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【読書コラム】古本まつりで手に入れた岩波書店の校正者のエッセイがめちゃくちゃよかった - 『校正の散歩道』古沢典子(著)

 昨年末、後輩に誘われて浦和の古本まつりに行ってきた。

 風の強い日で売り物の絵葉書が宙を舞って、信号を渡ったりしていた。それをみんなで追いかけて、右往左往する感じが実に平和で素晴らしかった。

 とても寒かったので、サクッと様子を見るだけにして、早々にお昼ご飯を食べようねと言っていたけど、いざ、本を眺めていくと、あれこれ気になり、止められなくなってしまった。

 特に、見たことも聞いたこともなければ、想定している読者も不明な本を見つけたときがヤバい。「こんなもん、誰が買うんだろう?」そんな疑問を抱いたら最後。わたしの中のみうらじゅんが暴れ始める。

パッと見て、「こんなもん、誰が買うんだろう?」と思ったのと同時に、食いつく。「こんなもん、誰が買うんだろう? …って、オレが買うんだ!」と。

みうらじゅんの物集め紀行

 途中から「わたしが買うんだ!」の義務感で、両手がいっぱいになってしまった。徐々に財布が心配になるも、そこはさすがの古本まつり。だいたい、値段はどれも数百円。後輩曰く、「これだけ安いと駄本であっても恐るるなかれ、手当たり次第に買うべし」と。

 その後、マイバッグにはち切れんばかりの収穫物を詰め込んで、二人、震える身体で近くのピザ屋に飛び込んだ。

 本当はお互いにどんな本を買ったか見せ合いたかったけど、想像以上にオシャレなお店で、しかもカウンターに通されてしまったので、まずは生ハムをつまみにワインで乾杯。

右上のおじさんが凄い人らしい

 なんでも、戦後初めて日本にイタリアのピザを持ち込んだ由緒正しき老舗らしく、当然、ピザも注文した。

ニコラ・ピザのシーフード

 あまりの絶品っぷりに、このまま、しっぽり飲みたくなりつつも、いやいや、やっぱり古本まつりがメインなんだし、テーブルに本を並べられるようなところは移動しなきゃと泣く泣く退店。

 テクテク、浦和駅前を散策し、早い時間だったのでお客さんが少なめな焼き鳥屋に入り、どどんっとゲットしたものを並べてみた。

わたしが買った本
後輩が買った本

 一応、一冊一冊、買った理由があるわけなので、どの辺にビビッときたのか順番に説明しているだけで楽しかった。中には、目をつけていたものを相手が買っていたりもして、わたしも買おうとしてたんだよね、と大いに盛り上がった。

 しかし、本ってやつは買うまではいいけど、実際は読むのは大変。家に帰って、積み上げて気がつく。これ、ぜんぶ読むのにどれだけの時間がかかるんだ……。

 ただでさえ、既存の積読がとんでもない量あるというのに、やっちまったと後悔するも、とにかく読まないことにはどうしようもない。少しずつ、消化に励むことにした。

 そんな中、正直、わたしが最も「こんなもん、誰が買うんだろう?」と思った岩波書店の校正者のエッセイ本『校正の散歩道』がとんでもない傑作だった。

 1949年、作者の古沢典子さんは岩波書店に入社し、校正課の配属となり、1961年まで勤め上げたそうだ。その後も外校正として関わり続け、70年代には後進を育成する日本エディタースクールの講師を務めるなど、日本の構成文化に多大な貢献をされてきた方らしく、本エッセイでは仕事を通して学んだことが多岐に渡って記されていた。

 あるときは、笑い話として、

サルトルが猿になった話も有名です。たとえばサルクレなど誤植になっていたとして、クレの部分にトルと赤字を入れたらほんとにトラレてしまったというわけで、トルストイなども時々やられます。

『校正の散歩道』88p

 みたいなエピソードが紹介されている。また、あるときは速度と能率について語る中で、

校正の仕事というのは、ある目標をさだめて、現在の地点と目標の点とをつないだ線の上でどう処理するかという性質の仕事ではなく、現在のところから出発して、手元の仕事の完全性だけをみつめて順々に積み上げて行ってどこかへ到達するという性質のものだということです。

『校正の散歩道』234p

 みたいな他の仕事にも応用できるような哲学が示されたりもする。 

まったく校正はいつも縁の下の力持ちだといわれています。校正の存在が認められるというのは、よく認められるのでなく、誤植の残っている場合、事故のあった場合で、一生懸命やって最も成果の上った時、誰も校正の存在を感じない、これが一番いい出来というわけです。

『校正の散歩道』252p

 人間はミスをする。どんなに偉い先生が書いた文章であっても、多少のミスはあるかもしれない。校正はそのミスがないかを確認するのが仕事であり、仮に、ミスが皆無であったとしても、皆無であることを確認しなくてはいけないのだ。なんなら、確認する作業という点ではミスがあろうとなかろうと負担は変わらないという。

 世の中の安全に関わる仕事のほとんどは同じ不遇を味わっている。一生懸命に事故を防いでも、発生しなかった事故を人々は認識できないために、その成果が目に映ることは決してない。だが、何万分の一、何億分の一であっても、事故が起きたら「責任者はなにをやっていたんだ!」と大衆から猛バッシング。あまりにも割に合わない。

 腕のいい精神科医は誰にも褒められないと言われている。会話だけで不安を取り除けるから、患者は自分がそんなに重い症状じゃなかったらしいと思うらしい。結果、通院するのは重病の人たちばかり。全然治らないと不満を持たれ、Googleの口コミが理不尽に荒れてしまうそうだ。

 校正の仕事も怒られることはあっても、褒められることは基本的にないそうだ。なんなら、出版社によっては校正をいい加減にしているところもあるようで、

本屋の棚でその出版社の名を見るたびに、校正はしなくても本はちゃんと出来るという見本を見せられるようで、何となくわびしい感じがするのは、校正屋だけにしか分らぬ感慨もいうものでしょうか。

『校正の散歩道』214p

と、古沢典子さんは切ない言葉を残している。

 それでも、どうして校正に人生をかけるのか。

 300ページに渡る古沢さんの思いを読んで伝わってくるのは、本は歴史に残すものであり、それを少しでもよいものにしなくては、未来の人たちに恥ずかしいじゃねえかという職人の心意気だった。

 つくづく、「こんなもん、誰が買うんだろう?」と疑問に感じる。そして、わたしの中のみうらじゅんが「…って、オレが買うんだ!」と答えたことは、どうやら間違いじゃなかったらしい。

 いつだって、本は出会いだ。運命の巡り合わせに心の底から感謝したい。




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