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「大人にならないとな…」と呟いた彼女は何を決意したのだろう。

 「ハァ~」と大きなため息をついて、ソファに体を預ける。いい作品に出会うと、全身の力が抜け落ち無気力になってしまう。

 「もったいない、もったいない。まだ余韻の中にいたいんだよ」と花束みたいな恋をしたのヒロインである八谷絹のセリフが脳内で再生される。
 あのときも2週間くらいは何も手につかない状態になってしまった。ずっと余韻に浸っていたくて、できるだけ外部の情報をシャットアウトしていた。

 夏の終わりに、燃え殻さんの『これはただの夏』を読んだ。正確にいうとAudibleで聴いた。
 まだまだ暑い日が続いているが、僕には一足先に秋が来たような気がする。周りの人より体感温度が2〜3℃低いような気さえしている。
 そんなはずはないのに、僕自身が大切な人とお別れをしたわけではないのに、容赦なく切なさが襲ってくる。

これはただの夏

その瞬間、手にしたかったものが、
目の前を駆け抜けていったような気がした。

「普通がいちばん」「普通の大人になりなさい」と親に言われながら、周囲にあわせることや子どもが苦手で、なんとなく独身のまま、テレビ制作会社の仕事に忙殺されながら生きてきてしまった「ボク」。
取引先の披露宴で知り合った女性と語り合い、唯一、まともにつきあえるテレビ局のディレクターにステージ4の末期癌が見つかる。 そして、マンションのエントランスで別冊マーガレットを独り読んでいた小学生の明菜と会話を交わすうち、ひょんなことから面倒をみることに。

ボクだけでなく、ボクのまわりの人たちもまた何者かになれず、何者かになることを強要されていたのかもしれない……。

燃え殻『これはただの夏』特設サイトより

 
 プールサイドで明菜が潜水している姿を眺めながら、優香が「人生何回でもやり直せるとは思わないけど、何回かはやり直せるチャンスがあると思うんだよね」とボクに言った。続けて「大人にならないとな…」と呟いた。

 このシーンが頭から離れない。僕自身このままじゃダメだ、変わりたいと思う時が多々ある。大抵はそう思うだけで、なかなか行動できずにいる。
 だが、人生に何回かは変われるチャンスが来る。変われるというよりは変わらざるを得ない状況がやってくる。
 優香の場合は、自分の居場所を掴もうと必死に生きている明菜の姿を見て、「大人になろう」と決心したのだろう。

 僕の場合は親の交通事故というアクシデントを機に、祖母の介護や相続、親の老後と今まで見ないふりをしていた問題たちが一気に押し寄せてきた。
 これまではダルいと言って逃げていた。自分には関係ないと見ないふりをした。
 だが、今回はそうはいかない。自分がしっかりしないといけないと腹を括った。
 ストレスで両肘に湿疹ができて、ただれてきた。それでも不思議と逃げたいとは思わなくなった。これを乗り越えれば、人として大きく変われると確信しているからだ。
 
 皆何かしらの問題を抱えながら生きている。それを誰にも悟られないように、平気なふりをして。

 彼らのその後は描かれていない。余白があるからこそ、想いを巡らせることができる。
 「何回かはやり直せるチャンスがあると思うんだよね」「大人にならないとな…」と呟いた彼女は、藻掻きながらも必死に自分を変えようと生きているはずだ。

 何年後に偶然彼らが再会して、例のプールサイドで、思い出話に花を咲かせつつ、あの後何があったのか各々が笑いながら語り合うシーンを勝手に妄想した。
 

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