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【映画感想文】おかしな人にはおかしくなるに至る、おかしくない理由がある - 『ボーはおそれている』監督:アリ・アスター

 ずっと楽しみにしていたアリ・アスターの新作『ボーはおそれている』を早速見てきた。ヤバいのだろうと想像はしていたけれど、その何倍もヤバかった。

 ストーリーはとてもシンプル。母親の訃報を知り、息子が実家に帰るだけ。なのに、ただ帰ることがうまくいかない。

 寝坊したり、不審者に襲われたり、監禁されたり、アンラッキーなピタゴラスイッチみたいに、次から次へと事件に巻き込まれていく。

 しかも、それが精神的に不安定な主人公の妄想なのか、はたまた現実に起きていることなのか、境界が曖昧なので観客としてはひたすらポカンとするばかり。

 あまりにめちゃくちゃだから笑った直後、すごくシリアスなことだったんだと明かされたりして、なぜか、罪悪感に襲われる。一方、これはさすがに悲惨だろうと身構えてしまう展開のときには、荒唐無稽な出オチが使われるなど、とにかく、不愉快極まりない!(だが、それがいい笑)

 正直、2024年のシネコンで新作として観ているとは思えないほど、あまりに往年のカルト映画を彷彿とさせる仕上がりで、わたしはとっても幸せな気持ちになった。

 カルト映画と言っても、デヴィッド・リンチやホドロフスキー、ジョン・ウォーターズ、テリー・ギムアムなどなど、高尚さと俗っぽさが共存しているタイプのカルトで、難解なのが、なんかいい。

 そういう意味では、謎なものを三時間弱も観させられたという経験として、この映画は完成しているわけで、感想なんて考えるだけ野暮なのかもしれないが、それでも心に浮かぶ由無しことはいくつかあるので、そこはかとなく書きつけたくなってしまう。

 結局、このよくわからない物語はなんだったのか。そんか根本的なところを考えてみると、たぶん、これは毒親である母親によって、精神的に壊れてしまった息子の内的な絶望をシミュレーションしているのだとわたしは思った。

 わたし個人は妄想に取り憑かれるような経験をしてことがない(と信じている)ので、『ボーはおそれている』のどこまでが現実で、どこからが妄想なのか、判然としない表現はフィクショナルな演出に感じられる。だけど、精神的な病で苦しんでいる人たちにとって、これは現実そのものなのかもしれない。

 切り傷だったり、骨折だったり、身体的な痛みは客観的に理解できるが、心の傷はいつだって主観的なものである。そのため、わたしたちは他者が抱える心労に想いを寄せることができないでいる。

 分断の時代と言われて久しい。インターネットの発達とSNSの普及によって、人々の距離は以前よりもギュッと近づいているにもかかわらず、ちょっとしたすれ違いから諍いが生じ、取り返しのつかない悲劇に至りやすくなっている。

 この現状を仕方がないと言ってしまえば話は簡単。

「それぞれ、事情はあるかもしれないけれど、世の中はこういうことになっているので、その辺、上手に対応してよね。努力とかいいから、有利なポジションを獲得し、社会の仕組みをハックする方がコスパもいいし、全然楽だよ。それをしないで生きづらいとか嘆かれてもねぇ。自己責任じゃないですか? 少なくとも、あなたの人生なんだし、俺には関係ないですね」

 そうやって、しんどい他者を切り捨てることが賢いとされる風潮もある。

 なるほど、きっと賢いことなのだろう。頭のいい人たちはそうやって、実際、自分の生活を充実させるためのライフハックに邁進し、気づけば、世界の富のほとんどを富裕層が独占しているわけなのだから。

 ただ、理屈ではなく、わたしはそれをよしとできないし、同じような思いを持っている人は他にもいるはずで、切れてしまった人々の紐帯を取り戻そうと頑張っている人もいる。

 そして、この途方もないレジリエンスに役立つのが想像力とされている。

 たとえば、街中に全裸の中年男性が現れたとする。常識的にそれは猥褻物陳列罪という明確な犯罪なので、逮捕され、罰せられるのが筋である。そして、「おかしなやつがいた」の一言でまとめられのが相場なところ。

 でも、このとき、「彼はなぜ全裸で街中に現れたのだろう?」と問いを立て、可能な限り調査して、ひとつの物語を作れたとしたらどうだろう。

 彼が全裸で街中に現れたのは逃げるためだった。なんでも、風呂に入っていたら、不審者が侵入してきたらしい。命からがら飛び出したので、服を着る余裕なんてなかったそうだ。ちなみに、その後の捜査で不審者なんていないことは確かめられている。つまり、すべて、彼の妄想だったのだ。どうして、そんなことになってしまったのか。彼のカウンセラーの話では、なんでも、母親との関係で幼少期に大きなトラウマを抱えているそうだよ。

 仮に、こんな背景を想定できたら、自分とまったく立場の違う全裸の中年男性に対しても、同情の念がちょっとは湧いてこないだろうか。

 もちろん、事実を知ることはできない。全裸の中年男性は自分の陰部を見せつけることで、嫌がる人々の反応を見たくてやっているのかもしれないのだから。

 ただ、重要なのは事実ではない。可能性に思いを寄せることができるかなのだ。

 生きるという行為はあまりにも複雑なので、人間はすべからく常に合理的なわけではない。だから、客観的に理解しようとする限り、永遠に溝は埋まらない。

 子どもの頃、学校の先生に、

「自分がやられて嫌なことは他人にもするな」

 と、教えられた。これは一見、正しいように思えるけれど、自分を基準に、自分ではない他人の気持ちを考える点で、致命的な欠陥がある。

 他人の気持ちを考えるとき、自分を軸に考えてはいけない。なぜなら、他人は自分と違うのだから。もっと言えば、この世に自分と同じ人間なんて一人もいやしないのだから。

 ただ、わたしたちは普段、自分であることに一生懸命なので、ついつい、そのことを忘れてしまう。SNSで自分と異なる意見を目にして瞬間、カッと腹を立ててしまったり、頭がぼわんっとするほど悲しくなってしまったりする。

 そんなとき、映画で他人の人生を他人事として観ることができたら、ちょっとだけ心に余裕が生まれるかもしれない。結果、おかしな人を見たときに、その人の背景にまで想像力を働かせることができるようになるかもしれない。さもなくば、おかしな人は尋常ならざる苦しみで、孤独につぶれていってしまう。

 少なくとも、『ボーはおそれている』を観た後に、おかしな人をおかしな人として、単純に受け流すことはできないだろう。

 アリ・アスターがどんな思いを込めて、このめちゃくちゃな映画を制作したのか。その真意はわからないけれど、なんとなく、わたしはそういうことなのではないかと解釈した。





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