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祖母は他界し、僕は色眼鏡をかけた。

「ほう、高齢な方で足腰の骨がこんなに残っている人は久しぶりに見ました。スタスタと歩いていたんじゃないですか」と人の良さそうな火葬場のスタッフが、祖母の遺骨を見て感想を述べた。
 場が一瞬凍りついた。そんな気がした。

 交通事故がなかったらもう少し長く生きていたかもしれない。その場にいた全員がそう思ったはずだ。横目で母を見ると、ハンカチで顔を覆っていた。
 確かに祖母は背骨は少しずつ曲がってはいたが、自転車に乗って買い物ができるほど元気だった。   …それも半年前の話だ。
 そんなことを知る由もない火葬場のスタッフは、骨上げの段取りについて説明し始めた。

 2022年8月某日
 母は助手席に祖母を乗せドライブに出かけ、その帰りに交通事故を起こした。相手方には幸い怪我はなく、母も軽傷だった。
 だが、祖母はドクターヘリで大学病院に運ばれるほど重症だった。
 二度に渡る手術のおかげで一命を取り留めた。それからリハビリの甲斐があって車椅子レベルにまで回復するも、二度誤嚥性肺炎を起こしてしまった。それが致命的だった。
 口からご飯を食べることができないほど弱ってしまい、病院側からは経管栄養を勧められた。
 僕はそんな祖母の姿は見たくなかった。家族や親族を説得して最後は点滴だけにして、3月某日祖母は他界した。
 最期に立ち会うことは出来なかったが、看護師によると眠るように息を引き取ったそうだ。

 僕と祖母は気が合わなかった。どちらかと言えば、嫌いだった。僕が小学生の時に両親が離婚した。それ以降祖母と母と僕と妹の四人で生活することになった。
 祖母は僕に父親代わりとして厳しく接してきた。口癖は「頑張らんといかん!」だった。
 基本的に面倒くさがりですぐに手を抜きたがる僕と違って、祖母は何に対しても真剣で完璧を求める人だった。
  そんな祖母が暑っ苦しくて、鬱陶しくて嫌いだった。特に僕が中高生のときはほとんど毎日言い争いをしていた。
 祖母は近所でもちょっとした有名人で、「あー、お前あの婆さんの孫か。俺が子供の時、イタズラしたらほうきを持って追いかけられたわ」と被害報告を受けた。
 大学生になって実家にいる時間が激減したこともあり、会話すらあまりしなくなった。 
 僕が社会人になると「曾孫の顔が早く見たいな」と顔を合わせる度に言われた。最初は「そのうちね」と答えていたが、あまりにも何回も言われるため極力寄り付かないようにしていた。

 目の前に骨だけになった祖母。それを足から順番に骨壷の中へ入れていく。
あんなに強烈な個性を放っていた祖母と全く結びつかない。盛者必衰とはこのことを言うのかと、何故か少し俯瞰していた。

 事故が起きた日。手術室に入る前、祖母は僕の手を握って「頑張ってくるからね」と言った。
全身がボロボロな状態なのに。それでもいつも通り頑張る!と言える祖母をみて、こういう人を芯が通ってるというんだと思った。
僕が逆の立場だったら間違いなく泣き言を吐いていただろう。

 そこから半年間は判断の連続だった。医師は常に最悪な状況を説明会する。そんなことはわかっているはずだった。
 人工肛門になるかもしれない。胃瘻をつくったらどうか。急変時はどこまで処置を行うか。
 いつも聞いているような内容だったが、医療者側と患者側と立場が違うだけで単語一つ一つが重くのしかかった。
 祖母のことを大事に思う気持ちは僕も家族も親族も同じだった。だが、意見はなかなか一致しなかった。
 僕は弱った祖母の姿を見たくなかった。もう十分頑張ってきたからこれ以上の負担はかけたくなかった。
 だが、少しでも可能性があるなら胃瘻を造ったほうがいいんじゃないか。祖母を見捨てるなんて少し冷たいんじゃないのかと反対意見が挙がった。
 ズキッと目の奥が痛くなった。
 看護師として日々患者と接している中で、生きているとは何か、どういう最期を迎えたいかと自分なりに考えていた。
 それを丁寧に説明したつもりだったが、納得できない家族や親族もいただろう。
 亡くなった後もしばらくは忙しかった。葬儀場や遺影選びだけで驚くくらい揉めた。人の数だけ考え方は違うことを身をもって知った。
 ズキッと目の奥が痛くなった。
 遺族は故人を悼む暇はないとは聞いてはいたが、予想以上だった。関係書類を提出するために市役所等を巡っていたらあっという間に時間が過ぎた。
 だが、目の奥の痛みはよくならなかった。近医を受診すると緑内障かもしれないから大学病院で診てもらうよう言われた。子供のころの苦い記憶が甦る。
 僕は元々目が悪かった。幼い頃から視力は1.0もなかった。原因を調べるべく評判のいい眼科を何ヶ所も受診したが何も分からなかった。毎回数時間に渡る診察時間で僕は泣いてばかりだった。もしかしたら将来目が見えなくなるかもしれないという恐怖心を子供ながら抱えていた。
 結論からいうと今回も原因はわからなかった。目には異常はないそうだ。
 自分なりに対処していくしかない。疲れやストレスがかかると目が痛くなりやすいからなるべく休息をとるようにして、痛い時は我慢せずに痛み止めを飲むようにした。
 太陽の光だけでなく蛍光灯の光も異常に眩しく感じるようになって、それも目の痛みを起こす原因の一つみたいだった。
 普段からカラーレンズのメガネをかけ、外ではサングラスをするようにした。その場しのぎで根本的には何も解決していないが、だいぶ楽になった。
 最近カラーレンズが流行っていることもあり、周囲からのウケも良かった。
「ヤクザみたいじゃん!」とからかわれることもあるが、元々童顔で若く見られがちだったから少しはいかつくみせることができたようで気に入っている。

「歳をとるもんじゃないね」と弱音を吐いた祖母の後ろ姿を思い出した。友人が亡くなる度祖母は苦しそうだった。
 今思えば、祖母は「頑張らんといかん!」と常に自分を鼓舞して、喪失感や老いに抗い続けたのだろう。
 歳とともに自分の思うようにならないことが増えていく現実に苛立ちながら。
 僕にはそんな強さもエネルギーもない。祖母からすると無気力にみえただろう。 僕は自分に諦めながら生きている。
 吃音で時々言葉が喉に詰まってしまうことや、生まれつき視力が出ずらく、いくらレンズの度数を上げてもピントが合わないこと、etc…。
 僕には出来ないことが多すぎて諦めるしかなかった。ダメな自分と真正面から向き合うことはしんどい。自己嫌悪で吐きそうになる。
 だが、「まぁ、しょうがないか」と受け入れることでこれからどうするべきかが見えてくる気がする。諦めがスタートラインだ。
 30代で色眼鏡が欠かせなくなった。これから生きていると更に体が思うようにいかなくなるだろう。その衰えさえ人生だと楽しめるような余裕があればなと思う。
 もし、これを祖母が読んだら「何偉そうなこと語って!」と叩かれそうだ。
「…ばあちゃん、僕も少しは頑張って生きるよ」
遺影の祖母が少し笑った、ような気がした。



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