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海底より | 人生の転機

良くも悪くも人間は変わっていく。
1年前の僕と今現在の僕は同じであって、同じではない。
意識して変えたこと、どうしても変えられないこと、
それから変えたくないこと。

noteを始めてちょうど1年が経ったらしい。
noteが毎日のように教えてくれる小さなお知らせが書き続ける力をくれた。
小さいことを積み重ねることが何よりも大事だから。



今年無事に30歳を迎えられたのだが、「よく生き延びた」という気持ちと「まだ死ねないのか」という相反する気持ちが常に同居している。ただ今、間違いなく言えることは「とにかく毎日が充実している」ということだけだ。

ここ1年間でとにかく自分を変えようと強く想い続けたのはとても大きかった。「変えよう」とかじゃなくて、「変わらないと」という強迫観念に近しい。生きるのも、死にたがるのにもほとほと疲れてしまって、"誰かに生かされている"という状況にいよいよ耐えられなくなった。


27歳のあの日。
"自分はもう死んだ" ということにしたあの日。
混濁した意識の中、感情は虚ろで記憶がとても薄い。


そこから気が付いた頃にはもう3年も4年も経っていた。酷い吐き気に無気力、無感情、無力感。ベッドの上から1mmたりとも動けず、風呂にも満足に入れない。自分自身が臭いということだけが自身の唯一の生きている証だった。

ふと周りを見渡せるようになったものの、明け渡した空席にはもう自分の居場所を喪失していた。誰も自分のことを気に掛けたりはしない。でも本音を言うと、僕が死ぬことによって自分が本当に大切にしたい人たちが傷付いてしまうのが本当に怖かっただけなんだ。

ただでさえ気難しくて、面倒臭い人間だと思う。変なこだわりも強いし、大した魅力もない人間だと思う。そうやって自分で自分のことを認められていないのに、周りは囃し立てるものだから、僕みたいな人間は嫌われるのも仕様がないよな。




周りの期待に必死に応えようとしてきた日々。誰ひとりとして邪魔をしないように生きてきた日々。それを一刻も早く終わらせる必要があった。もう誰にどう思われたって構わない。人間は互いに迷惑を掛け合って生きているのだから迷惑な人間なんて本当は誰ひとり存在しないのに。

そういう風に思ってしまうのも長年の思考の偏りで、本当に少しずつ、少しだけでも変えていけることを変えていくしかなかった。変わる瞬間はとても苦しい。やっぱり元のままで良いし、もうこの先にも期待なんかしてないし。

だったら、どうせだったら、やりたいことをひたすらやろうと思った。お金がとか、時間がとか、世間の目がとか、そういう理由で諦めていたことをひたすらやることにした。だから今めちゃくちゃ充実している。

本当にやりたいことだけを同時並行で進めている。かなり無理に無理を重ねている。でも、今の自分なら絶対やれる。変化している、この一瞬がとても苦しいだけ。

僕は誰が頑張ってるとか、努力してるとか、そういうことに関しての興味関心がとても薄いから、周りからはきっと突拍子も無いことをいきなり始めたように見えているんだろう。予め決められていただけだ。

今、この瞬間の僕が何を考えて、行動して、その結果がどうなったのか、どうか最期まで見届けてほしい。優しい人が救われないような世界なんて間違いなく間違ってると僕だけが信じていたいだけ。

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