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非常時の母たち

去年のゴールデンウィーク、4歳の長男と生後9カ月の次男を連れて、実家に帰省していた。

次男はまだ夜間授乳が必要だったので私は慢性的に寝不足で、さらに長男の赤ちゃん返りなのか発達特性なのかその両方なのかからくる癇癪や衝動的な行動への対応で、私だけではなく実家のじいじもばあばもみんな疲れ切っていた。
だって、「もう〇〇(長男)のことは愛してないんだね!」と叫んで裸足で家から飛び出したり、「あれ、いないな」と思ったら隣家にあがりこんでいたりするのである(昔から家族ぐるみで付き合いのあるおうちではある)。それだけではなく、隣近所に響き渡るような声で泣き叫んだり怒鳴ったり、あばれたり。
4歳児といえどパンチやキックは本気で痛いし、次男に当たるとほんとうに危ない。コロナ禍がすこし落ち着いてひさしぶりに会えた、心底会えるのを楽しみにしていた初孫があらぶっていて、まともに会話ができない父母にも申し訳ない。
長男に対して、ついつい声を荒げたし、一緒にいることが嫌になったり、これからのことが心配になったりした。

***

実家では、夜間授乳のあいだ、ネットで見つけて、戦後の混乱のなか満州や東南アジアといった外国の日本人居留地から引き揚げてきた人たちの手記を読んでいた。

そのなかに、確か満州からの引き揚げで、集落の全員がトラックの荷台のようなところにぎゅうぎゅう詰めで立って、日本への船が出航する港に移動したという話があった。

暑くて、連日の移動で疲れ切って、水も食料もなく、明日の命が無事かもわからない。荷台には、当然、大人だけではなく子どももいる。
手記を残したのは女性だった。その方とは別の女性で、5歳頃の男の子を一人で連れているお母さんがいた。大人たちが殺伐と、ぴりぴりとした空気のなか、その男の子が、疲れて、暑くて、辛くて、騒いだ。
トラックが停まった。
そのお母さんは、周囲の視線や空気に耐えられなくなって、その男の子を一人、降ろした。
トラックは、また走り出した。
男の子は、「おかあさん、おかあさん」と呼びながらトラックを追いかけた。トラックはもう停まらなかった。次第に、男の子の姿は見えなくなった。

トラックに乗っていた人たちは、無事日本への引き揚げ船に乗ることができた。男の子を降ろしてしまったお母さんは、生き延びたけれど、それからずっと、あの日のことを悔いていたと聞いた、という話だった。

***

この手記を、ときおり思い出す。
そしてこの話を思い出すときはいつでも、「おかあさん、おかあさん」と呼びながら追いかけてくる男の子の顔に、長男の顔が重なる。
この話を思い出すのはたいてい、彼が癇癪をおこして怒ったり泣いたり喚いたりしている横で、感情の嵐が過ぎ去るのをじっと待ったり、言い聞かせようと試みたり、なだめたりしているときだ。

そのたび、私は自問自答する。
私は息子を受け入れることができているだろうか。
周囲の迷惑そうな視線や苛立っている言葉、決して夢見た通りではない瞬間から感じるいろいろなつらさに、打ち勝てるだろうか。

正直、100%の自信はない。
でも、長男の顔が重なるたびに、
産まれたときのあの瞬間、
やわらかな頬やちいさなおてて、
必死でおっぱいをのんでいた時間、
よちよち歩く後ろすがた、つないだ手の熱さや、
「ままだいすき」と言ってくれたたくさんの場面を思い出す。
極限の状況になるまでわからない。けれど、今心にうかぶ答えはひとつだ。

日常に潜む落とし穴が怖い。
誰だって、そこに穴があるとは思っていなくて、必死に生きていて、気づいたら落ちていくような穴。まさか自分がと思うような穴。

つらい瞬間が積み重なって、きっと衝動的に我が子をトラックからおろしてしまったお母さんと、
それがどんな結果をまねくのかなんて想像もせずにただがんばって生きてきて、ただボタンのかけ違いで置いていかれた、お母さんの顔が遠ざかっていくのを必死に追いかけた男の子が、
その魂が、たくさんの同じような魂が、どこか安全で心地よい場所で、もう一度出会えるように祈る終戦記念日。

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