
出演:新山千春
宇崎竜童
天本英世
★前編に引き続き『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』を戦争映画としての視点から解読します。
1、ゴジラの正体
『ゴジラ・モスラ・キンググドラ 大怪獣総攻撃』(以降、『大怪獣総攻撃』と記す)の冒頭シーンは防衛省から始まる。立花准将が「平和憲法と防衛軍の役割」と題する特別講義を行なっている。
立花「昭和29年、今から50年前、日本は恐るべき災害に見舞われた。ゴジラである。首都東京は戦場と化し、先人たちは多大な犠牲を払い総力をもってゴジラを駆逐した。これは第2次大戦後、平和憲法のもとに創設された防衛軍が経験した唯一の実戦である。以来、我が国は内外に誇る平和を保っているが、すべての脅威が去ったわけではない」
このゴジラ映画の世界観は、1954年の『ゴジラ』に続く物語となっており、その50年後の2004年と時代が設定されている。
つまり、1954年に警察予備隊から名を変え創設された自衛隊がモデルになっている「防衛軍」は、同年のゴジラ事件での武力行使を最後に50年間一度も実戦を行なっていないという設定である。
ここでまず確認しておかなければならないのは、戦後日本が「平和憲法」を遵守してきたという経緯があり、それによって戦禍に見舞われることがなかったということが打ち出されている点である。
防衛軍が経験した実戦が対ゴジラ戦だけであったとされていることから、ゴジラが「戦争」という概念と同じであるとも受け止められるが、後述するが、ここでのゴジラは漠然とした戦争という存在のメタファーではなく、もう少し複雑に展開することになる。
その50年後の世界にまた「ゴジラ」出現の予兆が確認され、政府と防衛軍はゴジラ探索を行い警戒する。
立花の娘、由里はBSテレビ番組の記者をやっており、ミステリーのドキュメンタリープログラム作りのための取材を行なっている。由里は日本各地で起こる不思議な現象を取材する。新潟県の妙高山の大田切トンネルの崩壊で暴走族が事故死し、鹿児島県、池田湖では窃盗犯の若者たちが、白い繭に包まれて殺されているのが発見される。
由里は事件発生箇所が、伊佐山という学者がかつて書いた『護国聖獣伝記』という書物になかに記された「国を守る守り神の怪獣、モスラとギドラ」が封印されている場所と符号していることを突き止める。
「護国聖獣」とは太古の日本人によって殺された怪獣たちで守り神として封印されているのだという。
警察に拘束されていた老人、伊佐山を訪ねた由里はそこで、伊佐山からゴジラの正体についての話を聞く。
伊佐山「ゴジラは砲弾が当たっても死なん。古代の生き残りの恐竜に原水爆の放射能が異常な生命力を与えたとしても、生物であるなら死ぬはずではないか。が、奴は武器では殺せん。ゴジラは強烈な残留思念の集合体だからだ」
由香「残留思念……」
伊佐山「ゴジラには、太平洋戦争で命を散らした数しれぬ人間たちの魂が宿っているのだ」
由里「魂?ゴジラに?」
(略)
由里「でも、ゴジラが戦争で犠牲になった人々の化身なら、どうして日本を滅ぼそうとするんですか?」
伊佐山「人々がすっかり忘れてしまったからだ」
由里「はい?」
伊佐山「過去の歴史に消えていった多くの人たちの叫びを、その無念を」
伊佐山が説くゴジラの正体は、川本三郎が述べた「ゴジラ戦没者説」とほぼ同じものである。ゴジラが戦争で死んだ人びとの無念の思いが怨念となって日本を滅ぼしに来るのだという。その目的は日本人の戦争犠牲者への忘却を許せないからだという。
川本三郎の「ゴジラ戦没者説」と、その後の系譜と大きく違うのは『大怪獣総攻撃』におけるゴジラを形成する戦没者の思念は、日本軍兵士には限定していないことだ。
防衛省に父を訪ねた由里は、伊佐山から聞いたゴジラの正体の話をするが、立花はその考えに疑問を持つ。
立花「太平洋に眠る英霊たちは、日本を守ために戦って散った。それがなぜゴジラになって日本を攻める?」
この問いに対して、由里は次のように答えている。
由里「犠牲になったアジアの人々とアメリカ人と、原爆で死んだ日本人と、それがこう……一つになったんじゃない?」
川本三郎の『「ゴジラ」はなぜ「暗い」か』に始まった「ゴジラ戦没者説」に一つの大きな変更がここで加えられたことになる。
つまり、ここでのゴジラは、日本軍の兵士に加えて、アジア・太平洋戦争における東アジア、東南アジア、太平洋、さらには敵国として戦った連合軍兵士、空襲や原爆で命を落とした日本本土の日本人までも含むことになる。
ゴジラを形成する犠牲者の膨大な人びとの数になる。それは、太平洋戦争で命を落とした全ての人びとである。川本三郎の「ゴジラ戦没者説」や赤坂憲明の「なぜゴジラは皇居をふめないのか」といった日本軍兵士だけの思念を対象とした狭義のゴジラが戦没者のメタファーとする説は如何にも「靖國」的な発想だけに終わっていたが、ここに来てそれはグローバルな視点へと転じたのである。
それが何を意味するのかは明白だ。
兵士を死に追いやった戦争を誘起して実行した日本という国家の戦争責任は、ゴジラを通じて自国民だけでなく、アジア太平洋に向かって開いたことになるのだ。
そしてここで由里の発言を注意深く見てみると、
「犠牲になったアジアの人々とアメリカ人と、原爆で死んだ日本人と、それがこう……一つになったんじゃない?」
ここで示されている人びとの背景は次のようになるだろう。
アジアの人々(中国、朝鮮、フィリピンなどアジアの戦争被害者)
アメリカ人(太平洋戦争に参戦した連合軍兵士たち)
原爆で死んだ日本人(沖縄、広島長崎、全日本国内の戦争被害者)
この日本人を含む膨大な犠牲者に含まれていない対象は国家としての日本であるということになる。それは次の「護国聖獣」の解読によってより明らかにされる。
2、「護国聖獣」の正体
日本を襲撃してくるゴジラに対抗する「国の守り神」が「護国聖獣」である。「護国」という言葉自体が、戦時の国家ナショナリズムを想起させてしまうが、これには護国聖獣というものが成立した歴史について紐解かなければならない。
劇中で護国聖獣は次のように説明されている。
武田「護国聖獣伝記によると、日本には古来バラゴン、モスラ、ギドラなどの怪獣がいて、狛犬やタマタノオロチノの伝説の基になった。古代王朝は彼らを退治したあと霊を慰めるため、「護国聖獣」と呼んで神として祭り、一万年の眠りにつかせたとされているんだ。殺した敵を神にしてしまう日本独特の習慣は、大和朝廷にも引き継がれたんだよ」
つまり、護国聖獣を祀ってきたのは古代日本の王朝であり、大和朝廷である。天皇制による国家によって護国聖獣は祀られてきたのであるから「護国」という用語の運用自体はリアリズムという点で至極当然ということになる。『大怪獣総攻撃』で使われる「護国」という言葉はその設定上で存在するのであって、国家民族主義に基づいた「国防」の意味を肯定的に機能させるものではない。
そのまったく逆なのである。
防衛省の立花を訪ねた由里と武田は護国聖獣についてもこう説明されている。
武田「モスラ、バラゴン、ギドラが眠る聖地と事件の現場は極めて近いんです」
立花「守り神がなぜ人を襲う?」
武田「彼らが守るのは『くに』です」
由里「大和言葉の『くに』よ。国家のことじゃなくて」
武田「山や川、自然を含んだ古来からの概念です」
立花「本気で信じているのか? 君たち」
護国聖獣が守るのは国家としての国ではない。郷土としての国を意味していることがわかる。つまり、天皇制の国家によって祀られてきた護国聖獣は、奇妙なことに天皇制国家ナショナリズムには寄与しないし機能もしないのである。
なら、護国聖獣の正体とは何かについて考えてみる必要がある。それは単なる怪獣であったのだろうか。
ゴジラという怪獣が太平洋戦争で死んだ人びとの残留思念の集合体なのだとしたら、護国聖獣という怪獣も同じものではないだろうか。何らかの戦争犠牲者である可能性もある。
池田湖で最初にモスラが登場したところで、そのニュースを立花と由里が見ることになる。池田湖の事件の情景が映し出されているところで、立花はつぶやく。
由里「池田湖って……」
立花「指宿温泉の近くだな。西郷隆盛が征韓論で下野して、江藤新平と西南戦争の前……」
由里「偶然じゃないわ……」
立花のこの短い呟きには護国聖獣の正体を突きとめる重要な意味が隠されている。
池田湖から3キロほど離れた鰻池と呼ばれる小さな湖の湖畔に指宿温泉があり、1874年(明治7年)に権力闘争に敗れた西郷隆盛が1ヶ月ほど逗留したことが記録されている。その2年後に西南戦争で西郷隆盛は命を落とすのである。
ここでは西郷隆盛が引き合いに出されているが、先の武田による護国聖獣の説明のなかで護国聖獣は朝廷の敵であったとある。つまり、護国聖獣は西郷隆盛のごとく「朝廷に弓をひいた」ために殺された「戦争」の戦没者であったと解釈することができる。
『古事記』や『日本書紀』に登場する熊襲や蝦夷といった南方と北方の大和朝廷に対抗する勢力。東北で対朝廷抵抗戦争を繰り広げたアテルイ、朝廷に対するクーデターによって建国を目指した平将門、海賊となって朝廷に弓をひいた藤原純友、近現代では昭和維新を唱えてクーデターを起こし逆賊として弾圧された北一輝や226事件の青年将校たち……つまり古来から近現代に至る天皇制国家主義に対して戦って殺された(リーダーだけではない)「革命戦争」の犠牲者たちの残留思念の集合体が護国聖獣であると十分解釈できる。
3、ゴジラ、護国聖獣、防衛軍、そして忘却への抵抗
『大怪獣総攻撃』はこのように複雑な構造によって形作られていことがわかる。
ゴジラが日本という国家が開始した太平洋戦争における戦争被害者の残留思念の集合体であり、護国聖獣は日本国内の天皇制国家主義に抵抗した戦争被害者のそれであった。
ここに残されるのは国家としての日本の戦争加害に対する戦争責任の問題である。
ゴジラが日本がもたらした戦争という災禍の責任であるとするなら、それについて隠蔽した者たちが国家にあり、忘却した国民がそこにある。
国家の隠蔽体質については、ゴジラに通常兵器で歯が立たないことに50年前の防衛軍のゴジラ殲滅に疑問を感じる立花が防衛官僚の日野垣に苦言を呈するシーンによく現れている。
日野垣「50年前、ゴジラは未知の毒化合物によって、それを開発した科学者と共に太平洋に葬られた。化合物が何だったのか、もはや誰にもわからない。通常兵器が効かなかったということだ。防衛軍は、まったく何の役にも立たなかったんだよ。だが、このことが公になれば軍の不要論にもつながる。軍の存在を守るため、歴代の防衛官僚は50年にわたって、これを秘密にし続けなければならなかったんだ。それが……私の仕事なんだよ」
一方でゴジラ、つまり戦没者の存在と日本の戦争加害の責任を忘却している日本人の姿として次のようなシーンがある。かつてゴジラが襲った大戸島に隣接する孫の手島の民宿に宿泊している若い男女の会話である。
女B「あっ、ここのお婆さんが言ってたよ。50年前にゴジラが襲った島って、この島のすぐ近くなんだって」
女A「ゴジラって防衛軍がやっつけたんでしょ?」
女B「そう、殺しちゃかわいそうだよねえ、罪のない動物なのに」
男「保護して飼ってみたらどうかな」
(一同爆笑する。)
そして、忘却せる国民の一人として、メディアの代表である由里の上司、門倉の次のセリフがある。
門倉「由里ちゃんも信じるの? このじいさんの話」
由里「単なる妄想とは思えないんです。本を書いた伊佐山教授ですよ」
門倉「うちのカミさんの親戚にもゴジラにやられた人がいるってよ」
由里「やっぱり(取材は)却下ですか?」
門倉「今さらゴジラってのもねえ」
防衛官僚が過去のゴジラ(日本の戦争加害の責任)を隠蔽してきたという歴史の延長線上に国民の意識がある。
門倉の「今さらゴジラってのもねえ」のセリフが示すように、過去の日本の戦争加害とその戦争被害者のことなど誰も関心も寄せない世界。それが日本の姿であるということを示しているのである。
一方で、50年前の幼少期に、ゴジラの直接的被害を受けた立花はこう語っている。
立花「今朝の閣議で、ゴジラ探索の中止が決定された。軍は警戒を続けるが、政府は生存説から見直しを始めている。平和な時代が、ゴジラの恐怖を忘れさせてしまったようだ。俺は今でもはっきり覚えている。奴を。50年前のあの日、炎で夜空は真っ赤に染まり、ビルも鉄道も破壊され焼き尽くされた。その中を黒く巨大な塊がゆっくり歩いて行く。鬼か悪魔か、奴の顔は憎悪にくるっているように見えた。俺は逃げ惑う人々の中を無我夢中で走った。気がついたときは両親とはぐれ二度と会うことはなかった。俺は1日たりとも忘れたことはない。やつに殺された人々の叫びを」
立花は戦争に対する恐怖を記憶している。そして、太平洋戦争の戦争犠牲者たちの憎悪の激しさもゴジラの形相として記憶しているのである。彼にとってこの事実は、忘却などするはずもない大きなものである。
立花はゴジラの被害者である。そのゴジラも日本が起こした戦争の被害者であるという複雑な構造になる。
この構図のなかで、さらに天皇制国家主義の弾圧によって殺された人びとの存在としての護国聖獣が関わってくるのである。
忘れられた被害者たちが日本を舞台に守る側で戦うことになる。
それは国家が主体とはならない「『くに』を守る」ということになる。国家を守る戦いではなく「郷土」を守るという図式である。
そして、立花が映画の冒頭で述べた通り防衛隊は過去の天皇制国家主義に依らない「平和憲法によって創設された軍隊」であり、共に戦うのは天皇制国家主義に抵抗した護国聖獣なのだ。
そこに支援の心を寄せているのがゴジラ(日本の戦争加害による被害者)が何であるのかを知っている由里である。
そして、横浜でゴジラとの決戦に臨む防衛軍に「兵隊のみなさん! がんばってください!」と声援を送る中国人の青年でもある。
この応援者の青年が中国人であるということも大きな意味を持つ。日本の戦争加害については小学生の頃から学校で、歴史教育を受けてきている中国人青年は、歴史に無頓着な民宿に宿泊する日本人の若い男女とはまったく対照的な存在mなのだ。
その上で過去の日本の歴史と立ち向かう防衛軍の兵士たちに声援を送るのだ。
一見、戦争被害者の残留思念の集合体のゴジラを殲滅するという行為が過去を封印してしまう行為のように見えるかもしれない。
しかし、ゴジラの本性が何であるかといういうことを理解して、ぶつかって行くという行為は、今現在の日本人にとっても不可欠なものであると訴えかけていると解釈もできる。
ゴジラを克服できないから事実を隠蔽し、国民の記憶から忘却へ追い払おうとする国家の政策では、なんらの根本的な解決にもならない。
なぜなら、日本と日本人を標的にしているゴジラは日本の国の圏外にいつの時代にも存在しているからである。
ゴジラを日本の戦争加害と戦争責任に転換するなら『大怪獣総攻撃』が発するメッセージは一目瞭然であり、これが隠されたテーマでもある。
ラストシーンの立花と由里が海へ向かって防衛軍兵士と護国聖獣に対して敬礼をする場面を軍国主義的と感じた人も多かったかも知れない。実際この映画はそのように批判されたのも事実だった。
しかし、これまでの考察で読み解くと、この最後の敬礼はゴジラの正体を知っている二人が「平和憲法によって創設された」防衛軍と、「天皇制国家主義に抵抗した」護国聖獣に対するリスペクトであり、国家防衛に対するそれではないのである。
日本の映画文化で、戦争映画にしても、怪獣映画にしても先の大戦における日本の戦争加害者としての立場を表彰するものはほとんどないといってもよい。
われわれは常に戦争や怪獣による被害者の立場を取り続けているのである。
その中にあって、『大怪獣総攻撃』は狭義のゴジラ戦没者説を日本兵に限定した「靖国」的観察から、日本が実行した結果、生まれた戦争被害者まで広げた。
さらに日本国内の歴史で殺されていった天皇制国家主義の犠牲者もパラレルに存在させるという新たな視点も提示した。
ここには日本の古い価値観及び天皇制国家主義との敢然なる決別しようという姿勢が窺えるのだ。
これによって、日本の国家としての戦争責任、加害者性、そしてそれを忘却しているわれわれ一般国民の責任の問題にまで警鐘を鳴らしているのである。
忘却への警鐘とその責任に対して立ち向かわねばならぬということを説いているのである。
ここには戦後民主主義の理想的な815の変革の姿がある。
一見軍国主義的に見える『大怪獣総攻撃』という怪獣映画は、日本国内の戦争映画がなかなか成し得ない主題を怪獣映画という寓話でわれわれに問うものであったのだ。
そしてゴジラがまた動き出す最後のショットに、われわれが何を考えるべきなのか。
この映画はそれを投げかけて終わるのである。
「過去に向き合わない者は現在においても盲目となる」
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
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