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【読書コラム】松本人志と孔子と千利休と - 『ディスタンクシオン』ピエール・ブルデュー(著),石井洋二郎(訳)

 松本人志が何者だったのか考えている。

 わたしにとって松本人志はテレビの象徴であり、別にファンではなかったけれど、幼少期から現在に至るまでかなりの時間接しているので、相当の影響を受けてきた。

 好きだった番組もあれば、そんなに好きじゃなかった番組もある。腹がよじれるほど笑ったこともあれば、一ミリも笑えなかったときもある。

 小学生のとき、島田紳助とやっていた『松神』は毎週見ていた。すごく共感できることを言っているなぁと思った直後、えぐい価値観が提示され、ドン引きするなんてことはしょっちゅうだった。これは放送作家の高須光聖とやっていた『放送室』も同様だった。

 なんというか、松本人志は最高と最低を共存させていた。そのため、圧倒的な人気があるはずなのに、長いこと、好感度は低いままだった。

 映画を作ったとき、みんながボロクソに叩いていた。ちなみにわたしは全部見ているけど、けっこういいと思った。というか、傑作だと思った。特に『R100』には度肝を抜かれて、映画館に三回行った。なぜ、誰も褒めないのだろうと不思議だった。唯一、褒めていてのはみうらじゅん。ああ、松本人志は嫌われているんだなぁと可哀想になった。

 松本人志はシュールレアリスムやポストモダンの技法をお笑いに持ち込んだ。初期の代表的な漫才『誘拐』のセリフは聞くものの頭の中に色彩を炸裂させた。

いいか? 一回しか言わないからよく聞けよ。緑の鞄に500万入れて白の紙で黄色の鞄言うて書きながら赤の鞄言いながら置いてくれたら俺黒の鞄言いながら取りに行くわ。

ダウンタウン『誘拐』 

 中期の『ごっつええ感じ』や『VISUALBUM』では、既存のテレビ番組を脱構築したり、ベタなアイディアをデペイズマンのやり方で違和感ある形で組み合わせたり、特殊な人の普通を描く精神分析的アプローチを試みたり、何度もハッとさせられた。

 後期は主にテレビ番組のフォーマットを発明するようになり、『笑ってはいけない』や『すべらない話』、『IPPONグランプリ』、『ドキュメンタル』など、ルール作りの才能を発揮していた。

 一方、ガラの悪さからダウンタウンを毛嫌いしている人も多い。日本のお笑いに品がないのは松本人志のせいだと本気で怒る人もいる。かつてダウンタウンと共演した坂本龍一も天童荒太との対談で、松本人志に否定的な意見を述べていたようだ。

<挑発すべきものがなにもないところでやってるから、パフォーマンスとしての反抗にならざるを得ない。ここ二、三年のダウンタウンの芸って、年下の芸人をいたぶってるだけで、一言で言うと、「どんくさいやつをいじめてなにが悪いの」ってことでしょ。>(p.118)

<結局、子どもたちはみんなダウンタウンをやっている。だって、いまのいじめとか少年犯罪のパターンって、ほんとダウンタウンそのままじゃない? 松本人志はあのすごい才能で、そういう社会を啓示したんだよ。>(p.119)

<「いじめてなにが悪い」から「人を殺してなにが悪い」に行き着くのは早い。>(p.120)

女子SPA!『松本人志に坂本龍一さんが生前投げかけていた疑問。90年代にはCDプロデュースしたが』

 週刊文春の記事を巡る騒動について、上沼恵美子は『クギズケ!』で、知り合いに芸人になったきっかけを尋ねると、九割近くがダウンタウンの名前を挙げると前置きし、以下のように語った。

「『芸人さんの人生を決めたダウンタウン』、そのぐらい大きな人なんですよ。ダウンタウンが頂点になって、日本一になったのはもう30年(前)。2年、3年活躍するだけでも大変な世界で、30年も王様で、トップで走ってきたというのはすごい力を持ってるわけですよ」

J-CASTニュース『上沼恵美子、松本人志への「熱弁10分」は批判?エール? 「ズバッと言った」「愛もあった」ネット見方割れる』

 数多くいる芸人の中で松本人志が一番面白いかは意見がわかれるところだろう。でも、松本人志がお笑いの地位を向上させたことに疑問の余地はない。

 松本人志がいなければ、こんなにもたくさんの若者が芸人を目指していなかっただろうし、吉本興業がこんなにも大きくなっていなかっただろうし、テレビでもネットでもお笑いがあふれかえってはいなかっただろう。

 わたしは松本人志以降のテレビしか知らないので、芸能人の代表格はお笑い芸人だと思っている。でも、上の世代の人たちと話をすると、むかしは全然違ったようでビックリした。

 一時、わたしは芸能系の仕事をしていたのだけど、そのとき、年配の関係者たちから、日本の芸能界はミュージシャンが作ったものとたびたび聞かされた。

 ナベプロの創業者・渡辺晋は早稲田在学中に中村八大らとジャズバンドを組み、ベーシストとして活躍した。ホリプロの創業者・堀威夫はグループ・サウンズのギターリストだった。サンミュージックの創業者・相澤秀禎は横須賀キャンプのバンドマンだったし、田辺エージェンシーの創業者・田邊昭知に至ってはザ・スパイダースのリーダーだ。

 これらの芸能プロダクションが東京に大きく存在し、テレビの仕事をほとんど抑えていたので、芸能人とは歌手のことであり、芸能界デビューとは要するにレコードデビューを指していた。そのため、いまも芸能事務所の業界団体は日本音楽事業者協会という名前のままである。

 そのため、萩本欽一やドリフターズ、ビートたけしや明石家さんまなど、お笑いからテレビスターが次から次へと生まれても、歌手に対しては遠慮がち。文字通りゲストとして丁重に扱い、コントに参加させるとしても損させまいと必死だった。

 しかし、歌手>芸人という絶対的な関係式はダウンタウンの『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』によってひっくり返ることになる。

 当時、芸人がゴールデンタイムの歌番組の司会をするなんて前代未聞だった。その上、出演したミュージシャンをいじり倒し、ときには物理的なツッコミを入れ、笑いものにしてしまうなんて、あまりにも革命過ぎた。

 特に松本人志の歌手に対するトークは凄かった。ちょっとした会話からツッコミどころを見つけ出し、その人のメッキを剥がす技術は半端なく、それまでカリスマ性を帯びていたはずの歌手たちが、どんどんアホにしか見えなくなっていった。

 松本人志の凄さはお笑いの中で考えるとわからなくなってくる。なぜなら、面白さは主観的なものであり、人によって基準はバラバラだから。ホリエモンが松本人志よりハンバーグ師匠の方が面白いと言っているように、千差万別、なんだってありなのだ。

 面白いか否かの文脈で考える限り、松本人志の本質は見えてこない。ひょっとしたら、芸人として捉えることすら間違っているかもしれないとわたしは疑ってすらいる。

 では、松本人志とは何者だったのか。

 たぶん、一流の革命家だった。

 とはいえ、ナポレオンやチェ・ゲバラのように既存の権力に真っ向から戦いを挑むタイプの革命家ではない。松本人志は歌手が偉いという常識に対し、お笑いという新しい基準を持ち込むことで、価値観を一変させてしまったところに革命性を持っている。

 松本人志の世界観において、人間の価値は面白さだけで決まる。美しかろうと醜かろうと、金持ちだろうと貧乏だろうと、東大を出ていようと中卒だろうと、面白いやつは認められるし、つまらないやつは虐げられる。そして、その頂点には松本人志が君臨している。

 先に述べた通り、本来、面白さは個人の感想であり、比較なんて不可能である。だけど、松本人志はそこに客観的な指標を導入してみせた。それは『一人ごっつ』で行った全国お笑い共通一次であり、これがお笑い偏差値という考え方につながり、M-1などお笑いを点数で審査する土壌を作り出した。

 松本人志にとってのお笑いは目的ではなく、手段だった。成り上がるための方法だった。争いが激化した春秋時代に「仁」と「礼」を説くことで武力を無意味化した孔子のように、戦国時代に「わび茶」の思想で大名たちの権威を骨抜きにした千利休のように、松本人志はお笑いで他ジャンルの大物を片っ端からジャイアントキリングしまくった。

 その痛快な逆転劇に庶民は興奮し、夢を見た。そのグロテスクさに攻撃を仕掛けられている人たちは眉はひそめた。松本人志がその人気に反して、好感度が著しく低いのはそういうことに違いない。

 松本人志の権威が高まり、所属する吉本興業の権威も高まり、気づけばお笑いは圧倒的に強いジャンルとなっていた。もともと下から上を突き上げていたはずなのに、いまや、突き上げられる側になっていた。革命する側が革命される側になってしまった。

 わたしは松本人志が好きだ。それでも、これまでの松本人志が時代の流れとともに消えていくのは仕方ないことだと思っている。

 今回の問題について言えば、刑事事件にならない限り、早々に頭を下げ、カッコ悪い男として情けなく振る舞えていれば、番組を失うことになっても引退まではしなくて済んだのかもしれない。でも、永遠の革命家である松本人志に負けは許されない以上、そんなことはできるわけがなかった。

 日本人初のボクシング世界チャンピオン・白井義男に、カーン博士は「ボクサー、神になる。神になったら殺される」と勝ち続けた先に待っている絶望を教え諭したらしい。

 松本人志はお笑いの神になってしまった。神になったら殺される。ジャイアントキリングされる運命にあったのだ。

 そして、この連鎖は松本人志がいなくなっても終わらない。神の死を通して、芸人たちはお笑いというジャンルが想像以上に軟弱であると危機感を持ち、ちゃんとしようと努め出す。やがて、クラシカルな集まりとなって、フィルタリングを通過したものしか仲間になれない既得権益と化していく。

 なんなら、いまですら、その傾向は多分にある。

 NSCなどの養成所に高い学費を払ったり、厳しいオーディションを突破しなければ芸人を名乗ることはできなくなっている。むかしはコネでテレビに出演できたけれど、M-1やキングオブコントの決勝に残らなければ、活躍のチャンスは与えられない。あるときから、賞レースの結果は一般社会における学歴みたいになっている。

 それを実力主義と捉えればよいことのようだけど、実力を判断する基準が必要になる以上、傾向と対策が立てられるため、受験エリートたちと相性がよく、大学お笑いが成果を上げるようになる。あと数年したら、芸人は高学歴の職業になり果てるだろう。

 そんな高学歴な芸人たちに庶民が憧れの気持ちを抱くことはない。なぜなら、自分がそうなれないことがあまりにも明白だから。

 面白ければ自分もああなれるはずだ。松本人志は庶民に夢を景気よくバラ撒いてきた。それはなにも持たない人たちの希望となった。

 しかし、心配する必要はない。新たな松本人志は他のジャンルに生まれるはずで、そいつが悪しき伝統としがらみでどうしようもなくなったお笑いをガツンと倒してしまうから。なんなら、週刊文春の中にこそ、新たな松本人志がいるのかも。

 こうやって、ジャンル単位で攻防を繰り広げる様子を想像しながら、久々にブルデューの『ディスタンクシオン』が読みたくなって、押し入れの奥からガサガサ引っ張り出してきた。

 ディスタンクシオンとは他と区別すること。社会学的には自分の特別性を示すため、差別化を図ることを言う。

 松本人志はディスタンクシオンの天才だった。そのため、他の芸人とは格の違う権威を手に入れた。最近では『探偵ナイトスクープ』の局長になったら、大阪万博のアンバサダーになったり、地域における影響力すら高め始めていた。内心、国民栄誉賞や政治に興味があったとしてもおかしくはない。

 NHKの性教育番組に出たときは驚いた。散々、性に関して酷い言動を繰り返してきたというのに、その過去を払拭しようとするだなんて、都合がいいにもほどがあるから。

 案の定、そのあたりから批判が殺到し、松本人志の性加害を告発しても受け入れられる世論は形成された。松本人志は過去の自分を否定しようとして、過去の自分に否定された。調子の乗ったイカロスが太陽に近づき過ぎて、翼を燃やし、無惨に墜落したのと一緒である。

 ブルデューは『ディスタンクシオン』の中で、人間は趣味を自分の意志で選んでいるつもりになっているけれど、実際は生まれ育った環境によって、自動的に決まってしまうと主張している。そして、そういう趣味に基づいて所属する階層も決まるため、生き方は無意識に定まってしまう、と。だから、あるとき、稲妻に撃たれるような出会いで人生が一変するようなものに出会うことなんてあり得ない、と。

 じゃあ、人間に自由はないのだろうか?

 いや、そんなことはない。生まれ育った環境や所属する社会構造によって、自分の価値観や言動が決まっているとしっかり理解することで、当たり前を当たり前と思わなくなれば、己の不自由さがわかってくる。そして、不自由に抗おうとする限りにおいて、わたしたちは自由なのである。

 つまり、わたしが望むことは外的要因に影響された不自由な願望なのだから、あえて望むことをしないことで、逆説的に、自由が実現するに至る。カッコよくあるためにはカッコ悪くならなきゃいけないのだ。

 再び、上沼恵美子の言葉を引用する。

「つっぱねすぎ。意地とかプライドではなくって生の人間、男になって(女性に)『あのときはこうやったな。そんな思いしたのか。怖い思いさせましたか、すいませんでしたね』って、そこは松本さん、頭下げてくださいよ。それであなたは普通に仕事は続けていっていただきたい。それは私の希望ですよ」「意地になって事実無根だとか、吉本さんも法的措置……なんか子どもみたいに思う。いかんことですよ。奥さんも、お嬢さんもいてて。最低のことしてますよ。謝罪してくださいよ。女性たちに」

ENCOUNT『上沼恵美子、松本人志に忖度なし「最低のことしてますよ。謝罪してくださいよ。女性たちに」』




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