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【時事考察】『エルピス』を見てメディアの善悪について考えた

 遅ればせながら、ドラマ『エルピス』を見た。

 実際の事件をもとにして、冤罪報道を巡るメディアと国家権力の関係を描いたとして話題になっていたのは知っていたし、見たいとも思っていたけれど、なかなか毎週チェックするのは大変で諦めていた。

 ところが、先日、Amazonプライムで配信されているとわかり、まずは一話だけでもと再生したところ、あまりの面白さに止まらなくなってしまった。あれよ、あれよ。全十話を一日でコンプリートしてしまった。

 メディアの人間が自分たちの生活を理由に、政治家や検察、警察の不正が明らかであっても、忖度に忖度を重ねて報道しない矛盾はあまりにも腹立たしかった。そして、そんな逆境に葛藤を覚えつつも、正義のために人生をかける主人公たちに心が震えた。

 しかし、それだけだったら既存のドラマと変わらない。『エルピス』は自らの扇情的な物語すら、メタの視点からしっかり批判していて、そこにフィクションを超えた凄さがあった。

 その中でも、特に、比喩として使われていた善玉と悪玉の話がとても興味深かった。

 物語も終盤、長澤まさみ演じる主人公が美容院でこんな会話を耳にする。

「どっちが悪玉菌でどっちが善玉菌とかって本当はないんです。大事なのは菌の種類がたくさんあってバランスがとれてることなんですって」

『エルピス』第9話より

 隠された不正を暴くとき、メディアは正義を体現している。でも、間違った情報を真実であるかのように騒ぎ立てるとき、メディアは悪になってしまう。

 このドラマではメディアが正義になったけれど、いつ、悪に転じてもおかしくないリアリティを『エルピス』はちゃんと描いていた。逆に、いまは悪に見えている人たちの中に正義がある可能性を示すことも忘れていなかった。

 それぞれの正義という考え方は好まれやすい。戦争は正義と正義の衝突であり、絶対的な悪はいないと説明されることもよくある。いわゆる相対主義というやつで、多様性を認める上で役立つとされてきた。

 でも、最近、どうもそうじゃないらしいとなってきている。なにせ、相対主義はそれぞれに正しさがあるせいで、自分と意見の異なる相手を間違っていると否定し続ける運命にあり、社会はひたすら分断していく。

 相対主義はみんなを認めているようで、実は、誰もが自分以外を認めないという強硬な思考だったのだ。いわば、絶対に負けを認めないと決めている人同士で喧嘩をするようなもの。どちらかが滅びるまで争わざるを得ないわけで、そこに和解の道は存在しない。

 これじゃあ、ちょっと、まずいだろうってことで、自分も正しいけれど、そうじゃない立場の正しさもあるよねって柔軟な態度が注目され出している。マルクス・ガブリエルの新実存主義はその代表例だ。

 立場によって正しさがあるという場合、どこから見るかに影響されない本質的な正しさが存在していることを前提としている。

 このとき、正しさは神のようなものである。この世には様々な宗教があり、それぞれ信じるものは違うけれど、神を信じるという点では共通している。もし、神がいないと主張するなら、物事の見え方は大きく変わってしまうだろう。というか、17世紀のヨーロッパに起源を持つ科学革命を通して、神よりも自然科学を信じることで、近代化を実現。たしかに価値観をアップデートしてきた。

 マルクス・ガブリエルはさらに価値観を作り直そうとしている。本質的な正しさすらありはしないのだ、と。

どんな物ごとでも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる、ということです。それは、存在するいっさいものが、無限に数多くの意味の場のなかに同時に現象しうるからにほかなりません。わたしたちが知覚しているとおりの在り方しかしていないものなど存在しない。むしろ無限に数多くの在り方でしか、何ものも存在しない。これは、ずいぶんと励みになる考えではないでしょうか。

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』

 本質的な善がないということは、本質的な悪もないということであり、善悪は対立軸から解放される。ドラマ『エルピス』が表現しようとしているメディアのあり方はそういう意味で新実存主義に即している。

 メディアで語られた内容が正しいか否か、視聴者は正確に把握する術を持たない。あくまで、その歴史とブランドをもとに信用できそうか判断しているだけ。同じ情報でもTPOによって受け止め方は変わってくる。報じた方がいいのか、報じない方がいいのか、誰にもわかりはしないのだ。

 昨年末、韓国の俳優イ・ソンギュンが亡くなった。映画『パラサイト』で金持ち父さん演じた人で、自殺だった。

 イ・ソンギュンは麻薬使用の疑いをかけられ、捜査機関に内偵をかけられていた。起訴はされていないので、無罪推定の原則に基づけば、その情報は非公開にすべきである。だが、検察も警察も情報をメディアに流し続けた。女性関係などプライベートな内容も含まれていたから、メディアはこぞって、これを報道しまくった。当然、イ・ソンギュンは渦中の人となり、逮捕されてもいないのにバッシングされ、仕事を失い、罰せられるに等しい状況となった。そして、自殺してしまった。

 誰かを罰するという行為は基本的に人権侵害である。罪人であっても人である以上、人権を持っているから、それを損なうときには慎重にならなきゃいけないよねってことで法治国家が作られた。そのため、私刑は禁止されてきた。

 SNSが普及して、誰もが声を上げられるようになったことは素晴らしいけれど、その弊害として、炎上という名前で私刑がカジュアル化してしまった。メディアはスキャンダルを報じ、火種を作ることが主な仕事になってしまった。

 たしかに法律は完璧じゃない。でも、法律の運用を否定して、私刑をしてしまったら社会は成り立たなくなってしまう。「うざいから社会的に抹殺しようぜ」みたいなことがまかり通ったら、誰も社会に参加しなくなってしまう。

 とはいえ、社会秩序を守るため、報じない自由を発揮したとすれば、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』みたいな管理社会が待っている。

 都合の悪いことは記録に残さないので、ビッグブラザーは完璧であり続ける。不満を口にするものは消していくので、国民は常に幸せであり続ける。ネガティブなことを考えることが禁止されているので、常に、みんなポジティブであり続ける。

 とどのつまり、メディアはすべてを明らかにし続けるしかないのかもしれない。そうすることが正しいからではなく、間違っていることも含めて、この世界はそんなものだと人々が認識するために。

 権力者がそんなクソなことをしていたのかと暴くことができれば、メディアは善玉になる。間違った情報で私刑を誘発することになれば、メディアは悪玉になる。ただ、そんな玉虫色の姿には人間のどうしようもなさが映し出されるはずだ。

 エルピスという言葉はギリシア神話に由来する。パンドラの箱を開けたとき、ありとあらゆる厄災が飛び出したのだが、最後にひとつ、エルピスだけが残されたという。

 一般的にエルピスは希望と解釈されている。すべての膿を出し切った後、ゼロから再生できるとすれば、今度こそ、まともになれるチャンスがあるからなのだろう。

 このことを思うとき、わたしは坂口安吾の『堕落論』を思い出す。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾『堕落論』

 堕落しちゃダメだと思っているから見栄を張る。バカじゃダメだと思っているから嘘をつく。失敗しちゃダメだと思っているから成功者であろうとする。

 でも、絶対的な正しさなんてないのなら、誰もが堕落し、誰もがばかで、誰もが失敗を重ねていても不思議ではない。もちろん、自分としてはこれが正しい道だと信じて、一生懸命歩んではいる。だが、善玉が悪玉に変わるように、悪玉が善玉に変わるように、思いも寄らないことが起き得る。

 みんなが堕落した自分を受け入れ、バカな自分を受け入れ、失敗した自分を受け入れられるようになったら、スキャンダルはスキャンダルでなくなるのではないか。同時に、隠蔽すべきこともなくなるのではないだうろか。

 もちろん、そんな極端な未来がやってくるとは思わない。思わないけど、自分が正しくない可能性を常にみんなが意識できれば、考え方が違っていても、我々は和解の道を探せるんじゃないかと、ついつい、期待してしまうのだ。

 そこにわたしはわたしのエルピスを見出す。




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