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【映画感想文】死に方ぐらい自分で決めたい - 『私のちいさなお葬式』監督: ウラジーミル・コット

 むかしの文豪が自殺を選んだのはメンヘラだったからという意見がある。芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫、川端康成などが念頭にあるのだろう。

 なるほど、たしかに当時の彼らを精神的に分析したら、なんらかの疾患が見つかるかもしれない。ただ、それは生きることを絶対的に肯定している場合の話である。

 社会を成り立たせる上で、命はなによりも尊い存在でなくてはいけない。それが失われることは常に悲しみの対象でなくてはいけない。

 仮に死が肯定されるとしたら、病気を治療する理由はなくなる。話し合いで解決出来ないとき、相手を殺してしまえばよいことになる。お葬式で誰も涙を流しはしないだろう。

 一応、世の中は誰もが生きたいと願っていることになっている。その気持ちは最大限に尊重されるべきだから、他人の命を奪ってはいけないのだ。また、死にたいと考えることは異常であり、治療が必要とされている。

 この考えにわたしは賛成だ。そうでなければ、社会は一瞬で無秩序に陥ってしまう。己の利益を最大化するため、闘争が繰り広げられるようになるはずで、正直、そこで生き残る自信はない。それはホッブスが『リヴァイアサン』で描き出した「万人の万人に対する闘争」であり、あまりにもストレスが大き過ぎる。 

 実際、すべての人が自由を謳歌しようとした結果、他者の自由を侵害するため、にっちもさっちもいかなくなったところから社会契約という考え方は生まれてきた。

 ホッブスに加えて、ジョン・ロックの『統治二論』だったり、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』だったり、かつて、社会科の授業で教わった人たちはこの問題と真剣に向き合い、いまにつながる社会秩序をなんとか作り出してきた。

 要するに、自分の権利を可能な限り行使するため、みんなが我慢できる限りは我慢するという痛み分けこそ社会なのだ。

 そのため、子どもは社会に対して不満を持つ。なにせ自分が生まれる前からルールができあがっているのである。こうした方が有利と言われても、なんで? と疑問に思わざるを得ないだろう。

 だから、時代を超えて若者は尾崎豊に共感し続ける。

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帷りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜

尾崎豊『15の夜』

行儀よくまじめなんて 出来やしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった

尾崎豊『卒業』

 バイクを盗むのも、窓ガラスを割るのも、犯罪である。法律に基づいて逮捕され、処罰されることだろう。だけど、それは既存の社会を守るために存在しているルールであり、その社会が正しいと認めていない個人にしてみれば、従う理由はひとつもない。

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで

尾崎豊『僕が僕であるために』

 わたしは勝つことで得られる利益より、負けることや闘うことで生じる損失の方が大きいため、社会という枠組みに喧嘩を売る気にはなれない。だが、その理屈をひっくり返せば、失うものがない人は喧嘩を売れるということである。

 東日本大震災の年、わたしは大学に入学した。友だちに誘われて、反原発の集まりに参加したことがある。ディスカッションがなされる中、共産党の議員が、

「なによりも国民の命が最優先です! 原発は即時廃止しなくてはいけません」

 と、主張したとき、近くにいた男の子がぼそりとこんなことをつぶやいた。

「国民の命が最優先だからを理由に物事を決めてしまったら、そうじゃなくなったとき、ヤバいことになりそうだね」

 明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」という言葉は素敵だけれど、生きてるだけではどうしようもなくなってしまうこともある。

 例えば、独裁者は王座から失墜した瞬間、殺されてしまうリスクがある。だとしたら、自分の権威を保つため、意味がないとわかっていても戦争を仕掛けずにはいられないだろう。そうして、「生きてるだけ」とは言えないレベルで多くの人が死んでしまう。

 なぜ、わたしたちは頑張っているのだろう? 死んだら終わりなんだとしたら、頑張る意味なんてないはずなのに。別に出世なんてしなくたって、家族なんていなくたって、有名になんてならなくたっていいはずなのに、どこを目指して向上心を燃やしているのだろう?

 たぶん、生を充実させるためではない。よりよく死のうとしているからだ。

 高校生の頃、自殺しちゃいけない理由がわからなくって、いろいろ調べた。その中でショウペンハウエルの『自殺について』という本と出会った。

 まず、びっくりしたのがショウペンハウエルは自殺を否定していないことだった。むしろ、自殺を禁止しているキリスト教を批判するところから議論は始まる。というのも、自分の命を好きにできないなんて、人間の対する究極の支配であるから。

 もちろん、ショウペンハウエルは自殺を推奨しているわけではない。自殺をするかしないか、決める権利が自分にないのはおかしいと主張しているのである。

 この考え方を知って、わたしは目の前が明るくなったことを覚えている。いま、自分はいつでも死ねるにかもかかわらず、死なないことを選んでいると思えたから。それはなによりも生を肯定することだから。

 否定がなければ肯定はない。両者はコインの表ウラの関係にある。死ぬことが禁止されているとすれば、生きることに自分の意志は介在し得ない。本当の意味で「生きてるだけ」になってしまう。

 そんなことをAmazonプライムで『私のちいさなお葬式』という映画を見ながら考えた。

 2017年、ロシアの作品で、余命宣告を受けた一人暮らしのおばあちゃんが自分で自分のお葬式を開こうとするヒューマン・ドラマ。

 都会で忙しく働く息子はいつも時間がないから、母親が亡くなったとしても、どうせ通夜やら葬儀やら埋葬やら、ちゃんとやってはくれないだろう。それなら、好きなときに、好きな服を着て、好きな場所で死んだ方がいい。そして、好きな人たちに集まってもらって、好きな食べ物を用意して、好きな音楽をかけながら、好きなところに埋めてもらいたい。そのための努力が始まる。

 近く死ぬことが決まっているにもかかわらず、主人公のおばあちゃんは明るく元気に必要な手続きを済ませていく。死亡証明書を捏造し、役所に自分で自分の戸籍を抹消する申請を行い、棺桶をチョイスしてバスで自宅に持って帰る。

 映画自体は息子が帰宅し、互いに秘めてきた思いをぶつけ合い、生きるとはなにか、死ぬとはなにか、命のあり方を深く考える内容へと展開していく。つくづく、死を通してしか生は見えてこないんだなぁ、と思わされた。

 だからこそ、自殺したむかしの文豪たちをメンヘラと決めつけるのは違うように感じる。いや、むかしの文豪だけじゃない。自殺したすべての人たちを「生きてるだけ」の立場から、レッテルを貼ったりしてはいけないのだ。

 とことん生と向き合うことは、同時に、とことん死と向き合うことでもある。

 2022年、ゴダールが死んだ。安楽死を自ら選んだと報じられていた。賛否両論あったけれど、日常生活を送るのが困難な複数の疾患に苦しんでいたらしく、最期の言葉は、

「メルシー・ア・トゥス(ありがとう、みんな)。この最期を実現してくれて……」

 だったそうだ。

 やっぱり、死に方ぐらい自分で決めたい。




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