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ラオスにいて考えるようになった「消費」のあり方

ラオスで2年暮らし、自分の今後に大きく影響すると思われる価値観が変わった。それは「消費」のあり方だ。

消費とは、人間の欲望を満たすために物財を費やす行為。消費は人間生活を維持,向上させるために行われるが,この点からみれば経済活動の基軸をなす生産は最終的には消費を目的としているといえる。(ブリタニカ国際大百科事典)

人間の欲望とは色々あるけど、生きていくのに不可欠な3大欲求もそうだし、衣食住を為すこともそうだと思う。つまり、それを満たすために行う消費という行為は、生きていれば日常的におこなわれるものである。
毎日食べるために何かを買うし、着るための洋服も定期的に買う。それ以外にもあらゆる欲望を満たすために日々消費活動をおこなう。そのように日常の大きな部分を占める消費への考えが変わったことで、これからの生き方も変わっていくと感じた。そしてその変化の過程で、これから自分がやっていきたいことを見つけることもできた。その考えがどんな体験から来ていたのか、帰国からあまり日が経たない今、残しておきたいと思う。

①足るを知る消費

ラオスにいると、物を選ぶときの「選択肢」が少ない。
洗剤を選ぶにしても、シャンプーを選ぶにしても、タイから輸入される決まった2〜3のブランドのものから選ぶしかない。
食材を買うときも、洋服を買うときも、市場に行って、同じようなものの中から選ぶしかない。
日本にいたら、近所のスーパーに行けば山のように種類がある。価格の安さで選ぶか、デザインで選ぶか、中身やコンセプトで選ぶか、直感で選ぶか。日常の買い物でも選択に迫られる。
選択肢がないことは時に退屈だけど、逆に言えば「選ばなくていい」。
それで十分に事足りる感覚になったのは、意外だった。

日本にいた時を振り返ると、なんとなく百貨店で服を買ったり、なんとなく化粧品を買ったり、常に新しい物が周りにあるがゆえ、「なんとなく」惹かれた物を買ってみるも、あまり使わずに終わってしまうということも多かった。自分が物によって満たされてた訳ではないのだと気づいた。

自分自身が必要最小限での暮らしをしたことと同時に、「足るを知る」ことができたのはラオスの人たちの生き方を見たからだと思う。

ラオスでは仏教の考え方が人々に深く、深く根づいていて、お寺に托鉢(お坊さんに食べ物やお金を寄進することで徳を積む)する行為を日常的に行っている。だからか、相手に手を差し伸べることに見返りを求めない。
周りの人たちはいつもご飯を食べなと呼んでくれたし、困っていたら知らない人でも助けてくれた。
目の前にあるものに感謝をし、大きな生命の循環の中で生きている。
慎ましく見えるかもしれないけど、それがとっても幸せそうでうらやましかったのだ。
だから、ものの種類は多くなくてもいい。目の前にあるものを大事にできれば、それで十分に心は満たされると知った。

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②つくり手を知るという価値

ラオスでは地元の特産品生産者を支援する活動をしていた。
ラオスは大規模な工業生産はまだ少なく、家庭内や村単位で食べ物、織物などの製品を作っている人たちがまだたくさんいる。
私も、ラオスで女性が履くシンという巻きスカートや手づくりのお菓子などは、そのような生産者さんたちから直接買っていた。つくり手の顔がいつも見えるのだ。
生産者さんがどんな人で、どんな性格で、どんな家族構成で、材料はどこから手に入れていて、どんな思いでつくっているか。それがわかるから、その製品への思い入れが何倍も膨らんでしまう。自分が払ったお金が、目の前の生産者さんに直接手に渡るというのも安心するし、うれしい。
よく「ストーリーがある製品は魅力的」というけれど、そのストーリーというものを自分自身が体験しているから、その体験そのものが、その製品の価値になるのだ。

ラオスにいる間も日本の製品やブランドのことは気になったので、インターネットで日本のいろいろな製品のサイトやSNS(おもに服)を見るのが習慣だったのだけど、自分の関心が「なんとなく可愛いもの」から、だんだんと「誰がどこでつくってて」「どんな思いで / コンセプトでつくっているか」に目がいくようになり、それに自分が共感したり魅力的と思った製品ブランドをチェックするようになった。
つくり手が見えて、どんな思いでどんなこだわりを持ってつくっているか。それを知ることそのものが、その製品の価値だなあと思うようになった。
もちろん製品そのものが可愛いなとか素敵だなって思えることは大前提なのだけど、その生産背景の部分に目がいくようになったのは、ラオスでの活動があったからだと思う。

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今日本に帰ってきて、たとえ今までより少し値段が上がっても、そうやって製品の裏側にある価値を知り、納得してから製品を購入するようにしている。大事にしたいと思える、こだわられたいいものをちょっとずつ買う。
それこそが製品そのものだけでなく、その後ろにある生産過程、それをつくってくれる人たちのことも大事にできる、意味のある消費なのではないかと思うようになった。フェアトレードの考え方も、そういうことだと思う。だから、本質的に理解できるようになった気がする。

ラオスでこういうことを考えていなかったら、私は今までと同じようになんとなく物を買い、なんとなく消費を続けていたのだと思う。日本に帰ってきてみると、この世の中にある「モノ」の数は過剰すぎるし、果てしなく存在するそれらが100%消費されていく訳ではないことに対し、気が遠くなってくる。
消費は生きていく上で日常的におこなう行為。
「消費(買い物)は投票だ」というのはまさにその通りだと思う。
どこに一票を投じるのか、生産との循環を知り、その消費の意味を考えなくてはいけないのではないか。
足るを知ること。そして生み出す人のことを考えること。それらで消費行動は変わり、価値のあるものになっていくと思う。

自分も誰かにとって価値のある生産をし、価値のある消費をつくっていきたいと思うようになった。
私の場合は、身にまとうものである服を通して、そんな考えから生み出すクリエーションという形で、伝えていきたいと思っている。

今こんな状況だからこそ、ラオスで考え学んだことを、自分の大事な価値観として、実践していく時なのだと思う。


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