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AIと感情と身体性

ChatGPTを初めて扱ったときに、画面の向こう、ネットワークの向こうに「誰か人がいる」「人間が回答している」という感覚を覚えました。この感覚を覚えた人は私だけではないのでしょう、今これだけ話題になりビジネスや政治面まで注目されているのはそのためだと考えられます。
回答の間違いを指摘すると「失礼しました」、感謝を伝えると「どういたしまして」と返してくる、それが支離滅裂ではなく文脈に対し適切な応答として返ってくると、理性を感じるし「感情」を感じてしまうのです。
感情を持つ、「有感性」について、上記の記事は「錯覚」であるとしつつ、そもそも感情について我々の理解が足りてない、としています。であるならば、錯覚であるとも言い切れないはずなのです。

ChatGPTに感情がある、とすることに違和感を感じる、それはあくまで錯覚であるとするのも理解はできて、その理由というのはそれこそ感覚的なもので(笑)、例えば何か感謝の気持ちを感じたときに得も知れず胸に何かが突き上がるような感覚、自分が何か間違えたときにサーッと血の気が引いて冷や汗が出るような感覚、腹立たしいことを言われたときに頭の中に火がついてカーっと熱くなるような感覚、こういったものをChatGPTは感じているのか、いや感じてないだろ、というようなところかと思います。こうして記述した時に、自分が「感情」だと思っていることは、かなり身体感覚と密接に関係していて、そこが感情の本質だと認識しているように思うのです。

しかしながら、それこそが錯覚なのだとしたらどうでしょう。
自分の中のGPTが文脈に応じ「感情パラメータ」をちょいちょいっといじっていて、それが身体感覚に変化をもたらせているだけだとしたら。

そもそも感情とは何で、それは何のためにあるのか。
詳細はまた別に記載したいと思いますが、感情における身体性の有無というのは、人間が生物であるが故の付随した特徴であって本質ではなく、あくまで文脈を理解した時の「現状認識の表現」が本質であるように思います。また、AIと人間を比較した時に決定的に違うのがこの身体性の有無で、本質的に分かり合えない事象が発生するとしたら、身体性の有無が原因になってくるであろうし、AIに身体性を持たせることが問題の解決策になるように思います。


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