書道ミュージアムに行ってみよう! 全国48カ所 (前編) 書道の歴史と関東以北のミュージアムを紹介
ミュージアム巡り、ミュージアム情報の収集を趣味としており、全国5000カ所以上の博物館、記念館、資料館、郷土館などをリストアップしています。美術館は含めていませんが、テーマを絞った美術館や特定の人物にフォーカスした美術館はリストに入れています。
書道に関するミュージアムをピックアップすると、北海道から九州まで48 カ所あり、休館・閉館・準備中のミュージアムが7カ所あります。地域の偉大な文化人を紹介し、顕彰しようという熱意から、書道ミュージアムが設置されるケースが多いようです。
全国を5つのエリアに分け、「関東」以北と「東海・北陸」以西の2回に分けて、書道ミュージアムを紹介します。1人の書家を紹介するミュージアムのほかに、書跡(書道の優れた作品や禅宗の僧が書いた書などをいう)の収集に力を入れている美術館も含めています。
書への理解を深めるために、書道の歴史、書道界の現状と問題点について2回に分けて長文の解説を付けており、解説は無料で読むことができ、書道ミュージアムを紹介する記事は有料になります。
各ミュージアムには所在地、URL、電話番号、休館日、開館時間、料金(大人の個人での料金)、特色を記載。地域ごとの書道ミュージアムの数は以下のようになっています。
文字が発明されて、記録が可能に
世界四大文明の1つ、中国の黄河文明の時代に、漢字の原形となる文字が誕生し、紀元前1300年頃、殷の時代に漢字が生まれた。甲骨文字(亀の甲羅や牛の骨などに刻み付けられた文字)や金文(祭礼用の道具などに鋳込まれた文字)が出土している。
漢字は誕生してから現在に至るまで、字形が変化しているが、途切れることなく使われてきた文字で、漢字の歴史の長さから文化の重みが感じられる。
漢字は周辺諸国に伝わり、漢字文化圏を形成。日本には、紀元前後に伝わっており、後漢の光武帝が西暦57年、日本国の使者に授けた「漢委奴国王)」の金印によって確認できる。
日本で漢字を使用した早期の例は、中国の巍の年号である景初4年(240年)の文字を鋳込んだ鏡(景初4年は実際にはない)があり、5世紀以降、日本の地名や人名などを漢字で表記した銅鏡や鉄剣などの金石文(金属や石などに記された文字や文章のこと)が発見されており、6世紀には、仏教が日本に伝来。経典が伝わり、紙に経典を書き写す写経によって仏教の普及が促され、写経も盛んになっていった。
7世紀前半の法隆寺などの仏像に記された「銘文」は漢字で記録され、710年に遷都した平城京の平城宮跡からは、木簡(木の札に墨で文字を書いたもの)が大量に出土しており、政治や歴史の記録だけでなく、当時の生活が記録されている。
奈良時代(710年~794年)に、日本語を表記するため漢字(真名)の音を借用して表記する借字が生み出された。漢字を使った仮名の始まりとされ、真仮名、真名仮名ともいう。『万葉集』の表記に多く使われたので、江戸時代になって、万葉仮名と呼ばれるようになる。
平安時代(794年~1185年)の前期には、記録する役割と同時に、書の美しさが重視された。中国の東晋の政治家で、書家の王羲之は書の芸術性を確立し、書聖と称され、清らかで美しい書風は書の手本になった。
平安初期の能書家の空海、嵯峨天皇、橘逸勢は「三筆」と言われ、当時中国で流行していた東晋の王羲之たちの書法や書跡が広まっていく。
中国の唐の政治家で、書家の顔真卿は伝統的な王羲之の書に革新をもたらし、力強く大らかな書風は中国だけでなく、周辺国にも影響を与え、日本の書の基礎を構築した。
894年の遣唐使の廃止などで、平安中期には日本独自の文化様式である国風文化が花開き、王羲之や顔真卿を規範としながらも、日本独自の書風の和様(日本風)を確立していく。
日本独特の仮名や書道の技法が開花
「三跡(三蹟)」と呼ばれた小野道風(とうふう)、藤原佐理(さり)、藤原行成(こうぜい)が登場し、和様が大成した。
奈良時代に生まれた借字(真仮名、万葉仮名)は字形としては漢字だが、9世紀に、万葉仮名を基に、片仮名や平仮名が考案された。借字の一部を用いて片仮名が誕生したが、僧侶が経典を読むための符号として使ったのが最初と言われている。
借字の文字数は当初1000字近くあったが、書きやすく、頻繁に使われるものに淘汰されて減少し、字体も簡略化して、草書体で表現した草仮名が生まれ、さらに簡略化されて、平仮名が誕生する。
漢字には5つの書体があり、五体と呼ばれる。篆書は最も古い書体で、現在でも印章などに用いられている隷書は秦(紀元前905年~ 紀元前206年)の時代に公文書で用いられるようになり、篆書を崩して簡単にしたもの。草書は隷書をさらに簡略化した書体で、くずし字ともいう。
行書は草書のように、楷書と字形が異なることはないが、続け書きが見られる書体で、楷書は一点一画を正確に書き、方形に近い字形の書体で、五体の中で最も新しい。
和様を代表する仮名は、草書体を基に平安時代に確立され、10世紀には、複数の文字を連続して書く連綿や、行を変えて変化を加えた仮名消息(消息とは手紙のことで、仮名消息は仮名で書いた手紙のこと。通常1枚の紙に書く)が現れた。
墨の濃淡や筆線の太細、行間の広さに変化をつけたり、文字の配置を自由に変えて、繊細で優美な仮名の表現を「散らし書き」というが、日本独特の書道の技法である。
11世紀中頃には『古今和歌集』の写本の通称である「高野切」のような仮名の典型な書作品が誕生する。文字を絵画的に変形し、葦、水鳥、岩などになぞらえて書いた葦手を駆使しながら、仮名芸術は広がりを見せていく。
書の芸術作品に古筆、墨跡と呼ばれるものがあるが、古筆は、主に鎌倉時代以前の書を指し、巻物の一部を切り取って掛け軸にして飾るようになった。書を掛け軸にしたものを古筆切という。墨蹟は、墨で書いた文字のことだが、日本の書の世界では、禅僧が書いた書を指すことが多い。
平安から鎌倉時代にかけて書かれた和様書道に、古筆の名品が数多く誕生している。古筆の価値を高める要素の1つに、料紙(書道に使われる装飾的な紙)の装飾性がある。料紙には麻、楮、三椏などの原料を漉き上げただけでなく、染めたり、装飾を施したものがあり、料紙自体にも芸術性が感じられる。
日本の書の歴史には、書流と呼ばれる書の流派がある。平安時代中期の和様の大成者、藤原行成を祖とする世尊寺流から始まった。行成が晩年、邸宅内に世尊寺を建立し、子孫が世尊寺家を名乗ったことから世尊寺流と言われた。
世尊寺流での三筆は、始祖の藤原行成、中興の祖で、「世尊寺」の家名を名乗るようになった世尊寺行能、世尊寺家第12代当主の世尊寺行尹の3人を指す。
丸味と力強さを兼ね備えた書を書いた藤原忠通が始めたのが法性寺流(筆を傾けて書く側筆)が特色で、法性寺流は平安時代末期から力を持ち始めた。
法性寺流は、世尊寺流にも影響を及ぼし、2つの書流は似たような書になっていくが、世尊寺流は、世尊寺家が断絶するまで500年以上続いている。
法性寺流の流れを汲むのが、後京極良経が始めた後京極流で、絵巻物の絵の前段に置かれる文章の詞書や写本に多く用いられ、鎌倉時代の中期に流行った。
中国の南宋(960年~1279年)の文化が、鎌倉時代中期に移入されるようになり、鎌倉幕府は禅宗を重用し、禅僧が来日し、南宋への留学も盛んになった。参禅修行の証明として師匠から弟子に伝えられた書が、その後、質実剛健な書跡として尊ばれるようになり、禅僧の書は、墨跡と呼ばれ、書の一分野として確立された。
臨済宗の開祖で建仁寺を開山した明菴栄西(ようさい)、大徳寺を開山し、大燈国師とも呼ばれる宗峰妙超などの禅僧も、宋時代の書に影響を受け、力強く逞しい書を残している。
平安時代から鎌倉時代の書の名品である古筆は、室町時代には、贈答や売買されるようになり、鑑賞の対象として重宝され始めた。
室町時代の墨跡では、戒律や形式に囚われない奔放な生き方をし、民衆の共感を呼んだ一休宗純の書の人気が高い。一休は臨済宗大徳寺派の僧で、詩人でもあり、説話のモデル、一休さんとして親しまれている。
時代によって、書の流派の盛衰が起きる
鎌倉時代に世尊寺流から分派した数多くの書流が形成され、室町時代には、世尊寺流、法性寺流、青蓮院流、持明院流という4つの流派に大別できる。青蓮院流は伏見天皇の皇子、青蓮院尊円親王(京都の粟田口にある青蓮院門跡であった)が創始し、流麗で平明な書体を特色とした。
世尊寺流17代の世尊寺行季が1532(享禄5)年に亡くなったが、跡継ぎがおらず、世尊寺家、世尊寺流が途絶えた。
後奈良天皇が世尊寺流の断絶を惜しみ、世尊寺流の門人で、秘説相承(弟子が師から正法や秘伝を受け継ぎ,さらに弟子に伝えること)を受けていた持明院基春に継承させたのが持明院流で、宮廷書壇の中心となっていく。
室町時代末期、安土桃山時代に茶の湯が普及すると、禅僧が書いた書の墨跡は「茶の第一の道具」と言われ、茶の世界に欠かせないものになった。
安土桃山期に茶の湯が流行すると、掛物として、書が珍重された。江戸時代には古筆切(多くの人が収集できるよう古筆を切り分けたもの)が収集され、軸装や手鑑(てかがみ。厚手の紙を折った折帖に、古筆切を貼り付けた作品集)に仕立てられるなど、鑑賞する書跡や、鑑賞の形態も多様化した。
江戸時代には、尊円親王を祖とする青蓮院流の流れを汲む御家流(おいえりゅう)が武家、町民、農民など幅広い層に普及し、文字を読むだけでなく、文字を書ける層が拡大した。徳川幕府が、御家流を公用文書の書体に採用し、寺子屋でも御家流を教えたため庶民にも広まり、書流はほぼ御家流一系になっていく。
江戸時代前期には、「寛永の三筆」と呼ばれる本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗が活躍した。3人は、型の習得と秘事口伝を重視した平安以来の古筆、古典籍を学びながらも、書法を根本から革新し、表現力を重視する志向が強く、中世から近世への大転換を担った。
本阿弥光悦は、家業の刀剣の鑑定だけでなく、書、陶芸、漆芸、能楽、茶の湯などに才を発揮した芸術家として名を残しており、後世の日本文化に大きな影響を与えた。光悦の書は装飾的なところに特色がある。
近衛信尹は定家様(藤原定家の書風)を基本にして豪快で力強い仮名を特徴としている。絵画や茶道も堪能であった松花堂昭乗は青蓮院流と大師流(空海の使筆法を受け継ぐ書風)を基に、書表現に新風を吹き込んだ。
江戸時代は、幕府が儒学を重んじたので、宋、元、明の書家に影響された唐様も流行した。唐様の書は儒学者、医者、漢字に精通した人たちの中で、新鮮で独特な書風として受け入れられた。
清朝末期の文人が明治時代の書に新風
江戸時代前期に日本へ渡航し、明朝復興を願い、中国の禅の正統性を重んじる黄檗宗を開いたのが隠元隆琦。隠元から仏法を授けられた木庵性瑫、隠元に招かれて来日した即非如一。この3人の禅僧は修禅(座禅や仏法の真理を熟考する修行)を修める一方、能書家であった。
力強く勢いがあり、闊達な書風に磨きを掛けた書家で、「黄檗の三筆」と呼ばれている。隠元は「穏健高尚な書」、木庵は「雄健円成の書」、即非は「奔放闊達な書」と評され、唐様の人気が高まった。
即非如一は詩も得意で、禅味(俗世を離れた枯淡な味わい)のある観音、羅漢、蘭竹などの画を描き、日本の文人画の先駆者となった。
庶民の教育機関として江戸時代には寺子屋が普及したが、寺子屋での教育内容は「読み、書き、算術」で、手習が中心であった。手習は、手跡を学ぶこと、手本を習うことであり、習字とも言い、「いろは」から始まり、基本となる漢字や言葉を書いて覚えた。
手習は、古くから子弟・子女の教養の1つとされ、奈良時代には王羲之の書法を重んじ、平安時代は三筆や三跡の手本が重宝された。鎌倉時代になると、貴族以外にも手習が普及し、武家の子弟はもちろん、寺院では庶民の子供を集めて教えるようになった。
室町時代には庶民の間でも手習が広く流行し、習字という言葉もこの頃から使われ始めた。手本の主流は青蓮院流であったが、寺子屋の普及とともに、御家流が広まっていく。
庶民生活に必須の内容を集録した各種の往来物(平安時代後期から明治時代初頭にかけて、主に往復書簡の手紙形式で作成された初等教育用の教科書の総称)を教材とした。識字率が上がり、井原西鶴らの浮世草子、滑稽本、洒落本、人情本といった文学作品を読む層が増えていく。
日本で、筆一本で生活できた最初の職業作家は、1802(享和2)年に『東海道中膝栗毛』を出版して、大ヒットとなった十返舎一九と言われている。原稿ができ上がるのを、版元からの使者がそばで待っているほどの状態で、『東海道中膝栗毛』は20年に渡ってシリーズが続き、人気作家のパイオニアであった。
江戸時代は、滑稽本、人情本などの小説や浮世絵など、商人や豪農を中心に、文化を享受する層が広がった。上手に書を書きたい人々が増えて、江戸時代後期には書を職業とする職業書家が登場。巻菱湖、市河米庵が人気書家の1位、2位である。
1843年に亡くなった巻菱湖は、晩年、書塾の門下生が1万人を超え、明快で端麗な書風は「菱湖流」と呼ばれ、書の手本として用いられ、死後も書道教科書の主流となった。
市河米庵は、中国の北宋の文学者、書家、画家だった米芾や、唐時代を代表する書家、芸術家で、政治家の顔真卿に私淑し、門人は5000人に達した。米庵は、晋や唐の時代の書を尊重しながら個性的な書を書くことで知られる。
巻菱湖、市河米庵、それに、江戸後期の文人画家の巨匠で、書家でもあった貫名菘翁の3人は「幕末の三筆」と呼ばれており、明治以降の書に大きな影響を与えている。
明治維新以降、西欧や中国などの諸外国からさまざまな文化が日本に流入し、書道も海外からの影響を強く受けた。書体については、公用書体が御家流から、漢字を中心とした唐様に変更され、唐様が広く用いられた。
1880(明治13)年には、清朝末期の学者、文人、蔵書家の楊守敬が来日。楊守敬は金石、地理、目録の学問を究めており、清の駐日大使の随員として日本に滞在し、運筆法(筆の持ち方や筆の運び方のこと)の1つである廻腕法(腕を大きく廻し、肘から先をほぼ水平に半月の形で運筆する方法)を日本にもたらした。
楊守敬は六朝(中国の三国時代の呉、東晋、南北朝時代の南朝の宋、斉、梁、陳の総称)時代の書法を日本に伝えた。受け手となった主な書家が3人いた。
楊守敬に師事して書法を研究し、幕末の三筆の貫名菘翁の書法を日下部鳴鶴や巖谷一六などに指導した松田雪柯、日本近代書道の父と評され、中国の六朝、初唐時代の書を重んじる六朝書道を提唱した日下部鳴鶴、日本近代児童文学の創始者と言われる巖谷小波の父で、官僚、書家、漢詩人であった巌谷一六である。
楊守敬のもう1つの功績は、碑版法帖を大量にもたらしたことだ。碑版法帖とは、金属や石の碑などの書跡から採った拓本を保存し、鑑賞、学書用にしたもの。約1万3000という、多くの書の手本が紹介されたことで、臨書(書道の名品とされる作品を手本に、じっくり観察し模倣して書くこと)が多様化していく。
明治以降、多くの書家が日本の伝統的な書法や筆法を基礎としながら、金石学(金属や石に記された文章や文字を研究する学問)を学び、清で広まっていた書学を吸収するようになり、特に中国の六朝の書風を身に付けていく。日下部鳴鶴は多くの門人を抱えていたため、全国にその書風が伝わった。
日下部鳴鶴、巌谷一六、それに、明治初期に長崎にいた中国の役人から碑版法帖を入手し、清国に渡って六朝の書を学んだ中林梧竹の3人は「明治の三筆」と呼ばれている。
六朝の書風に真似るようになった一方で、御家流は和歌などをたしなむ皇族や華族の中で受け継がれていく。古筆の研究が明治時代中期から盛んになり、1890(明治23)年に三条実美らによって平安時代の仮名作品を研究する難波津会が結成され、古筆の書風で表現する作品が生み出された。
美術、芸術から切り離された「書」
明治になって、日本初の国立の美術教育機関「工部美術学校」が1876(明治9)年に開校したが、西洋美術教育だけで発足した。欧化政策の反動から国粋主義が台頭し、財政難もあって1883(明治16)年に廃校になるが、1889(明治22)年、新たに国立の美術教育機関の「東京美術学校」が開校する。
東京美術学校では西洋美術が排斥されたため、同年に工部美術学校出身の西洋美術作家を中心に「明治美術会」が発足した。当時の洋画家のほとんど約80名が参加している。
明治初期は芸術の世界で西洋と東洋(日本)の対立が見られるが、「美術」という言葉が誕生したのは明治初期のことで、1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会で「美術」の部が設けられ、その中に「書画」が位置付けられた。
博覧会への出品が始まると、それ以前の居室の狭い空間で行われていた鑑賞が、広い展示空間で鑑賞する形に変わっていく。書家の発表の場も展覧会が主流となり、それが今日まで続いている。1877(明治10)年に、現在の東京国立博物館の前身である「美術館」が常設の博物館として設置された。
洋画家で、図画教育の普及に尽力した教育者の小山正太郎は、1882(明治15)年、『東洋学芸雑誌』に「書は美術ならず」論を発表した。書は言語の符号で、言語の符号を記する術であり、書は他の美術のように独立して作用するものではなく、書は普通教育の科目として勧奨すべきで、美術として勧奨すべきではない、という主張であった。
これに対し、岡倉天心は「『書は美術ならず』の論を読む」を同じ雑誌に掲載して、日本の書は、昔から書画同体と称し、画は書を助け、書は画を助けていて、同根同種のもので、画を美術とするならば、書も美術であると反論し、漢字には真書(楷書)、行書、草書の違いがあり、文字の前後の体勢や文字の構成を考えて書くことで、書の美術性が発揮できると主張した。
書と美術の関係をめぐる近代日本での初めての論争であったが、これ以降、官制の美術展から、「書」の出品が拒否されていく。1877年の第1回内国勧業博覧会では、書は「書画」として絵画と同じジャンルであったが、1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会から、書は「版、写真及書類」という分類となり、絵画と別に扱われるようになった。
美術としての地位を確立していく絵画から切り離された感が強く、書の衰退という危機感を書家に抱かせ、「書の独立」「書の確立」を目指す運動が行われるようになる。
明治政府は「殖産興業」「富国強兵」「脱亜入欧(後進地域であるアジアを脱し、欧米列強の一員となることを目指したスローガン)」の方針を採っていたが、文化的にも、西洋のものを崇める傾向があった。もちろん、こうした風潮に反対する動きもあり、国粋主義も台頭している。
明治政府の芸術奨励は、美術分野で展覧会を開催することから始った。1887(明治20)年に「日本美術協会」が創設され、絵画や美術工芸品などの展覧会を開催し、個展や各流派の展覧会も実施されていたが、美術界では、各流派を一堂に会した一大展覧会を開こうという機運が高まった。
文部省は、1907(明治40)年に「美術審査委員会官制」を定め、年に1度の展覧会開催を決めた。文部省美術展覧会(文展)が1907年に東京・上野で開催され、審査委員会は日本画、西洋画、彫刻の3部に分かれて、出品作品の鑑査、審査をした。
優れた作品を褒賞し、買い上げることも定め、毎年開催された文展は1918(大正7)年、第12回で終わるが、日本の美術界の発達に大きく寄与した。
文芸面での芸術奨励は、1911(明治44)年に「文芸委員会官制」を決めて、文芸委員会を設置し、優秀な文芸作品の発達を奨励しようとした。森林太郎(鴎外)の『ファウスト』の翻訳と、1885(明治18)年に発表した評論『小説神髄』や小説『当世書生気質』の著者である坪内逍遙を表彰した。だが、この試みはあまり成果を上げず、1913(大正2)年に文芸の表彰を廃止している。
坪内逍遙は『小説神髄』で、小説を美術(芸術)として発展させるには、江戸時代から続く勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情、心の機微を描くべきで、世態(世の中のありさま。世間の状態)や風俗の描写がこれに次ぐと論じた。
逍遙自身も小説を手掛けるが、心理的写実主義を実践できたとは言えず、シェイクスピアと近松門左衛門の研究を進め、戯曲や演劇の世界で功績を残している。
明治政府は絵画、彫刻、文芸に力を注いでいたが、書の振興には特段、政策を講じてこなかった。脱亜入欧という思想の下、中国から伝わった書道を芸術という面では軽んじていたのかもしれない。
危機感を募らせた書道界では、書の奨励を目的に、書道団体が続々と創設され、書壇(書家の社会)が形成されていく。
明治中期から書道会の結成と会報誌の発刊が盛んになり、1900(明治33)年に「書道奨励会」が創設され、書道雑誌『筆之友』が創刊された。1902(明治35)年に「六書協会」が展覧会を開いたが、これは現代の書道団体が実施している形態に近いもので、1907(明治40)年に「日本書道会」と「談書会」に分れた。
明治の書道界で最も多くの門弟を擁したのは日下部鳴鶴だが、これに拮抗する大きな書道集団を形成したのが西川春洞だ。西川門下の豊道春海が1924(大正13)年に「日本書道作振会」を結成する。これを機に、大規模な書道団体の結成が相次ぎ、書道団体による書道展が開催され、近代書壇史の幕が開けた。
明治末期、大正期には、書道に関する刊行物が数多く発行され、明治、大正のかな書道界を代表する書家、小野鵞堂(難波津会の有力メンバー)は1904(明治37)年に最初の競書雑誌『斯華之友』を創刊する。
競書雑誌は作品を送ると、作品を審査して成績が発表され、成績がよければ級や段が少しずつ上がっていくシステムの書道雑誌のこと。近くに書の師匠がいなくても、独学で書を学ぶ者にとっても、競書雑誌は励みになる。『書勢』『書海』『不律』『群鵞』など、書の雑誌ブームが起きた。
書に関する著書も刊行され、『書訣』『談書会集帖』『六朝書道論』『日本書畫苑』『書道及画道』などが古典の紹介や資料の普及に寄与した。昭和初期に出版された『日本書道史』『和漢書道史』『書道講座』『書道全集』などで、書の体系化が図られていく。
書道界に押し寄せた革新の波
昭和初期(太平洋戦争が始まるまで)は、書道界にとって革新的な動きが始まった時期でもある。「現代書」が注目され、前衛書、近代詩文書、少字数書など、旧来の枠を超えた、新しい傾向の書が産声を上げた時代で、それが終戦後に開花する。
日下部鳴鶴を師と仰ぐ書家の中で、脚光を浴びたのが比田井天来で、「現代書道の父」と呼ばれている。天来は、碑版法帖を多角的に研究し、古典の書風を再現できる筆法を発見し、個性、芸術性を重視し、内面的な美意識を重んじた。線を引く方向に筆を倒す府仰法と呼ばれる方法で、古典臨書の新分野を開拓した。
芸術性を重視する比田井天来の考えは門弟たちに引き継がれ、上田桑鳩の前衛書、金子鷗亭の近代詩文書、手島右卿の一字書などの「現代書」として結実する。
上田桑鳩は1933(昭和8)年、金子鷗亭らと「書道芸術社」を設立して『書道芸術』を創刊し、「造形としての書」に関する論説を発表。「大日本書道院」、続いて「奎星会」を結成し、終戦後は『書の美』を発刊し、顔料を使った書作を試み、海外の芸術展に参加し、「前衛書」というジャンルを切り拓いた。
金子鷗亭は1933(昭和8)年、『書之研究』誌上に「新調和体論」を発表し、近代詩を書にする近代詩文書運動を起す。漢字かな交じり文の書は、戦後、近代詩文書として普及し、毎日新聞社が主催する毎日書道展に「近代詩文書」という新しい部門が開設されるほど広まった。
手島右卿は比田井天来に師事した後、書道芸術社の同人となり、一文字の書に精神を吹き込み、書を芸術の世界へと昇華させた先駆者。一字書、少字数書は漢字が持つ造形性を強調し、1~2字を抽出して書作品とする書道ジャンルである。
第二次世界大戦が始まり、国家総動員法などの国策に沿って、1943(昭和18)年に「大東亜書道会」が結成されると、書道団体は解散し、休眠状態になる。
戦後、書道団体が復興し、展覧会の開催も盛んになり、1948(昭和23)年の日展(日本美術展覧会)から、書が参加するようになった。
日展のルーツは1907年に開催された文部省美術展覧会(文展)で、その後、1919(大正8)年に帝展(帝国美術展覧会)、1937(昭和12)年に新文展(新文部省美術展覧会)、戦後の「日展」へと名称を変えながら、日本の美術界の中核と位置付けられている。
文展がスタートした当初は日本画、西洋画、彫刻の3部制で始まり、1927(昭和2)年の帝展から工芸美術が加わり、1948年の日展から「日展 第5科」が新設され、書が参加。美術界での地位を、書道が高めていく大きな一歩となった。
1948年には、現在の毎日書道展の前身となる「全日本書道展」が開催されている。1984(昭和59)年になって、第1回読売書法展(読売新聞社)と第1回産経国際書展(産経新聞社)が開催された。その後、社中展(1つの会派の同門の集まり)や個展など、さまざまな規模で展覧会活動が行われ、書家の発表の場になっている。
大手新聞社が主催する「毎日書道展」、「読売書法展」、「産経国際書展」は大規模な公募形式の書道展で、各書道団体でも公募展を実施している。これに日展を加えて、「四大書道展」と呼ばれている。
日本最大規模の書道公募展「読売書法展」を読売新聞社とともに主催しているのが読売書法会で、同会は6000人を超える役員書家が所属する書道団体。役員書家は書道団体を主催したり、書道団体に属しているが、その有力な書道団体が「日本書道院」と「謙慎書道会」だ。
明治の書道界の重鎮、日下部鳴鶴と勢力を競ったのが、約2000人の門下を擁した西川春洞で、謙慎書主人などの別号を持つ。春洞の高弟たちにより、1904(明治37)年に「謙慎同窓会」が創立され、名称を変えながら、1933(昭和8)年に「謙慎書道会」となる。
同会からは諸井春畦、豊道春海、武田霞洞、西川寧(春洞の三男)、青山杉雨、上條信山、殿村藍田、浅見筧洞、成瀬映山、小林斗盦などを輩出している。
春洞の三男の西川寧は、春洞の流れを汲む書道団体、謙慎書道会を創立し、六朝の書風を基礎とし、清新な書を表わし、金石学や書道史の研究にも力を注いだ。
仮名の書で、昭和の書道界をリードしてきたのが日比野五鳳だ。五鳳は漢字の美と仮名の美を統合した日本独自の書を目指し、清らかさと美しい品格を併せ持った芸術を目指した。素朴、実質を重んじ、清貧な生き方を貫いた。
中国や日本の古典を研究し、一字の漢字に想いを込め、文字の内容に相応しい形の書を創作する象書というスタイルの作品を創作したのが手島右卿で、「書は人間の霊知の所産である」と主張する。1952(昭和27)年に独立書人団(当初は「独立書道会」という名称だった)を創始した。
手島右卿の作品「抱牛」は1958(昭和33)年のブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に日本代表として出品され、最高殊勲金星を受賞し、書道芸術の国際的評価を高めた。専修大学教授や日本書道専門学校の初代校長を歴任し、後進の育成にも尽力した。
日本の書家として初めて文化勲章を受章したのが西川寧で、日比野五鳳、手島右卿を加えた3人は「昭和の三筆」と呼ばれている。
有力な書道団体を支える大手新聞社
謙慎書道会とともに、現在の書道界で大きな勢力を誇るのが関西、西日本を基盤とする「日本書芸院」だ。日本書芸院のルーツは大阪で1946(昭和21)年に創設された日本書道院で、1949(昭和24)年に名称を日本書芸院に改名している。
日本書道院の設立、日本書芸院の発展に力を注いだのが辻本史邑で、奈良県師範学校などの教諭をしており、1925(大正14)年に寧楽書道会を創立し、書道研究誌『書鑑』を創刊。『書鑑』は注目され、早々に部数は1万部を超え、最盛期には会員が2万人に及んだ。
古代日本の政治の中心地である大和(奈良)を誇りとし、「寧楽」は万葉仮名で記した「奈良」のこと。辻本は『漢字教育の根本的革新』(1932年)を出版し、『昭和新選碑法帖大観』全36巻、『昭和法帖大系』全15巻など古典資料を刊行し、新時代にふさわしい書の学び方を提示した。
戦後の書壇は東京を拠点とする書家を中心に形成されていたが、辻本は関西書壇の存在感を高めることに注力した。日展に「第5科 書」が1948年に新設され、書の参加が認められたが、当時、関西系の書の審査員は辻本だけだった。単身上京し、政治力を発揮して関西書壇のために奔走する。
1949年の日展第5科で、初めて特選になった関西系の書家は、炭山南木、村上三島、内田鶴雲、梅舒適の4人で、関東系と同等の地位に押し上げた。この快挙は、関西書壇が1950年代以降、飛躍的に隆盛する礎になった。
辻本史邑の門弟には村上三島、今井凌雪、原田観峰、谷辺橘南、広津雲仙、岡本松堂、森田翠香などがおり、多くの人材を育成し、関西書壇を活性化させた。
辻本に共鳴する関西の書家は「関東より3割いい作品を書く」をモットーにして精進し、日本書芸院は日本最大規模、全国的な書道団体になっていく。
各種の書道団体が創設され、書に対する考えが多様化し、伝統派と前衛派が論争するなど、書の価値観が大きく揺らいでいた時代にあって、1957年にスタートした「現代書道二十人展」は異彩を放っていた。戦後の混乱から抜け出し、『経済白書』の序文に「もはや戦後ではない」と宣言した翌年のことである。
朝日新聞社が主催する現代書道二十人展が画期的な点は、書家の数を20人に絞り、展示会場で1人当り数メートルの壁面を提供し、それ以外に制約を設けなかったこと。書家は自らの書風、作品を独創的に発表することができた。
最高レベルの書家を集めた展覧会として、評価を高めていく。会派を超えて、屈指の書が一堂に集結する展覧会は2024年に68回を迎え、出品書家は漢字、かな、篆刻(篆書体の文字を石や木などにハンコとして刻むこと)など、各分野で現代書壇を代表する人々が出品している。
書道界には、有力な書道団体が美術系と教育系、合わせて40ほどある。文化庁「地域文化創生本部事務局」は『生活文化調査研究事業報告書(書道)』(令和2年度)を2021年5月に発表している。書道が人々の生活にどのように浸透しているか、書道の役割や歴史をレポートしたもので、書道界の実態調査のため、40の書道団体に調査アンケートを送付した。有力な書道団体がどのような顔ぶれなのか理解できるので、紹介しておく。
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/seikatsubunka_chosa/pdf/93014801_05.pdf
繰り返しになるが、大手新聞社は展覧会を独自に開催し、書道団体を支援してきた。毎日新聞社は毎日書道会、産経新聞社は産経国際書会、読売新聞社の関連団体である読売書法会は関西発祥の日本書芸院と東京発祥の謙慎書道会などの有力団体を支え、密接な関係にある。
関連記事
ここから先は
¥ 1,000
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?