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ふゆから、くるる。をEurekaした。あるいは生命の意義について。

アルキメデスの気持ちが今わかった。これほどまでの全能感に溺れたのは久しぶりだ。昨今の作品は難しくてたまらん。わかったような、わからなかったような……。そんなモニャモニャを日々抱えていた私だが、「ふゆから、くるる。」については十全に了得した。

ふゆから、くるる。(略称:ふゆくる)というのはWindows向け美少女ゲームである。このnoteに辿り着いたのはおそらく18歳以上の紳士淑女諸君だろうが、一応警告しておく。本作品は18歳未満プレイ禁止作品だ。この記事自体には成人向けの表現は含まれていないが、本作品に触れるためには18歳以上である必要がある。そのため、公式サイトへのリンクは貼っていない。作品に対するリスペクトがないとお叱りを受けるかもしれないが、広く門土を開くためにこうしている。ご了承願いたい。

本記事はカテゴライズすると考察系記事になるが、私自身が考察という言葉が苦手なのに加えて、なにか考えてこの結論に至ったわけではなく、本作をプレイし終わって自然に感じたものを中心に言語化したものなので、あえて考察記事と銘打ってない。

タイトルにあるEurekaとは、アルキメデスがなんかすごい方法を発見した時に叫んだとされる言葉だ。ユリーカ、エウレカなど、読み方には揺れがあるので、そのままEurekaとした。
何か深い洞察があってたどり着いたというより、一瞬のうちに理解した。ひらめきとも呼べる非言語的思考のこと。
日本語に無理やり訳すと「わかった!」「完璧に理解した!」
感嘆詞っぽいけど、この記事では名詞として使っている。

ふゆくるをプレイし終わって真っ先に感じたのがこのEurekaだ。これからの文章で、その中身について語っていきたい。もちろんこれは私の意見である。アルキメデスはEurekaによって、およそ普遍的な法則を発見したが、私のこれが普遍的なものかどうかはわからない。しかし、物語に対する解釈というものは得てしてそういうものである。たとえシナリオの渡辺僚一氏が違うと言っても私にとってはこれが偽らざる気持ちなのだから仕方がない。ロラン・バルトではないが作者は死んだ。
よって、このnoteはこの世に存在するすべてのふゆくる考察文章と同じように尊重されるべきものだが、これを読んでる人に私の解釈を強制するものではない。
また、本論考では作中の発言や引用されている文章以外の外部テクストを参照する。その点でもお口に合わない方もいらっしゃるかもしれない。

できる限りネタバレを避けたいが、本作品の構造や内容に踏み込むため、どうしても体験版以上の情報を書いてしまうのも仕方がない。アンチネタバレ過激派の人は避けたほうがよい。構成としては、ネタバレなしの前置き、ネタバレありの本題、核心的なネタバレありの補題に大きく分かれている。
優れた作品はネタバレされても魅力が損なわれることもなく、むしろより深い理解が得られる。本作もその類の物語であるが、ネタバレ前に記憶を戻すことは出来ない。一度頭が良くなったら二度と馬鹿には戻れないのだ。

では、語っていこう。

生命とはなにか

寄り道から始めていこう。あなたは生命や生物とはなにかと聞かれて説明できるだろうか? 美少女ゲームのレビューのはずなのに突然何を、と思われるかもしれないが、後々効いてくるのでページを閉じずに読み進めてほしい。

根本的な問いはそれ故に難しい。とりあえずわからない単語があれば辞書にあたるのがよい。まずは大辞林で引いてみると、

せいぶつ【生物】
①生活現象を行うもの。生命を有し、栄養を取り入れ生長・活動し繁殖を営むもの。動物・植物の総称。いきもの
②「生物学」の略。

大辞林 第四版

続いて生命を引いてみる。

せいめい【生命】
①生物を、無生物ではなく生物として存在させる本源。生命を物質の一形態として発生的にとらえる機械論的考え方と、これを実体として見る生気論的考え方とが伝統的に対立する。いのち。
②、③は省略。

大辞林 第四版

生物の項に生命が、生命の項に生物があり、同語反復的な匂いがする。なんとなく意味がわからないでもないが、生命の定義を厳密に言い切っているわけではない。多くの単語を収録しなくてはならない中型辞書の性質上仕方ないことだが、求める情報ではない。

より詳しい解説はやはり専門的な辞書にあたる必要があるので、岩波生物学辞典に登場してもらう。

生物 [organism, living being]
生命現象を営むもの. 古代から人間が生物として認識してきたものは, 必ずしも単一の属性によって無生物と区別されるものではない. 細胞構造・増殖(自己再生産)・成長・調節性・物質代謝・修復能力など種々のものが生物の特性としてあげられてきたが, さまざまな例外が指摘される. ウイルスが生物であるか無生物であるかの議論もそこから生じる. 一つの意見では, 核酸のつかさどる遺伝と, 蛋白質のつかさどる代謝の関与する増殖を, 生物の最も基本的な属性とする. これに対して, 自己修復能力(増殖能力)をもち複製にミスがある(突然変異)と, 自然淘汰による進化が生じて他のさまざまな適応的な性質が派生したとも考えられる. その意見では進化する能力のあるものは生物と見なすという考えもある. その場合には身体を構成する材料にはよらないこととなる. 地球上の生物に類似するものが他の天体に発見された場合には(→宇宙生物学), 生物の定義には再考察が必要になる. (→生命, →原核生物, →真核生物, →分類)

岩波 生物学辞典 第5版

いきなりここでも生命の語が使われているが、さすが専門的辞典、大辞林よりも丁寧だ。専門用語が多すぎて、一々辞書を引用しながら解説していてはキリがないのでまとめると、
生物とはなにかという一つの意見は
・核酸(DNA)による遺伝がある。
・タンパク質(身体)による代謝(活動)があり、増殖する。
この2つを満たすモノ。

もう一つの意見は
・増殖能力があり、進化するもの(DNA、タンパク質の存在は問わない)→人間で言うところの生殖をして自分の子孫をつくるもの。
どちらも、その前提として他の個体と膜で区別されていることが鍵となる。

大体のイメージは掴めただろうか? 続いて、生命を引いてみる

生命 [life]
生物の本質的属性として抽象されるもの. その属性により, 個体および種が保存され, 長い間に環境との関係において進化が起こり, しかも生物が成り立ちえている. それらを可能ならしめている土台には情報の伝達とエネルギーの方向づけられた変換とがある. このような性格や細胞構造・蛋白質の存在が宇宙のいかなる生命にも(地球外生命が存在するとして)普遍的なものであるかどうかは確信できない. 生命の語なしに生物学の体系を組織することもまったく不可能とはいえないが, 生命の語は生物学者によっても慣用されており, 生命体や生命現象, 生命の起源などの語はごく普通に使われている. (以下略)

岩波 生物学辞典 第5版

およそ地球上に存在する生物はすべてDNAを持っている。私もあなたも、チンパンジーも、カエルも、カブトムシも、サクラの木も、ミドリムシも、大腸菌も、みんな同じDNAという物質(かつシステム)を持っている。それは地球における生命誕生が一度だけと言われる理由でもあり、全ての生物が共通祖先を持っていることの前提となっている。しかし、だからといってDNAを持っているものが生物であると言い切ることは出来ない。

どちらの項にも、地球外生命体の存在が明らかになればこの定義は見直さなければならないというロマン溢れる文章がある。このとおり、生物の定義、生命の定義とは専門家であったとしても(むしろ専門家の方が)掴みきれないものであることがわかる。

以上のよくわからない語釈のなかで、これぞキーワードと言うべき語句がある。
個体および種の保存だ。繁殖(Reproduction)、自己再生産、進化などは、すべてここに帰結する。
生命は同種の生命を生み出す。それはまるっきり同じコピーではなく、ちょっと異なってたりするかもしれない。とにかく、同じような生命を生み出すというのが、生命におけるキーワードとなる。

このことをまず前提として覚えておいてほしい。
(これは、繁殖する意思のない個体を生命と認めないという意味ではないことに留意されたし。)


かねてから私は避妊しない主人公とヒロインに怒っていた

多くの動物では、発情期になると外見に変化が現れたり、フェロモンが出たりするなど、受精に適した時期だというシグナルを出す。人間はわざわざ生理周期から排卵日を予測するという面倒くさいプロセスを必要とする。また、受精に適した時期以外にもセックスする。非合理的だ。別にクリスマスイブは人類共通の発情期なわけではない。
「銃・病原菌・鉄」でおなじみのジャレド・ダイアモンドの「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」では他の動物と比べて人間の性生活が特徴的であるということが語られている。人間を生態学・進化生物学的な視点から見た面白い本で、発情期が隠されていることなど、人間の性行動の特色について根拠付けがなされている。最後の章では、ゴリラのペニス(3cm)に比べて人間のペニスが長すぎるという衝撃的な事実を伝えられ、その余分な10cmの意義が考察されるが、結論は出ていない。

さて、ジャレド・ダイアモンドは生物学者なので、性行為における生殖機能(Reproduction)に着目しているが、性行為の意義はそれだけではないことを我々は知っている。性行為には生殖行動としてだけではなく、快楽を感じる、そして互いの仲を縮めるグルーミング的要素もある。これについては専門書よりもプレイボーイの体験記などの方に詳しく書いてあるだろう。

18禁美少女ゲームにおける性行為の描かれ方として、快楽の側面がいささか強調されている事に私は常々疑問を呈していた。性行為によって快楽を感じるのはいい。だが、そればかりを強調するあまり、他の側面が覆い隠されてしまっている。快楽を享受するためだけの性行為を描かれると、生殖・快楽・グルーミングという性行為の三位一体説が崩れ、それまでの関係を深める描写が無に帰し、とたんに物語が薄っぺらく感じられてしまう。
さらに、恐ろしいことに美少女ゲームの主人公もヒロインもほぼ避妊をしない。私はそういう愛の形を存在を否定している訳では無いが、美少女ゲームの開発陣は「美少女ゲームにおけるsexは避妊しないもの」というドグマに囚われているように感じる。さらに、グルーミング的要素に関しても疑わしい。シーン回想枠(2枠~5枠が一般的)を埋めるための雑多なシーンが散見され、性行為でなければ表現できないことを表現できてるとは思えない作品が多い。
美少女ゲームはエロければいいという声があるのは理解する。なにも美少女ゲームに保健体育の教科書たれと叫んでいるわけではない。ただ、性行為を描くのが単に快楽のためだけになってしまうのは、性行為の一面をいたずらに強調しすぎているのではないか? 性行為の三位一体説に対して失礼ではないか? 性行為でなければ描けないものがあるのではないか?

私はこのような思いをいだきつつ血涙を流していた。

長い前置きが終わった。以上がこれからの説明に必要な前知識である。

さて、私がふゆから、くるる。をプレイ終了して、真っ先に感じたEurekaは以下の通りだ。
本作は、これまでの18禁美少女ゲームで置き去りにされてきた性行為における生殖(Reproduction)の側面に光を当て、生命の根幹を端的に教えてくれる傑作だ。


ここから、ふゆくるのネタバレが含まれたことを書いていく。


多様論

ふゆくるの世界は奇妙な学園世界だ。まず女の子しかいないということ。男という存在については書物に残されているだけで、この学園には存在していない。
そしてもう一点、彼女らは我々と同じように子供→大人へと成長するが、あるシステムによって同じ個体が大人→子供へと戻る、というサイクルを繰り返している。仮に物理的に死んでも、頭部を予備体に接続すれば蘇生できる。そのため、不死の少女達という表現もされる。
ある条件を満たすとその輪廻から解き放たれて、卒業する。卒業して外の世界に行くことをキャラクター達は目的としている。

さて、この世界に女の子しかいないことについての理由はない。作中では人間原理という概念で説明される。

「人間原理って知っているかしら?」

「宇宙論の一つで、
 宇宙は人間を存在させるために存在している。
 という考え方よ」

月角島ヴィカ ふゆから、くるる。

「どうして私達に意識があって、
 どうして私達は女子だけなのか詮索しても無意味。
 きっと、男女の群れもあれば、男子だけの群れもある」

月角島ヴィカ ふゆから、くるる。

そこはもう割り切っている。世界の中の存在が世界の都合の良さを考えるのは無意味。人間中心的な考え方。女の子しかいないのはもうしょうがない。そういうものだと受け入れてほしい。
そんな彼女たちが何者なのか、というのは作品に任せるとして、そういう女の子だけの場に投企された彼女たちだが、女性だけだったら困ることに出くわす。いや、ここで女性と限定するべきではない。本来雌雄異体なので、どちらかの性のみだと子孫を残せないのだ。
ただ、この世界にはループシステムがあるので、子孫を残す必要と、その発想がない世界だった。

前置きで語ったことを踏まえるなら、彼女らは物語開始時点では生命の要件を満たしていない。個体としての独立性はあるが、生殖によるコピーを作ることができない。

では、卒業とはなんだろうか? 卒業すると学園からいなくなる。ここではないどこかへ行く。それはすなわち死である。核心的なネタバレを避けるが、ループシステムには限界があり、そのままだといずれ彼女らは突き当たる。彼女らの群れ全体としての死だ。

彼女らは迫られる。女性だけの完成した美しい世界に、男性をつくり、ループシステムに諦めを付けて生殖して子孫をつなげていくかどうかを。

「変化するというのは、多様性を得るということよね。
 それって物凄く単純化して言うと、
 遺伝情報に傷が生まれる、ということだわ」

「情報が混じりあって、傷が生まれて、突然変異が起こる。
 その変異が役立たなければ衰退し、役立てば繁栄する。
 そして環境が変わればそれは逆になるかもしれない」

「絶え間なく生と死を繰り返さなければ、
 私達は多様性を得ることができない」

月角島ヴィカ ふゆから、くるる。

月角島が語る進化生物学的な考え方だ。
前置きに続いて進化論についても語っておく。進化論といえば「個体が環境に適した姿に進化する」「生命は目的をもって進化する」とお思いの方がいるかもしれないが、それは誤解だ。
まず、生き物の集団の中に遺伝的な変異がある(=個体差がある)。その中で、ある変異が他の変異に比べて環境への適応度が高いと優先的に生き残る。このプロセスを何代も繰り返していくことを自然淘汰という。自然淘汰によって長い年月をかけて生命は進化していく。
わかりやすい例を引用してみよう。

たとえば、寒い海の中に住んでいる生き物にとって、血液が凍らないような性質があればいいなあということになっても、凍らない血液をつくることのできるような変異が遺伝子の中に生じていなければ、それが自然淘汰で拾い上げられることはありません。寒い海の中に入ったからといって、凍らない血液をつくるような変異が、そのときになってうまい具合に生じてくるわけではありませんし、寒い海に入っていくことを見越して、あらかじめそのような変異が備わっているというわけでもないのです。

長谷川眞理子「進化とはなんだろうか」第3章 岩波ジュニア新書

進化の背景となるのが遺伝的な変異、つまり多様性だ。そしてたまたま有利な変異が拾われていく傾向がある。この「たまたま」という部分が重要だ。その「たまたま」の確率を上げるために多様性が必要となってくる。

ふゆくるの世界のループシステムは完璧なものに見える。つまり、全く同じ個体がずっと続いていく。多様な変異が生じない。このような集団は環境の変化に弱い。

彼女らは大いなる葛藤の末、決断した。女性だけの集団に男性性・・・を追加することを。女性に男性器を生やすことによって、それを成し遂げた。ただの張り子ではなく、受精能のある精子を産生できる文字通りの男性器だ。

さて、その瞬間、生命の要件を満たした。彼女らは生命になった。そこまでは科学の領域。そしてここからが感情の、エロティシズムの領域だ。


死にまで至る生の称揚

情事の際、菊間塔子は独白する。

チエミを妊娠させることで、
決定的にこの世界を終わらせることになってしまうのだ。

菊間塔子 ふゆから、くるる。

世界を終わらせる。という表現が出てきた。ループシステムがあり、個人が半永久的な生を生きる世界は生殖をもって終わる。男性性を追加した時よりもむしろ、妊娠させた時にそれを強く感じる。
性行為が持つ快感、相手を気持ちよくさせる感動、まったく埒外の生命になることへの不安、ごちゃまぜになった感情が赤裸々に語られる。
快楽のためであり、グルーミングのためであり、生殖のための性行為がそこにあった。

これから私達は死ぬんだ。
みんな死ぬんだ。

だから幸せな行為で新しい意識を残すんだ。

菊間塔子 ふゆから、くるる。

そして、性交時の菊間のモノローグで特徴的なのは死を捉えていることだ。

性行為と死を重ねられると、安易だが、やはりバタイユを思い出す。

エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる。

バタイユ「エロティシズム」序論 澁澤龍彦翻訳全集13

エロティシズムは難しくて早々に挫折したが、今になってなんとなく序論の意味がわかってきた。
「性の称揚」ではない、「生の称揚」だ。死に至るまで生を称える、ということだ。菊間の言葉がリフレインされてくる。少し紐解いてみよう。

私とあなたは別々の存在だ。そこには大きな大きな溝がある。不連続な存在だ。そんな不連続な存在である我々は、生殖によって連続性の幻影に触れられる。
さらに、すべての人は必ず死ぬ。永遠に生きながらえない。その意味でも人間は不連続な存在である。そんな不連続な存在である我々は、生殖によって次世代を残す。その意味で連続性に触れられる。
そして先程述べた通り、生殖があるということはまた、個体としての死の存在を意味する。
不連続性・連続性・生殖・死、この4つによる、奇妙とも、当たり前ともとれる繋がりがエロティシズムなのではないか?

バタイユは、生殖は有性動物に共通した特徴だが、人間のみが性的活動をエロティックな活動にしている、とも語っている。人間ほど積極的に死を自覚する存在はいないからこそ、生の称揚としてのエロティシズムを発達させた。こんなこじつけ、ジャレド・ダイアモンドは歯牙にもかけないだろうが、私は得心がいった。

ここにおいて、「ふゆから、くるる。」の性行為シーンは単なるポルノを超えて、エロティシズムへと昇華した。


非生命が生命となり、生の称揚としてのエロティシズムに至り、しかし、物語はまだ完結していない。

月角島の疑問はまだ晴れていない。

美しいまま滅んじゃダメなのかしら?

生きている事って、そんなに大事かしら?

生きることに意味を見つけないとダメなのかしら?

死ぬのよ。みんな。

――私達のいない未来になんの意味があるの?

月角島ヴィカ ふゆから、くるる。

月角島の葛藤のように、世界に存在しなかった男性性を追加する恐怖。未知のものに対する恐怖。死に対する恐怖もあろう。

「そうね。でも、私は変わりたくないの……。
 変わりたくない私でもこんなことしたら、
 変わるしかないのね。それが……おもしろかったのよ」

月角島ヴィカ ふゆから、くるる。

そして月角島ヴィカは走り出す。


我々は何者か

死にゆくべき存在である我々が「なんのために生まれたのか」という問いは人類開闢以来、ゴーギャンからアンパンマンに至るまで誰しも考えることである。その答えを探し求めるため、いくつもの宗教が生まれてきた。科学は非常に優秀なツールだが、残念ながらそこの領域は専門外だ。辞典にも人生の意味の項はない。
作中では補陀落渡海という仏教用語が出てくるが、その説明は公式サイトにまかせる。私は浅学にて熊野系の信仰には明るくない。どちらかというと禅思想の方が好みなので、禅仏教の語録「臨済録」を開いてみようと思う。

上堂じょうどう。云く、赤肉団上しゃくにくだんじょう一無位いちむい真人しんにん有り。常に汝等諸人の面門めんもんより出入しゅつにゅうす。未だ証拠しょうこせざる者は、よ、看よ。

臨済録

これだけだと良くわからないので、解説を見てみよう。

赤肉団はお互いの肉体のことだ。切れば血の出る、このクソ袋のことだ。朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、一無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。
(中略)
この無位の真人を見ていくのが禅というものじゃ。お互いのこのクソ袋の中に、釈迦、達磨に異ならん立派な人格があるのだ。それが分からん者は、さア、看よッ、看よッ、看よッ。

山田無文 臨済録 禅文化研究所

別に私がトチ狂ってヤケクソに書いたわけではない。禅文化研究所の初代所長、臨済宗妙心寺派の管長を務められたお偉い老師の解説である。

私は禅の大家ではなく、文面通りにしか受け止められていないが、臨済宗などの禅仏教では、外部にある神様のようなものに頼るのではなく、自分自身の中にある仏を見よと言う。臨済録には「仏を殺せ」などというバズワードも出てくるが、意味はそういうことだ。つまり、仏に祈ってもしゃーないと。修行するまでもなくお前の中には仏がいるんだから、それを見るだけで良い、と。
ある意味絶望的だ。救ってくれる都合の良い存在などいない。

さて、その状況で禅の大家はなにをするのかというと、普段どおり、いつもどおり生きている。

生きるということ、生きるという手段が、生きるという目的になる。手段の目的化。禅の境地とはそこまでたどり着き、もはや生きること全てが修行で、生きること全てが禅の境地であるということだと私は理解している。(もちろん言葉で理解しているだけで実践できているわけではない。ちなみに禅の語録ではこういう「俺わかってますよアピール」をする小物がよく出てくるが、大体偉い人に殴られり、指を切断されたりするのがオチ)

ともかく、自身の中に存在する仏を見て、ただ自分らしく生きるということを充実させる。それが、禅の境地であり、「ふゆから、くるる。」における「祈りのチェス」の物語だ。

現代オタクの基礎知識かもしれないが、チェスや将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームと言われている。AIは非常に強くなったが、まだ完成していない。真の最善手を指し続けていけば先手必勝、後手必勝、決着つかずのどれかになる。

ふゆくるの世界ではチェスの解析が終わった。156手で引き分けとなる。互いが勝つために駒を動かし続ければこうなる。それ以外の手を指したなら負ける。
完全に解析されたチェスはもはやゲームとして機能していない。やる前から結果がわかってるゲーム。果たしてその状態でやる意味はあるのか?

彼女らはその完全に解析されたチェスを「祈りのチェス」と呼んだ。あらゆるものが幸せでありますようにと、祈りながら解析された最善手を指す。

チェスの世界は、私達の代わりに、滅んだのだ。
私達が生きているのは、チェスの世界が死んでくれたからなのだ。
その死を悼む行為が、いつの間にか祈りへと変化したのだ。

空丘島朝日 ふゆから、くるる。

普段は目をそらしているが、残念ながら我々は死ぬ。生と死を大きなスケールで俯瞰してしまうと、自分の生とはなにか……と思ってしまう。
それでもそこに何かを見出し、自分らしく生きる。それが人生であり、生命だ。

朝日
「祈ったことで何かが起こるのを期待するんじゃなくて……。
 いや、あのね、期待するのは当然なんだ。
 だって、祈ってるんだから。幸せでありますように、って」

れぷと
「そうだね。祈ってるもんね。
 ……幸せでありますように」

朝日
「祈りの結果より祈るって行為に意味がある……、
 というのは違うか。
 意味っていう言葉はふさわしくないよね。えっと……」

れぷと
「好き、でいいんじゃない?」

朝日
「それだ! 好き! そう、好きなんだよね。
 祈りが誰にも届かなくても、好きなんだからいいよね。
 私、れぷちゃんの言っていることよくわかるよ」

 朝日、れぷと ふゆから、くるる。

祈りのチェスは我々を感動させる。幸せでありますようにと思う彼女らの気持ちにどこか共感してしまう。それはある意味我々の人生も祈りのチェスの最中だからだ。
死というものに対する恐怖を封印し、当たり前のように生活する中で、人生についての大いなる疑問を端的に説明されると、その言葉が持つ迫力に圧倒されてしまう。



その場にとどまるためには全力で走り続けなければならない

まえがきで書いた通り、現実世界における生命の定義は曖昧なものである。生命である我々は当たり前すぎて生命を定義できない。しかし、彼女たちなら、かつて生命でなく、今は生命である彼女らこそ、生命とはなにかを知っているのではないか。
最後の場面、彼女たちが語った言葉、その一つ一つが「我々は生命である」「生命の意義とは!」と叫んでいたのではないか。

かつて、インターネットの大先生は言った。「CLANNADは人生だ」と。だとしたら「ふゆから、くるる。は生命だ」
ここに生命とは何か、人生の意義とは何かという究極の問いの答えがある気がしてやまない。これは定義ではない。しかしこの物語はほかのどれよりもみごとに生命の意味を語っていると私は思う。

プレイ中からプレイし終わった時まで、私は圧倒されながらも涙を流さなかった。それは、我々が生まれながらにして知っているはずのことを再認識させられただけだから。



あとがき

シナリオライター渡辺僚一氏の春夏秋冬シリーズでは、それぞれ美少女ゲームにおいてないがしろにされていたものを拾っていたように思う。

「はるまで、くるる。」ではハーレムを。
美少女ゲームでハーレムルートといえば、ネタ的に消費され、エンディングで1枚絵が提示されるオマケ的なものとして扱われることも多かったが。ハーレムである必然性を示した。

「なつくもゆるる」ではロリータを。
単なる属性ではなく、そのような見た目でなければならない設定を示してくれた。

「あきゆめくくる」ではラブコメ自体を。
ラブコメが持つ滑稽さ、楽しさのエネルギーを教えてくれた。

そして「ふゆから、くるる。」では語った通り、性を。

このなんでもアリな感じ。わざわざ18禁美少女ゲームという形で表現することに意義があったように思う。Nintendo Switch移植は不可能。

本作のプレイ時間は15時間程度。フルプライスの作品にしてはボリュームが控えめだ。それに百合であること。ぶっちゃけそんなに百合じゃないこと。本作は「学園SFミステリーADV」と銘打っているが、ミステリーとして読むのは無理。推理に必要な情報がすべて開示されているわけではない。私はミステリーを推理しないで読むマンなので、全く問題なかったが、そこら辺の指摘はミステリーに詳しい諸氏に頼みたい。

そういうところもあって、賛否両論的なところがある。ただ私はこの作品を評価したい。
評価したいなんて上から目線じゃだめだな。

最高でした!!!!!


なんというか、私が知識として持っている部分にちょうどヒットした感じがする。進化生物学とか、禅の本を読んでたのが繋がって見事な世界が見えた。あきゆめくくるのプレイ後に澁澤龍彦とかバタイユを挫折しつつも読んだ甲斐があったのかもしれない。
(Eurekaとか格好いいこと言ってたけど、エロティシズムの辺りはスクリーンショットを見直して気づいたことは秘密)





サムネイル画像はオープニングムービーから。
スクリーンショットは製品版から。




補題

これは核心的なネタバレだが、彼女たちの肉体を構成しているものは我々人類とは異なっている。機械的なものだ。しかし、それは彼女らが生命である(生命になった)ことと矛盾するわけではない。岩波の生物学辞典を思い出してほしい。

さて、機械である彼女らに生殖は可能だろうか? 使える部品を再利用する、と語っていたこともあり、生殖というのはあくまでもメタファーで、実際に行われているのはReproductionではなくてRebuildではないか? とも思う。
いや、自分が言ってた言葉を信じきれていないな。人間の常識に縛られて機械≠生物と思いこんでいる。我々は当たり前のように人間なので、機械の生殖を想像できない。

私たちは減数分裂という特殊な細胞分裂を経て精子と卵を産出し、Reproductionする。たとえ構成する物質が異なっていても、彼らもそういうことをやっていることは否定できない。



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