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野口復堂

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野口復堂(のぐち ふくどう,一八六四?~?)は元治元年生の「教談家」である。僧侶や学者先生の講演会の余興に、道徳訓話や歴史物語を巧みな話術で披露するのが仕事であった。

本名は善四郎で、旧姓を貫名と言った。復堂の父は京都の商人で、維新後は上京二組の戸長と愛宕郡小山村の村長をつとめた。善四郎の学生時代に出家(日蓮宗)して貫名無着日信と名乗っている。

無著の十三人の子供はほとんど早世したが、残った善四郎は丈夫で利発だった。明治十年(一八八七)、西南の役にともない京都に入った明治天皇より学業天覧を賜り、学業俊秀のかどで官費英学校に進学したという。成人後は英語教師で生計をたて、京都の仏教系知識人のリーダーとして活躍した平井金三(一八五九~一九一六)の英語塾「オリエンタル・ホール」幹事に名を連ねた。

平井の斡旋で、摂津の野口家へ入り婿し、真宗大谷派茨木別院の三徳学校で英語教師を務めた復堂に、ここで最初の転機が訪れる。

明治二十一年(一八八八)、欧化主義の下で影響力を強めるキリスト教勢力と仏教徒の鍔迫り合いが京都でも続いていた。西洋文明の威光をかざすキリスト教に対抗するためには「仏教を信じている西洋人」を示すしかないと考えた仏教徒たちは、当時インドを拠点にスリランカの仏教復興運動を指揮していたアメリカ人、神智学協会会長のH・S・オルコット大佐(一八三二~一九〇七)に白羽の矢を当てた。復堂は身重の新妻を日本に残し、オルコットを日本に招くべく単身インドに渡ったのだ。

まだ世界で日本がほとんど知られていなかった時代、インド南部チェンナイの社交界に紋付袴で現れた復堂はたいへんな人気を博した。そのきっかけとなったエピソードがある。

インド滞在中のある夜、彼は京都の寄席で昔覚えた古い上方落語「長名」(寿限無の原型)をインド人の前で披露した。ある夫婦がお坊さんに名付けを頼んだところ、経文から長名をつけられてドタバタ騒動が起こる、という筋の噺である。そのオチで復堂が長名の由縁たる法華経陀羅尼品の一節を唱えたところ、インド人サンスクリット学者が感激して泣き出した。「美しきは日本国。卑賎なる落語家までが古い梵語を諳んじいるとは」と。日印の文化的絆をインド人に再認識させたのが上方落語だったとは、面白すぎる話だ。

翌明治二十二年(一八八九)二月、復堂はスリランカ仏教の青年活動家アナガーリカ・ダルマパーラ(一八六四~一九三三)とオルコット大佐を伴って凱旋帰国する。オルコットは、高楠順次郎ら「反省会」のネットワークを通じて全国を縦断し、合計七十六回の公開演説会を開催して各地で熱狂的な歓迎を受けた。その聴衆はのべ二〇万人近くにも及んだ。仏教を賞賛するアメリカ人名士の獅子吼は、日本人のネガティブな仏教観を確実に好転させたのである。大佐に同行したダルマパーラ青年は、その後世界的な仏教活動家として成長し、その生涯に四度来日したほどの親日家となった。野口復堂のミッションは近代アジアの宗教史上も重要な意義を持つものだった。

大役果たした復堂は、明治二十六年(一八九三)、アメリカ合衆国のシカゴで開催された世界宗教会議にも日本代表として参加する。自ら演説したほか、日本仏教訪米団(釈宗演・土宜法竜ら)の通訳を務めた。この時、復堂は清沢満之の処女作『宗教哲学骸骨』を英訳し、会議で配布している。

アメリカから帰国した後は東京に住居を移し、平井金三らとともに、自由キリスト教派のユニテリアン教会に参画した。明治中期の一時期、ユニテリアンでは仏教系知識人が主導権を握っており、キリスト教色を払拭した自由宗教・新思想のサロンとなっていた。シカゴ世界宗教会議でも提唱された、宗教の立場を超えた自由な議論による真理探究は復堂や平井金三といった在野の仏教系知識人によって実践されていた。その受け皿がユニテリアンであり、次に触れる道会だったのだ。

復堂にとって次の転機となったのは、明治四十(一九〇七)年頃、平井金三を通じて松村介石(一八五九~ 一九三九)と出会ったことだ。介石は東洋哲学とイエスの教えを融合させた日本教会のちの「道会」を創設するのだが、そのメンバーに復堂もまた連なっていた。発足当初の「道会」は宗教団体というよりも、平井金三井が中心となった心霊研究サークル「心象会」や復堂の「教談」活動を包み込んだ、自由で融通無碍な文化運動体であった。とりわけ復堂の教育講談は、道会の重要な教化事業として位置づけられていた。道会機関誌『道』の紙面からは、復堂の驚異的な博識と話術が織りなす「教談」が熱狂的に迎えられた様子が伝わってくる。

明治四十四年(一九一一)には道会周辺の諸氏によって「明治の心学道話」を銘打った大衆教化団体「道の会」が結成され、全国に支部をつくられ教育講演会を催した。『道』の姉妹紙として『道話』も創刊。復堂の教談はもちろんここでも人気連載である。復堂は日本各地から満州まで、請われるまま教談行脚に南船北馬した。古今東西の偉人伝は彼の十八番だったが、その土地の埋もれた偉人を発掘する取材にも長けていた。群馬の義民、杉木茂左衛門(磔茂左衛門)の伝説を広く全国に知らしめたのは復堂の教談「磔茂左衛門」(大正四年)であったという。日本に上座仏教を移植せんと孤軍奮闘した釈興然師(一八四九~一九二四)についても、その伝記的資料は彼の教談によるところが大きいのだ。

多く口述記録だが、『通俗教談集』『忠孝の鑑』『教談嗚呼松陰』『大鼎呂』『えらい人』『大楠公夫人』など著書は多い。中には偽書「シオンの議定書」を真に受けて反ユダヤ主義を講じたおっちょこちょいな作品もあるが、「教談」のリズム感あふれる語り口は、いま読んでも、まるで声が聞こえてくるようで楽しい。

道会の幹事として重きをなした復堂だが、大正年間に松村介石がキリスト教色を強めた純化路線を取るようになると道会からも離れることになった。その後も「根が喋りの天職」を自任して教談家として活動を続けたが、関東大震災前後はかなり不遇をかこっていたようだ。昭和十二(一九三七)年頃までの仏教系雑誌などに名前が散見され昭和十五年までの消息は判明しているが没年は定かではない。

かように多彩な経歴を持つ野口復堂を一言で評価するのは難しい。好奇心旺盛で英語にも長けた復堂は、仏教の新思潮や自由キリスト教派を日本に紹介し、アジア仏教徒の交流を促すなど、近代日本の宗教文化形成に大きな役割を果たした。一方で「根が喋りの天職」を離れることなく、知のエンターティナーとして人々を楽しませつつ、道徳ある人生へと導き続けた。教団や組織に安住することはなかった故に、復堂についての記録は乏しい。彼が創始した「教談」もまた、一代限りの看板に留まった。復堂は長く忘れられた人物だった。

破格の「仏教系知識人」である野口復堂はあまり自らを語らなかった。自伝風の連載がいつの間にか脱線して他の人物の顕彰になることもあった。その彼が自らの宗教観を簡潔に語った文章(「道」四号明治四十一年八月)がある。教談調に諸宗教の栄枯盛衰を振り返ったあと、復堂はこう喝破するのだ。

「…斃し斃され迷い迷わされ抑も世人は何処に帰着すべきぞ 咄 世間迷執の徒よ 伏して静に眠れる膝上愛兒の面を見よ 仰いで木の間洩る夏の夜の月を看よ 之れ我宗教観となす。」(佐藤哲朗

(初出:『中外日報』連載「近代の肖像」99,100 平成19年[2007年]2月6日号,2月8日号掲載)

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