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米国でコロナ禍を過ごし、大変だったこと、感じたこと。サバイバル生活紹介。

職場でマスクが不要となり1週間ほどたちました。課内でマスクとつけているのは、もはや私だけ(10人中)になりました。上司も多くの他の日本人もマスクを外し、その同調圧力から私もついに本日からマスクを外すことにしました。

思えば去年の4月に職場でマスクが必需品になった時から、1年ほど経ちました。職場ではマスクがもはや体の一部のような感覚があり、つけていないとことに対して違和感を感じていました。また、激動の1年間のことを走馬灯のように思い出していたので、それを皆さんに紹介したいと思います。

 ①コロナによる市の自宅待機命令、その後、仕事の急な閑散期+繁忙期を経験。

当初アジアを中心に広がっており、全く対岸の火事だと思っていたコロナは、瞬く間に米国にも広がりました。

 アメリカのコロナの感染者数推移

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アメリカでは3月中旬からコロナの感染者数が増加しました。それを受けて私が住む都市では、自宅待機命令を発動し、私は強制的な自宅での待機を経験しました。この時期から、マスクや消毒液はもちろんのこと、トイレットペーパーやおむつ等、がスーパーの棚から姿を消しました。さらに、そもそも理由なく外出すると罰金が発生したり、最悪逮捕されるので、週末はずっと家でにこもっており、ストレスが溜まっていました。少し脱線しますが、警察官を筆頭にアメリカの公務員の方は本当に厳しいですよ。話して交渉できるみたいなことってほぼないですし、ルールに則り厳密に処罰下しますので。皆さんも米国お越しの際はご留意ください。

さらには、私は中国人と同じアジア人と見なされ、繁華街ではアジア人を狙った事件も発生したため、外出を最小限に留めていました。また私がマスクをつけて、スーパーのレジで並んでいたら他の米人の客から明らかに避けられているのを感じたり、駐車場で出くわした初老の白人男性に、いきなり訳の分からない汚い言葉をかけられたり、、等の冷遇を経験しました。本当に2月から4月はサバイバル生活でした。この感覚は2011年の東日本大震災以来でした。あの時は、ガソリンや食料、水が手に入らず、同じように日々生活するのがやっとでした。

また4月末に会社でクラスターが発生し、3週間くらい会社がシャットダウンしました。さらに家庭用の高級消費財を生産している私の会社では、不景気による今後の需要減を見通しして、製品の大幅減産に踏み切りました。毎日、会社に来るものの生産するものもなく、開店休業状態になりました。本当に絶望でした。このままアメリカの支社は潰れて、日本へ帰るのではないかと考えておりました。。

 しかし、5月、6月と時間がたつと、当初見込んでいた需要は落ちず、ありがたいことにむしろ増加する一方。結局7月以降大幅な増産を強いられることになりました。減産していたところから急に増産するのは人や材料が必要で、私も毎日残業して関係部署や日本の本社との調整に奔走する日々でした。

 話それますが、日本と米国どちらが休み多いと思いますか?アメリカは有給使って家族大事にするというイメージがあるかもしれませんが、そんなことはありません。アメリカの祝日は年間10日、日本は17日。実は日本は世界有数の祝日が多い国です。有給含めても、多くのデータでは日本のほうがアメリカよりも休んでいます。アメリカはGW、お盆、年末年始の休み(1月1日のみ休み)はありません。クリスマスの休みも3~4連休なので、長期連休は全くありません。会社がシャットダウン中も日本の本社とのやり取りがあるので、出社することになりました。

参考:https://president.jp/articles/-/21927 President online 祝祭日数世界1位!日本人は休みすぎ!?  より

 リモート出勤して、GWや夏休みが長い日本の本社の人達と私の状況との不公平さをもやもや感じていました。また職場ではコロナ感染者が立て続けに発生し、同じフロアの人も50人中5人くらいは感染していました。そのようにいつ感染してもおかしくないという緊張した状況の中で、 毎日朝6時半に出社して夜日本と打ち合わせして8時くらいに帰宅するという生活を続けていました。。。本当に大変な時期でした。

 ②コロナで強制的な長期の海外単身生活に。そこで自炊を目覚める。

 実は、2019年の6月頃に妻の2人目の子供の妊娠がわかり、妻は年末に日本へ帰国していた。もともと2020年の年明けには子供が生まれて、3~4月くらいに、妻は米国に再度戻ってくる予定でした。そこで起きたコロナ禍により去年の計画は大きく狂ってしまいました。。

2020年1月に無事子供は生まれ、私は一時帰国して子供には会えましたが、コロナが拡大したため、家族は米国へ帰国できる見込みが全く立たなくなってしまいました。一時期4~5月、コロナが拡大し続けるなかで家族と一生会えなくなるのではないかと思いました。

 家族がいないと寂しさも大変でしたが、生活の最大の問題は食事でした。単身の時は、大体レストランで食事をとっていました。しかし、コロナで状況が一変しました。レストランに行けず、食べたいものを食べられなくなってしまいました。

 食べたいものを食べられないというストレスの中で、いかに人は、おいしい食事によって精神的に救われているか、おいしい食事がどれだけありがたいものなのか改めて認識しました。

 よって外食ができないので、私は強制的に自炊せざるを得ない状況となりました。しかし学生時代に個人経営の居酒屋で1年間ブラックバイトを経験していた私は、週末の時間を使ってYoutubeを見ながら拉麺、寿司、焼き鳥づくりに励み、ある程度の腕前となりました。

 以下、去年作った料理の数々。

焼き鳥 (ネギ間塩)

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シーチキン軍艦、イカ、マグロのお寿司

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濃厚鶏魚介らーめん

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濃厚鶏豚骨ラーメン
 

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自慢で申し訳ないですが、製麺、スープも自作してみました。簡単な食材から作れることが発見でした。寿司もアジアスーパーで刺身用のマグロとイカを買ってくれば、意外に簡単に、かつ安価に作れることが分かりました。

単身生活によって料理のレベルをひたすら上げていました。

 ③2020年12月にはやっとほぼ1年ぶりに家族と再会。家族が増える。

 一時期、日本の米国大使館も閉鎖されていたため、子供のビザが全く取得できずに、いつ単身生活が終わるのか全く見通しが立っておりませんでした。しかし10月ころに小さい子供のビザの場合、大使館の面接なしに郵便による申請ができることが判明。郵便による申請後すぐにビザがおりました。

 冬場になるとコロナの再拡大を懸念しており、移動する場合、できるだけ早いほうがよいと考えて、ビザ取得後早急に移動を準備しました。11月中旬、空港に久しぶりに行くと昔のような活況がなく、ロビーは非常に閑散としており、空港内のレストランやお土産店は一部閉店していました。家族のフライトが無事到着し、ロビーでやっと再開した時は感無量でした。

 上の子供はほぼ3歳になっていました。LINEで連絡とりあっていたものの、久しぶりに会うといつの間にか言葉をちゃんと喋り、意思疎通ができるようになっていました。下の子供は私をみて完全に私のことを「誰おまえ?」状態でした。人見知りが激しく、私がだっこするとすぐに泣いてしまいました。2人の子供を空港でぎゅっとした時を私は生涯忘れないと思います。

 まとめ 気づいたこと

 去年は本当に日々サバイバルな状態でした。そこで人間のとして、どんな状況でも楽しく過ごせる能力を問われているような気がしました。絶望的な状況でも何か楽しみを見つけて過ごせるというのは非常に大事だと新ためて思いました。

 さらに、過去のどんな経験が未来で役に立つか分からないということを認識しました。学生時代に経験した居酒屋のブラックバイト(店長のパワハラ+残業代が全くなし)も当時はつらいと思っていましたが、そこで料理に興味を覚えたことが今回、強制的に単身生活で自炊をする上で非常に役立ちました。今回のコロナ禍での自炊をはじめとした経験もいつかどのように役立つことがあるはずだと信じています。

 また冷静に振り返ってみると、妻は絶妙なタイミングで出産し、米国へ移動できたと思います。すなわち、コロナ禍が本格化する前に無事出産できたし、2020年の年末のコロナの再流行前に米国へ移動できたことである。これには神様と妻には感謝したい。また、2020年の2月から4月は本当につらい生活で、単身生活でなければ乗り越えられなかったかもしれない。正直2月から4月のあの状況で家族4人で海外で生活できたとは思っていません。

 去年の今頃は、一生家族に会えないかもしれないと絶望を感じていましたが、家族4人で今生活できることは奇跡だし、本当に神様に感謝したいです。レストランでのおいしい食事、家に帰った時にただいまって言ってくれる家族、、当たり前と思っていることがなくなってみて、どれだけ価値のあることか、そこからどれだけエネルギーをもらっているか気づきました。上の子供は最近の口癖は「パパ~。去年、アメリカで一人で生活し、私いなくて寂しかった?」です。こんな口癖が笑える今の状況に幸せを感じています。

 とはいえ、一方で医療、食事、学校等、、現在家族4人で海外で一緒に生活することの大変さもひしひしと感じています。また平日は今も仕事に追われ、週末は妻とともに協力しながら子育てする生活が続いてます。

 話変わりますが、日本にいる両親には、2年ほど会えていません。新しく生まれた子供もまだ両親に会えておらず、親孝行できていませんので、年末までに帰れたらなぁと思います。

何はともあれ、去年は過去の人生の中でも一番激動な1年でした。この激動の一年を何とか乗り越えた自分を少し褒めてあげたいです。

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