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君が君であるだけで、ただわたしが存在するだけで

これは、ちいさな息子の生きづらさ、息子らしさを受入れたわたしが、自分自身の価値を認めてみようと思えるまでの記録。

(こちらの続きですが、単体で読んでいただいても大丈夫です!)


君が教えてくれたこと

君が君であるだけでいい。発達障害でも、凸凹があっても、なんだっていい。保育園に行けても行けなくても、小学校で支援級でもどこでも、そもそも学校に行けても行けなくても、いい。
自分らしく生きていけたら、それで笑顔でいてくれたら、それでいい。

そうこころから思えてから、いろいろなことがあった。

***

息子は、年中のクリスマス会のお遊戯ではひとりだけ最初から最後まで舞台に出てこなかったけれど、わたしは石を飲みこんだような気持ちにはならなかった(ペアで一緒に歌う予定だった女の子とその親御さんにはごめんなさいの気持ちでいっぱいです)。
あとで聞いてみたら、「普段の練習のときはお客さんがいないのに、今日だけたくさんいる意味がわからない。」とのこと。
言われてみるまで気づかなかったけれど、確かにそうだね。

年中保育園に行きたがらないので、あらためてその理由を聞いてみたところ、「あーくん(息子の呼称、仮名)はね、自分のことは自分で決めたいの。何をするのか、いつするのか。保育園では先生が決めるから嫌なの。」とのこと。
考えたことなかったけれど、一理あるね。それに、休みたいときに休みたいって言える君の率直さが好きだよ(でも行ってほしい)。

誕生日プレゼントにやったことも試合を見たこともないはずのサッカーボールをねだるので、理由を聞いたところ、「あーくんはね、将来好きなことを仕事にするの。でもまだ何が好きかわからないでしょう。だから、いろいろ試そうと思う。」とのこと。

***

大変なこともあるけれど、君と生きていくのはとても楽しい。

こころからそう思う。

そして気づく。
わたしも、君が君であるだけでいいのだと、ずっと誰かに言われたかった。

不思議だね、君の声に耳をすませて、ひとりの人間として向き合おうとするたびに、わたしは過去の自分を救っている気がするんだよ。

おひさしぶり、myself

振り返れば、息子に「立派になってほしい」ともしかしたら頑なと言えるほどに願っていたわたし自身がずっと、「わたしは立派になりたい」と思っていたのだった。

自分の居場所を自分で選ぶ力がほしかった。

***

息子に対して、「なんでこんなに嫌がるんだろう」と思っていた保育園。でも、わたしだって子どものころ保育園に行きたくなかった。
家でお絵描きをしたり、絵本を眺めていたかった。でも両親は忙しくて、3つ年下の弟は病気がちで、「できない」と言うことは悪いことのような気がして、言えなかった。

小学校は嫌いだった。
通学路を歩きながら、あと何年ある、と絶望した(しかも我が家から小学校まで、2キロ半もあった!運動嫌いの小学校低学年に2キロ半の道のりは果てしなく遠い)。クラスの女の子たちとどんな話をしたらいいのかわからなくて、わたしにはずいぶん長い間仲の良い友だちがいなかった。

小学校中学年になって多少社交性が身についてくると、今度は「絶対に誰からも嫌われないようにしなきゃ」という難易度の高い課題を自分に課すようになった。
わたしの地元では、小学生のころの人間関係は高校卒業まで、地元に残るならばその先もずっと続く。小さいながらに、はみだしてはいけないという強迫観念があったような気がする。こんなふうになりたいという理想の自分像(誰にでも平等に親切になる、明るくふるまう、面白いことを言う、みたいなこと)をノートに書いて、今日はどれができたか、できなかったかをチェックした。

中学生になると、会話している相手の視線や声のトーンで一喜一憂するようになった。高校を卒業するまではここにいなければならないのはわかる。でもいつまでこれが続くんだろう、と思っていた。親友ができても、恋人ができても、「絶対に誰からも嫌われないようにしなきゃ」というルールにしばられて、息苦しい。

高校2年生のとき、地元から遠く離れた大学に行くと決めて猛勉強をはじめたら、やっと学校に行く意味を見いだせるようになった。

嫌われたってなんだって、わたしはこの街を出ていくのだ。その力を手にするのだ。もうなにも怖くない。

そう思ったら、小学校時代から月に2回ほど苦しんでいた神経性の腹痛がなくなった。

***

わたしにとって成績とか評価とかいうものは、自分で自分の生きる場所を決めることができる、座りたい席を選ぶことができる、列車の指定席券みたいなものだった。好きなときにその列車から降りることができる、というのも大切なポイントだった。

だから、大人になっても、そういう世界で生きていくことを選んだ。
自分の居場所を自分で選ぶことができて、しばられない。
そういう場所を、わたしは、組織の評価基準が明文化されていて、土地の慣習や地縁血縁などなく、限りなく自由で限りなく格差社会な都市的経済合理性のなかで見つけた。わたしには居心地がよかったし、自分はうまくやっていると思っていた。

そう思っていたのに、息子といると、だんだん、本当にそうなのだろうか、という気になってきた。
自分の好きな席を選ぶために、そこに座るために、誰かから評価されなければならないって、ちょっとおかしいんじゃないか。

息子に「君が君であるだけで大好きだ」と言う肝心のわたしは、自分に価値があるとあんまり思っていないのだ。
自分に価値があると思えるって、どんな気持ちなんだろう。

わたしも、自分にはただ存在するだけで価値があるのだと思えるようになりたい。それって、どんなに素敵なことだろう。

春のできごと

年長のGW明け、長男は保育園に行けなくなった。

長い休みが明けて、登園渋りをするだろうなとは思っていた。荒れるかなあ、まあ数日は仕事を調整して休ませてあげられるかな、と気楽にかまえていたら、今までにない感じの、真剣で深刻な状態になった。

彼は荒ぶらず、ただ静かに、能面のように表情の乏しい顔をして、けれど目には涙をためて、
「行かない。」
と言って、年長クラスの外の廊下の陰に座っていた。
ちょうど4月に次男が保育園に入園して(次男よ、全然君のことを書いてなくてごめん、でも愛してるんだよ!気にかけてるよ!)、兄弟そろって送り迎えをしているので、弟の手前か、送迎の車には乗る。保育園の門はくぐる。でも教室に入ることはできない。

「なにか嫌なことがあるの?」
と聞くと、
「ママと一緒にいたいだけ。家でお仕事するんでしょう。あーくん、待ってるよ。側で待ってるし、ずっと家のなかにいることが心配なら、たまにお庭に出て運動するよ。道路には出ないよ。こどもちゃれんじとかして待ってるからさ。だから、いいでしょう。」
と言う。

た、たしかに、それならいいのかもしれない・・・どうしよう・・・。
この子には、ごまかしが効かない気がする。どうしよう・・・。

そこから数週間、夫と協力して、一日登園しては休み、二日登園しては休み、ごまかしごまかし過ごしていた。
そんな日々のなか、ふと気づくと、息子は見るたび手を洗っている。
なんどもなんども石鹼で洗うので、まだ小さな手が、赤くかさかさと荒れている。

ああ、この子の言うとおりにしてやろう。

そう思った。

***

ちょうどその頃、わたし自身もこれからどんなふうに働いていこうか悩んでいた。悩みすぎて、転職したばかりのベンチャーの代表をめちゃくちゃに困らせた(本当に申し訳ないことです・・・)。

思い返せば、長男が年中の秋頃から悩み始めたから、やっぱり長男のあれこれに強く影響を受けたのだと思う。

組織の評価基準が明文化されていて、土地の慣習や地縁血縁などなく、限りなく自由で限りなく格差社会な都市的経済合理性のなか。

そこで生きるわたしは、わたしらしくないような気がした。
自分の好きな席を選ぶために、そこに座るために、誰かから評価されようとする生きかたは、もうやめよう。
自分の居場所を自分で選ぶことができて、しばられない場所は、自分でつくればいいじゃないか。自分でつくれば、そこにはわたしの家族が憩う余白だって残せるはずだ。
それで、息子に「君が君であるだけで大好きだ」と言うわたし自身も、自分にはただ存在するだけで価値があるのだと思えるようになろう。

わたしは、雇用される仕事を辞めることにした。

きっとわたしたちは大丈夫

春以降、保育園をしばらくお休みしたり、息子がリクエストする通りに一緒に朝の海を散歩してから保育園に行ったり、早くお迎えに行ったり、そんな試行錯誤を繰り返した。

彼は次第に、
「しょうがない、明日保育園なら今夜たのしいことをいっぱいしようか。まず映画を見て、テントを出して一緒に音楽を聴いて、あーくんが寂しくなったらハグをして・・・。」
などと夜の過ごしかたリクエストしてくれるようになった。自己認識はわたしより高いと感心した。
そして、すこしずつ保育園に行く日が増えてきた。

この夏は、たまにだけれど、誰と遊んだとか、先生がこんな話をしたとか、この日はこういう行事があるから保育園に行きたいとか、楽し気に、活き活きと話してくれるようになった。
能面みたいな表情をすることは、もうほとんどない。
かわりに、理詰めで怒りをぶつけてきたり(わたしが彼の問いにとんちんかんな答えを返したら「今あーくんそういう話してる?違うでしょ?」と言われた、怖い)、交換条件を出してきたりする(今朝は「保育園行ったらハッピーセット買ってくれないと、あーくん怒っちゃうかもね?」と言われた、怖い)。

ランドセルは、彼の希望で、紫色を買った。
すみれみたいな深い、きれいな色だった。

就学相談を経て、小学校では、学校生活支援員さんをお願いすることにした。息子が納得できないとき、理由を知りたいとき、尋ねられる誰かがいると良いと思ったからだ。

わたしの仕事はまだ安定しないので、以前のように外食したり、旅行に行ったりすることは難しい。けれど、幸福だと思う。

***

まだまだ先は長い。人生は長いし、母親は辞められない。
でも、ちょっと行き詰って不安なとき、なにもかもがうまくいくわけではないけれど前に進むしかないときに、たいせつな誰かと気ままに歌う夜のドライブみたいな時間があるのなら、わたしたちは大丈夫な気がする。

ちなみに、わたしと息子がよく選んで歌うのはYOASOBIの「群青」です。
歌いながらわたしがすこしだけ泣いてしまうことがあるので、息子はこの歌を「ママがちょっと泣いちゃう曲」と呼ぶ。

外出先でかかっているときに大きな声で「これママがちょっと泣いちゃう曲だね!」と言うのはやめてほしい。

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