【ショートショート】吾輩は猫であるRTA Any% (2,942文字)
放課後、たかしくんがランドセルを背負ったまま、公園のベンチで珍しく文庫本に熱中していた。ふだん、ゲームばかりしていて、本なんて読まない彼だったので、僕は気になり、
「なにを読んでいるの?」
と、声をかけずにはいられなかった。
たかしくんは顔を上げ、毅然とした様子で、
「読んでいるんじゃない。走っているんだ」
と、答えくれた。さっぱり意味がわからなかった。
「いや、座ってるじゃん」
「まあな」
「走ってないじゃん」
「物理的にはね。でも、俺は精神的に走っているんだ。なにを隠そう。『吾輩は猫である』のRTAに挑戦しているのだから」
やっぱり意味がわからなかった。
「なんなの。RTAって?」
「リアルタイムアタックだよ。どれだけ早く『吾輩は猫である』を読めるか競い合っているんだ」
「つまり、速読をしているってこと?」
「ある意味では正しいけれど、ある意味では間違っている。というのも、俺がやっているのはany%カテゴリーで、必ずしもすべてを読む必要はなく、かつ、グリッチの利用も認められているからな」
「any%? グリッチ?」
「any%っていうのは最終頁に達すればOKってこと。グリッチっていうのはバグ技で、要するに、なんでもありってことだよ」
この辺で、どうやらRTAというのはゲームに関する言葉らしいとわかってきた。
はいはい。結局はそういうことだったのか。三度の飯よりゲームが好きで、先日も、授業中に携帯ゲーム機で遊び、先生からこっぴどく叱られていた人間が、突然、夏目漱石を読み出すなんて、おかしいと思ったのだ。
僕は呆れつつ、
「よくわからないけど、本を読むのにバグ技なんてないんじゃないの?」
と、疑問をぶつけてみた。
「そんなことねえよ。バグっていうのは作り手が想定していないプレイのことだろ。例えば、こんな風にページを飛ばせば、立派なバグ技じゃねえか」
そう言って、たかしくんは文庫本を物凄いスピードでめくり始めた。
「え。それでなにが書いてあるのかわかるの」
「まさか。わかるわけないだろ。これは無を取得して、エンディングを呼び出すことが目的なんだよ」
「なにそれ。読んでないじゃん」
「だから、読んでないって言ってるだろ。RTAに使う動作は走るなの。そして、それにチャレンジする人のことは走者って呼ぶの」
たかしくんは誇らしさそうに説明したが、僕は納得できなかった。
「内容を理解していないのに本を読んだとは言えないよ。正直、意味のないことをしているようにしか見えないなぁ」
対して、たかしくんはムッとした表情で、
「内容ならちゃんと理解しているっつーの。こちとら、最速周期を探すため、死ぬほど『吾輩は猫である』を読み込んでいるんだ。舐めんじゃねえよ」
と、言い返してきた。
「だったら、どんな内容か言ってみてよ」
そんな風に、僕が食ってかかると、たかしくんは涼しい顔で、
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。……」
と、立板に水、流暢に暗唱を始めた。
正直、僕は『吾輩は猫である』をちゃんと読んだことがなく、最初の「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という有名な一文こそ知っているけれど、それから後は合っているのか、とんと見当もつかなかった。
ただ、いまさら、そんなことは口を裂けても言えなかった。明るい空がオレンジ色に染まり、夕方五時を知らせる鐘が鳴った後、まわりの子どもたちが続々と帰宅し、真っ暗な公園に僕は二人だけになっても、
「……吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」
と、たかしくんが最後のフレーズを言い終わるまで、黙って聞き続けるばかりであった。
こうなると認めざるを得なかった。
「すごいね。夏目漱石だって、こんなにも『吾輩は猫である』を熟知していなかったと思うよ」
「だろ。俺もそう思う」
たかしくんはいかにも自慢げだった。
「でも、そんなにすごいなら、RTAなんてよくわからないことやらなくてもいいじゃないかな」
「わかってねえな。RTAはスポーツなんだよ。自分でプレイするのはもちろん、観戦してもらうことにも意味があるんだ。俺の神技をきっかけに興味を持って、『吾輩は猫である』を手に取る人が一人でも増えたら、これ以上の幸せはないってもんだよ」
なるほど、たしかに、僕もいま、猛烈に『吾輩は猫である』を読んでみたいと思っていたし、その活動はとても効果がありそうだった。
しかし、ひとつだけ、どうしても気になることがあった。
「たかしくんの熱い思いはわかったよ。ただ、RTAってもともとゲームのやつだよね。だったら、ゲームでやった方がいいんじゃないかな? たかしくん、めちゃくちゃゲームが好きだろ。どうして、わざわざ本でRTAをやらなきゃいけないの?」
「ああ。そうね。そうだよね」
さっきまでの饒舌が嘘のように、たかしくんの顔色が曇った。目線も合わなくなってしまった。ひょっとしたら、僕は余計なことを聞いてしまったのかも。
沈黙が降りてきた。暗闇に街灯がチラつき、ビューっと冷たい風が吹き荒んだ。遠くで犬の吠える音が聞こえたとき、僕は謝る覚悟を決めた。ところが、それより先に、たかしくんが、
「捨てられちゃったの」
と、小さくつぶやいた。
「え。なにを?」
「ゲームを。ぜんぶ」
「どうして?」
「先生から親に電話が入ってさ。前から、勉強もせずに遊んでばかりでいい加減にしなさい、と怒られてはいたけど、学校にゲームを持っていったのはヤバかったみたい。未だかつてないレベルでブチギレられた。で、原因を元から断つって、うちにあるゲーム、ぜんぶ、捨てられちゃったの。結果、代わりに渡されたのがこの本なんだ」
たかしくんは手元の文庫本を見せてきた。
「そうだったんだ。かわいそうに」
「まあね。最初はけっこうへこんだよ。でも、まあ、落ち込んでいても仕方ない。なにせ、人間、いつかは死ぬ。いま、あるものを最大限に楽しまなくちゃ、あまりに時間がもったいねえ。ってわけで、俺は『吾輩は猫である』の世界一になると決めたんだ」
僕の同情に反し、たかしくんの語りはだんだん明るくなってきた。
「もちろん、そんなもの存在しないから、最初は一人でやっていた。でも、RTAの動画をネットにアップしたところ、自分もやりたいって人が少しずつ、でも、着実に増えてきてさ。最近じゃ、オンラインで大会も開催しているんだぜ。一人でゲームをやっていたときより断然楽しい。いまとなっては親に感謝しているよ」
ついには満面の笑みを浮かべていた。
この期に及んで、『吾輩は猫である』RTAがなんなのか、僕はまだまだ概要を掴み切れていなかったけれど、とにかく、たかしくんがカッコいいことだけはわかった。そして、気がついたら、
「ねえ。僕も『吾輩は猫である』RTAを走ってみたいんだけど、よかったら、やり方を教えてもらえないかな」
と、もじもじお願いしていた。
たかしくんの返事は爽やかだった。
「もちろん。仲間が増えて嬉しいよ」
まもなく、明治以来の『吾輩は猫である』ブームが訪れた。
(了)
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