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【映画感想文】人生というクソゲーを1機でクリアするのは難し過ぎる - 『ある男』監督: 石川慶

 夫が仕事中の事故で亡くなる。生前、夫は実家とは疎遠と言っていたから、一度もその家族に会わせてもらったことはなかったけれど、さすがに連絡しないわけにはいかず、お兄さんがお線香をあげに来てくれた。そして、遺影を見て、一言。

「これは誰ですか?」

 映画『ある男』はそんな風に、死んだ夫が実は名前も歴史も戸籍も偽っていたと知るところから、物語が始まる。

 どのような家に生まれて、どのような血を引き、どのような環境で育ったかによって、わたしたちの人生はおおよそ決まってしまう。

 タレントの菊地亜美さんが子育てをする中、ママ友たちが、

「あの子のお父さんはお医者さんなんだって」

 と、噂している場面を目にして、すごく複雑な感情を抱いたと『あちこちオードリー』で語っていた。彼女はそれまで自分の実力でみんな生きてきたと思っていた。しかし、親になり、「誰の子ども」であるかを大人たちが意識している現実を知り、息苦しさを感じたそうだ。

 自分の意思では変更の効かない要素でもって、誰かの価値を判断する行為は一般的に差別とされる。肌の色がどうとか、障害の有無とか、出身地がどうとか、すべて受動的に付与されたもの。褒められようと、貶されようと、本人にはどうしようもない。

 このとき、貶されたくないという気持ちを理解するのは簡単だろう。そんな理不尽を肯定できるはずはない。そのため、差別問題がどうしてなくならないのだろうと我々はつい不思議に思ってしまう。

 では、褒められたいと望む気持ちの方はどうだろう。美人ですねと言われたり、立派なご両親ですねと言われたり、素敵な場所で子ども時代をお過ごしになられたんですねと言われたり。おおむね理解できるのではないか。

 実際、差別の本質は貶すことにあるのではない。むしろ、家柄や容姿、出身地など、運よく好条件に恵まれた人たちがそのことをアイデンティティにしたいがために、相対的に他者を貶さなくてはいけない仕組みにすべての問題は起因している。

 考えてみれば、自分が特別な存在になるためには、特別ではない他者がいなくてはいけない。なぜなら、特別とは平凡でないことであり、常に、相対的に規定されるものだから。

 ブサイクと美人。貧乏と金持ち。箸を雑に持つ人を見ながら、うちはちゃんと躾けてもらえて両親に感謝しなくちゃと幸せを噛み締める。自分の力で獲得した実績と違って、受動的に与えられただけの生まれについては誰かを貶すことでしか、その価値を示すことができない。

 つまり、自分の生まれを誇りにしたいと思う人がいる限り、差別を続けざるを得ないのである。

 映画『ある男』には戸籍を偽装し、他人の人生を生きる人たちが何人か出てくる。側から見れば、どうしてそんなバカなことを思ってしまうことであっても、本人にしてみれば、そんなバカなことをしなくちゃ生きていけないリアリティがあったのだ。

 人生はクソゲーである。生まれた瞬間、イージーモードかハードモードか自動的に決められているのだもの。その上、一機でクリアすることまで求められている。親ガチャという言葉が流行ったけれど、多くの人がこの理不尽に疲弊している証拠に思える。

 でも、本当に、一機でクリアしなくてはいけないのだろうか? 「たった一度の人生」と言うけれど、それって人間が勝手にそう思い込んでいるだけではないか?

 と言うのも、戸籍を変えて、別人として生きることができるとしたら、それはもう第二、第三の人生だから。一機しばりから解放される最強の裏技なのだ。

 そもそも、戸籍ってなんだっけ。日本最古と言われているのは690年の庚午年籍。班田収授や氏姓を決めるため、国民を固定化する必要があったのだろう。それから701年には大宝律令が制定されるなど、645年の大化の改新から始まって、日本はどんどん国家の形を作り上げていく。

 国家という大きな生命体にとって、税金は活動に必要なエネルギー。これがなくては簡単に死に絶えてしまう。そのため、戸籍で国民一人一人からしっかり税金を取り立てることがなにより大切。生まれてから死ぬまでを観測するし、逃げ出すことなど許さなかった。

 してみれば、我々の人生がクソゲーになったのはこの頃に由来する。好むと好まざるとにかかわらず、戸籍によって、わたしたちは国家を維持するための人生を強いられている。

 戸籍から自由になる。それはきっと自分の人生を取り戻すことを意味している。『ある男』を見て、わたしも戸籍から自由になりたくなった。

 とはいえ、現状、そんなことをしたら重罪も重罪。簡単には手を出さない。じゃあ、どうすればいいのか。いろいろ考えてみて、ふと、こんな風にnoteを書くことも戸籍からの自由なのではないかと気がついた。

 一応、綾野つづみというペンネームでnoteを毎日書いている。本名で生きる自分と重なる部分もあるけれど、仮に、本名の自分が再起不能になったとしても、綾野つづみに影響はないはずだ。もちろん、その逆もしかり。故に、わたしの中には本名と綾野つづみ、二つの人生が存在している。

 もしかしたら、このようにインターネット上で活動していくことは人生のスペアを用意するに等しい行為なのかもしれない。片方でしくじったとしても、そのときは残りの方で生きていこうと思えるだけで、心に余裕が生まれる気がする。

 とにかく、人生というクソゲーを一機でクリアするのは難し過ぎる。リセマラも不可能なんだし、裏技でもなんでもいいから、マリオみたいに無限増殖させないことには始まらない。

 仮に、いくら失敗しても大丈夫となったら、人生はたちまち神ゲーに一変するかも!




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