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【映画感想文】今回も最高にマッドだったし、70年代オッカー映画のヤバさが凝縮してたぜ! - 『マッドマックス:フュリオサ』監督:ジョージ・ミラー

 大好きな『マッドマックス』の最新作を見てきた。今回も最高にマッドで素晴らしかった。

 TOHOシネマズ新宿のIMAXを選んだら、外国人のお客さんが多くて、上映中の反応もよく、最高に盛り上がった。派手なアクション映画のときはこれがいいんだよね。だから、『ワイルドスピード』シリーズを見るときも新宿か六本木にしている。

 ストーリーは前作の怒りのデスロードの前日譚なんだけど、正直、10年近く経っているので全然覚えていなかった。今回の主人公・フュリオサがどういうキャラだったかもけっこう朧げ。

 ただ、まるで神話のような作りになっていて、フュリオサの幼少期からはじまり、どういう経緯で孤独になり、他者を信じられるようになり、復讐の戦士へと成長していったか、丁寧に描かれているので問題は特になかった。最後、怒りのデスロードと接続するシーンを見て、

「ああ! この人か!」

 と、鮮やかに記憶がよみがえり、かなり気持ちがよかった。

 しかし、ジョージ・ミラーは80歳近いというのに、なぜこうも面白いアクションを撮ることができるのだろう。無駄な動きがまったくなくて、ひとつの画面の中でいくつもの戦闘が描かれるだけでなく、それらが有機的に絡み合い、ひとつの結末へと収斂していく過程は魔法を見ているようだった。

 とにかく、すべての動きが雄弁なので、セリフがなくてもなにが起きているのかわかってしまう。これこそ、映画の究極形だ。

 かつて、スティーブン・スピルバーグは面白い映画の条件として、音量をゼロにしても楽しめることをあげていた。もちろん、音楽や役者の口調で誤魔化せるのが映画の魅力だけれど、一応、その最大の特徴が映像である以上、監督はビジュアルにこだわるべきということだろう。

 そういう意味では今作のビジュアルはとんでもない領域に達していた。あえて、聖書やオデュッセイアの展開を踏襲しているのは、観客になにが起きているか、頭を使わせないためだろう。ぼーっと眺めていても大体の流れをつかむことができる。

 結果、わたしたちはフュリオサたちの一挙手一投足に集中することができ、その視線や呼吸によって、リアルな世界が構築される。そこではばんばん人が死んでいき、どんどん肉体は破壊されていく。なのに、悲壮感はまったくない。マッドが最大化されていく!

 さて、そんなマッドな描写をよく見てみると、1970年代のオーストラリア映画っぽい演出でいっぱいだった。もしや、ジョージ・ミラーが古巣を懐かしみ、オマージュを捧げているのかも。

 と言っても、その辺の映画は日本にあまり入ってきていないので、わたしも実物は見たことない。

 ただ、むかしTOKYO MXで放送していた『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』で、"Not Quite Hollywood: The Wild, Untold Story of Ozploitation!"(邦題:『マッドマックスを生んだオーストラリアB級映画のメチャクチャな世界』)というドキュメンタリーがやっていて、わずかに触れたぐらいである。

 それでも、オーストラリア映画はマッドだなぁと忘れられない経験となった。

1960年代の後半、オーストラリアに国産映画はないに等しかった。が、自称・芸術家に対して政府の補助金が下りるようになり、ポツポツとオーストラリア映画が作られるようになった。1971年、厳しい検閲制度が見直されてR指定が制定されたことにより、性と暴力の描写が自由化。お色気とお下劣シーン満載のB級映画が両山される土壌ができあがった。

『松嶋×町山 未公開映画を観る本』118頁

 およそ、そんな事情で1970年代のオーストラリア映画はマッドになった。

 まず、やたらと女性おっぱいを出しまくった。有名な役者も監督もいなかったので、世界に売り込む上で、お金がかからず、手っ取り早いのがエロだったからだ。必然性のないおっぱいであふれかえっていた。

 そして、おっぱいの次に暴力が求められた。いまの感覚だと安全管理にお金がかかりそうだけど、もちろん、当時にそんな感覚はない。

 喧嘩シーンは本物の暴走族に喧嘩をさせた。崖からバイクが落ちるシーンは本当に落とした。銃撃シーンじゃ実弾を使うし、走る車のボンネットに乗せられて叫ぶ女の子はガチ泣きしてるし、爆破シーンでカメラに向かって破片が飛んでくる臨場感はただの事故。悪い意味でヤラセがないのだ。

 中でも一番ヤバかったのが『マッドマックス』であり、バイクで転倒した人の頭に後続のバイクが激突しているシーンがある。CGでないから単なる衝撃映像で、世界中で彼は死んだと噂になった。

 後に関係者が「彼は生きているよ」と証言しているけれど、なぜか本人が表舞台に出てこないので、ファンの間では火消しのためのウソと長年言われてきた。

 ところが、2015年、怒りのデスロードが日本で公開されたとき、突然、死亡説のあった人物も来日。論争に終止符が打たれた。

第1作の過激なスタントシーンで、長らく死亡説がささやかれていたスタントライダーのデイル・ベンチが駆けつけ、文字通り“マッド”な同窓会が実現。

映画.com「ジョージ・ミラー監督&「マッドマックス」旧キャスト、30年越しの“マッド”な同窓会!」

 なお、オーストラリア映画は80年代に政権が変わったことで取り締まられるようになるも、この狂った時代の盛り上がりによって、多くのスターが登場。次から次へとハリウッド進出を果たす。

 役者で言えば、メル・ギブソン、ニコール・キッドマン、ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット。監督で言えば、ピーター・ウィアー(『いまを生きる』『トゥルーマン・ショー』他)、ブルース・ベレスフォード(『ドライビング Miss デイジー』他)、バズ・ラーマン(『ムーラン・ルージュ』、『華麗なるギャツビー』他)。

 そして、そんな出世株の筆頭にいるのが『マッドマックス』シリーズでお馴染みのジョージ・ミラーなのである。

 今回のフュリオサで、バイクに人をくくりつけて無理やり走らせたり、ボンネットに人を乗せたまま走らせたり、いかにも70年代オーストラリア映画らしいことをしまくっているのは、監督自身のルーツを思えば、かなり感動的だった。

 特に、第1作目の『マッドマックス』のラストシーンを巧みにセルフオマージュしているあたり、巨匠の歴史がありあり伝わり、その残酷さに相応しくないけど、グッと込み上げてくるものがたしかにあった。

 ちなみに、このようなマッドな70年代オーストラリア映画は通称「オッカー映画」と呼ばれるらしい。オッカーの綴りは"ocker"で、辞書では「教養のない、がさつな、粗野な、武骨な」と訳が載っている。

 一見するとマイナスな単語だけれど、オーストラリア演劇研究者の佐和田敬司先生によれば、オーストラリア人にとってオッカーは誇りにあふれた概念なんだとか。

オーストラリアに最初にイギリス人達がやって来たのは18世紀の終わりだが、その地で生まれた彼らの子弟は既に、自らをイギリス人とは違う「何者か」だと意識していたと言う。「本国」イギリスとの関係は徐々に変わっていったが、変わらないのは、オーストラリア人が自らを「荒々しい植民地人」とイメージしてきたことだ。

<中略>

そもそもオーストラリア映画は1970年代に大きく発展したが、その原動力だったジャンル「オッカー映画」は、イギリス人と対比して粗野で無骨でお下劣であるが故に持つバイタリティーこそが、オーストラリア人の資質であると高らかに宣言した。このようなオーストラリア人意識は、オーストラリア映画の重要なテーマなのだ。

佐和田敬司「映画『オーストラリア』からみえるオーストラリアの歴史と社会」

 従って、マッドになればなるほど、オーストラリアの原点に立ち返ることになるわけで、ジョージ・ミラーにとって、『マッドマックス』の新作を撮ること自体が己のルーツに帰還する旅を意味している。

 そう。やはり、これはオデュッセイア。オーストラリアをめぐる壮大な叙事詩なのである。

 本作フュリオサの英語版タイトルには"SAGA"(サーガ:叙事詩)の文字がついていた。

 こんなものを映画館で見ることができるなんて、感無量にもほどがある。

 いやぁ、映画って本当にいいもんですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。




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