見出し画像

『君の名は。』口噛み酒論考:「よもつへぐい」と社会類型

Ⓒ2016 「君の名は。」製作委員会

監督:新海誠
脚本:新海誠
公開:2016年

① 序論:ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ

新海誠作品を論ずるにあたっては「セカイ系」というワードを外すことはできない。セカイ系とは、1990年末期から2000年代のいわゆるオタク的なアニメーション作品などに散見される、一組の少年少女の関係性のみに焦点を当てた作風を指し、彼らの関係がそのまま物語の根本を左右するという、言ってしまえば未成熟な展開が特徴の一つである。

 ドイツの社会学者テンニースは人間の結合意志に着目し、社会類型として「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」という考えを提唱した。一言で纏めるとゲマインシャフトが「本質的で自然発生的な人間関係」、ゲゼルシャフトが「合理的で契約的な人間関係」のことで、セカイ系作品は一組の少年少女というゲマインシャフト的な相互関係を重視するあまり、世間や社会というゲゼルシャフトを軽視あるいは無視する傾向にあると考えられる。
 少年少女はしばしば精神的な幼さ故に社会というゲゼルシャフトを蔑視すらするだろう。しかし、彼らは成長とともに世界が自分たちのルールで回っていないことを痛感し、世界と関わるためにはゲゼルシャフトに意識を向けなければならないと理解することになる。この社会認識論的イニシエーションを通じて子供が大人になると私は考えているが、新海誠の初期作品にはゲマインシャフト以外まるで存在価値がないかのような自己中心的な描写が散見され、セカイ系というジャンルの未熟さをある種体現してしまっている。

 さて、そんな新海誠が初めてゲゼルシャフトに意識を向けた作品こそが『君の名は。』ではないだろうか。本作は「都会/田舎」「大人/子供」「男性/女性」という基本的な二項対立により組み立てられており、そもそも「男女」以外の二項対立が眼中に入っていなかった『言の葉の庭』以前の作品とは明らかに視野の広さが異なっている。つまり、『君の名は。』をセカイ系批評の枠組みだけで論じると作品を読み誤ってしまう可能性が非常に高い。
 そこで、本論は意図的にセカイ系批評とは距離を取り、新海誠『君の名は。』を日本神話との関連性という観点から再考したい。

② 口嚙み酒=朽ち神酒

本章では作中キーアイテムとして登場する「口嚙み酒」に注目して論を進める。「口噛み酒(くちかみざけ)」=「朽ち神酒(くちかみざけ)」であると私は考えている。日本神話において「朽ちた神」とはイザナミノミコトを指す。概要を説明すると以下の通りとなる。

 イザナミノミコトはカグツチを産む際に命を落とし黄泉の国へと行ってしまう。夫のイザナギがイザナミを連れ戻そうと黄泉の国へ赴くが、イザナミは「黄泉の国の食物を口にしてしまったため現世に戻ることはできない」と宣言する。この「死の国の物を食べると元の世界に戻れない」という神話上のルールを「よもつへぐい」と呼ぶ。
 よもつへぐいに類する描写は国内外問わず多くの物語に共通しているものであり、恐らく現代日本でもっとも有名なよもつへぐいは宮崎駿『千と千尋の神隠し』であろう。また、海外の例を挙げるとデル・トロ『パンズ・ラビリンス』が分かりやすい。
 さて、どうしてもイザナミを現世に連れ帰りたいイザナギだったが、とあるきっかけで彼女が腐りきった死体であると気付いてしまう。つまり、イザナミノミコトは「朽ち神」なのである。

 上記を踏まえ、本論で提唱する仮説は以下の通りとなる:『君の名は。』における口嚙み酒とは朽ち神イザナミノミコトを連想させる装置であり、映画全体をよもつへぐいの物語として読み解くための糸口として機能している。
 次章では、上記の仮説に基づき本作における「黄泉の国」について論じていきたい。論の根拠は「口嚙み=朽ち神」という当て字にすぎないが、日本文化は当て字をとても大事にしているので、あながち的外れな意見ではないはずである。

③ 隔り世とよもつへぐい

本章ではまず『君の名は。』における「黄泉の国」とは何かという話題を論じるが、本作では直接「ここから先はあの世」と説明されている場所が存在する。それが御神木を中心とした円形の空間=隔り世である。

 主人公の立花瀧は彼の時間軸では既に死んでいる=黄泉の国の住人となっている準主人公の宮水三葉を助ける=現世に連れ戻すために隔り世にて口嚙み酒を口にする。この時点で彼は三葉と同様黄泉の国の住人となり、三葉の時間軸に干渉することが可能となる。

 さて、私が本作に疑問を呈したいのは次の部分である。よもつへぐいの禁を破り、黄泉の国の住人となってしまった瀧が三葉を連れて現世に戻るためには相応の試練を乗り越えるか代償を払う必要がある。宮崎駿『千と千尋の神隠し』はそれこそが物語の基軸であったわけだが、その点『君の名は。』はなぜ二人が現世に戻ることができたのか明確な描写がカットされている。
 瀧と三葉が糸守町を救い現世に戻る過程には「三葉の父親の説得」という大きな壁が存在した。三葉の父親は糸守町の町長であるため、ゲマインシャフト的な父親という役割とゲゼルシャフト的な町長という役割が同居しており、セカイ系から発展しつつある新海作品『君の名は。』を象徴するようなキャラクターとなっている。そんな彼を三葉が説得する場面は、自己完結的な新海キャラクターが初めて社会という存在に正面から相対し、そして勝利を収めるというこの上ない重要な意味を持っているはずだが、あろうことか本作はこの場面を省略してしまっている。つまり、本作は現世に戻るための「相応の試練」を真剣に描いてはいない。この点は厳しく指摘できるだろう。『千と千尋』で例えると、「この中からお前のお父さんとお母さんを見つけな」の場面が省略され、いきなり元の世界に戻っているようなものである。突きつめて考えると、宮崎駿とこの時点での新海誠の力量差はこの辺りに現れているのではないだろうか。

 上記の問題点をポジティブに批評することもできる。本作はよもつへぐいの話かと思いきや終盤の展開はアンチよもつへぐい的に作られた、神話という権威への反抗なのだと主張することも可能だろう。いずれにせよ、本論において主張した口嚙み酒についての仮説はあくまで作品解釈にすぎず、それをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは作品批評の領域なので、「私はネガティブに捉えている」と自らの立場を表明し、本論の結びとしたい。

④ まとめ

〇口嚙み酒=朽ち神酒
・イザナミノミコトのよもつへぐいが反映されている
・隔り世=黄泉の国
・黄泉の国から戻るためのイニシエーションが描写されていない

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?