立川談春35周年記念公演~玉響-tamayura~ 酢豚にパイナップルが投入された夜
落語×Jロックという衝撃
2019年8月28日の夕方、私は渋谷のBunkamuraシアターコクーンにいた。「立川談春 35周年記念公演~玉響-tamayura~ 第二夜(ゲスト:なぜか尾崎世界観)」を観るためだ。
1ヶ月ほど前、たまたまイープラス(チケット予約サイト)のDMで、この公演の告知を見た。尾崎世界観率いるロックバンド・クリープハイプのチケットを以前買ったことがあったので、その記録をもとに自動配信されたのだと思う。落語とJロックのライブという不可解な組み合わせが気になったので、詳細を読んでみる。
この公演の主催は、芸歴35周年を迎える落語家・立川談春。6日間に亘って行われる各公演にはゲストのミュージシャンが参加し、落語とライブとトークが行われるという。公演タイトル「玉響」は、勾玉同士が触れ合って生まれる微かな音、その音が響くわずかな瞬間を意味する古語。落語家とミュージシャンという2つの勾玉が触れ合って、新たな響きが生まれる瞬間を創り出すというのが、公演のコンセプトだ。
ゲストのラインナップは、ゴスペラーズ、尾崎世界観、aiko(2日連続出演)、斉藤和義、さだまさし……J-POP界で存在感のあるアーティストばかり。それにしても、談春師匠と年が近そうなさだまさしや斉藤和義が出るのは理解できるが、父親と息子ぐらい(それ以上?)の年齢差がある尾崎世界観は、どういう経緯でこの中に加わったのだろうか。
プログラムを見ると、どの日も「落語→トーク→ライブ→落語→アンサーソング」という流れ。まず、アンサーソングというシステムが謎だ。
落語とライブが交互に来るという構成も、ちょっと想像できない。ライブ中はどの程度ノっていいのか。どういうテンションで落語を聴けばいいのか。このステージを見ている自分がどうなるのか、イメージが全く湧かない……チケットを買うのは結構リスキーな気がする。
でも、35周年記念公演ということは、これを逃すと同じ趣向のイベントは二度と行われない可能性大? 私は予約フォームへ飛んだ。
談春師匠の挑戦と戸惑い
シアターコクーンの座席に辿り着いて辺りを見回すと、不思議な光景が広がっていた。今まで私が行ったライブの会場には絶対にいないタイプの、上品な中高年の紳士が結構いる。会社だと課長、部長、役職のないベテラン、定年再雇用などの立場に多い年齢層。会場のハイソな雰囲気もあってか、高級感のあるジャケットを着ていたり、胸元にチーフを差していたりと、紳士のお洒落を楽しんでおられる。この年代の女性たちも当然おり、それぞれ品のある装い。そういう落語ファン・談春ファンの方々と、クリープハイプを聴くような若年層が入り乱れている。シュールだ。そんな中、アナウンスが流れ、会場の照明が落ちる。
ステージにライトが灯り、談春師匠だけが登場。ビシッとした着物姿で舞台中央の高座に正座した姿には、ベテランの風格が漂う。しかし「玉響」のコンセプトや、新しい客層と出会いたいという意気込みを語る師匠からは、伝統や既存の枠組みに縛られない柔軟性と、いくつになっても挑戦者でいようとする貪欲さが伝わってくる。
談春師匠と尾崎世界観との出会いは、コミュニティFM「渋谷のラジオ」での共演だったという。尾崎の方から、関係者経由で番組に出たいと交渉した結果だそうだ。師匠は、ラジオで共演した時の尾崎について、「ロックをやっている人はこうあって欲しい」というイメージを体現していたと振り返った。世の中を醒めた目で眺めていて、でも大した反抗ができるわけでもなく、己の中にある苛立ちを音楽に昇華しているところが。
共演後、プライベートで親交が深まり、談春師匠はクリープハイプのライブにも足を運んだ。若いファンたちが、普段は身近な人にも言えないような思いをクリープハイプの楽曲に託しているのを感じたと、師匠は感慨深げに語った。彼らのライブは、50代の男性の心にも爪痕を残したということになる……これは驚き。
しかし一方で、師匠は尾崎世界観をいまいち掴み切れていないようだった。彼のリクエストした噺が「桑名舟」だったことや、その日のステージ衣装のセレクトなどが想定外だったらしい。舞台袖にいる尾崎に「君、その格好で出るの?」と怪訝そうに質問する場面もあった。一体どんな格好をしているのか……。もやもやしている我々を残して舞台は暗転した。桑名舟について「意味が判らなくても、とりあえず何となく聴いて」と言った師匠の意図も気になる。
落語「桑名舟」江戸言葉のグルーヴを体感する
「桑名舟」は、江戸時代の桑名(現在の三重県にある場所)を舞台にした噺。桑名から海を渡って伊勢神宮に向かう人々が、渡し船の中で遭遇した事件の顛末が語られる。運悪く船がサメの大群に囲まれ、船頭は、客の誰か一人を生贄に差し出さなければ向こう岸へ渡れないと話す。生贄を決める儀式で選ばれたのは、江戸で芽が出ず関西で再起を図る講釈師(※神田松之丞のような芸をやる人)だった。講釈師は最期に自分の芸を披露させてくれと言い、客たちは彼のために台を用意してやるが、その芸は支離滅裂なものだった……ストーリーは大体こんな感じ(オチは伏せています)。
見ていて楽しかったのは、談春師匠がサメのフリをする部分だ。座布団に座った体制で少し腰を浮かせ、袖の中に手をしまい込んで(=萌え袖)ヒレのように動かす。サメが拍手(拍ヒレ?)をする部分では、両手の指先しかぶつかっていない。可愛い。
落語家は、蕎麦をすする動作やお猪口で酒を飲む動作だけでなく、サメの真似もマスターしないといけないのか。奥が深い。
講釈師の芸の場面になって、談春師匠の言葉の意味が判った。確かにこのくだりは、日本の古典にある程度詳しくないとハードルが高い。講釈の内容が、忠臣蔵とか新選組とか平家物語なんかが入り乱れてカオスになっているというのが面白みなのだが(多分)、話が高度なので条件反射的に笑うのが難しい。
ただ、意味を考えず講釈のグルーヴを味わおうと頭を切り替えると、江戸の言葉のリズムが心地良く感じられる。こういう楽しみ方もアリなのかと気付かされる。落語≒洋楽、みたいな。
談春師匠は、恐らく若い層を笑わせることを考えた結果、噺の合間に故・円楽師匠の伝説やモノマネを組み込んだ。エピソードの数々はどれもインパクト大で、モノマネは昔笑点で見た生前の円楽師匠にかなり似ていた。「判る奴だけ判ればいい」と置いていくのではなく、どんな人間でも笑わせるという強い決意で向き合ってくれているのが嬉しかった。
トークとライブ 尾崎世界観のユルさと悲哀
トークタイムになると、舞台には尾崎世界観も登場。白地に孔雀の絵がバーンと入ったアロハシャツ姿の尾崎は、控えめに言っても「カタギじゃない人」、もっと言うと「チンピラ」……談春師匠が不安になるのも頷ける。
「何なんだ、その格好⁉」「ゲストの中で、ライブのセットリスト出してないの君だけだよ」。師匠に詰め寄られても、何故か楽しそうな尾崎。言葉だけ見れば苦言を呈している印象だが、根底には相手へのリスペクトがちゃんとあることは雰囲気で判るので、二人のやり取りは微笑ましい。
談春師匠は、かつて尾崎世界観が、創作の原動力が怒りだと語っていたことに触れた。しかし尾崎からは「最近は昔ほど怒らなくなった」との答えが。怒りを音楽に昇華したり、ラジオで話すなどして笑いに変えることで、結果的に人を喜ばすことができるようになったからだという。確かにクリープハイプの楽曲には、アーティストの意向を尊重しないレコード会社やTV局への怒り、バンドが売れた途端に「売れて駄目になった」と言い出す人々への怒り、音楽番組で口パクをするアイドルへの怒りなど、多種多様な怒りが見つかるなぁ……と納得してしまう。
ライブは、舞台中央にぽつんと置かれた椅子に尾崎世界観が座り、ギターで弾き語りをするスタイル。
「上手く喋れなかったな……」「自分の声は、誰にでも好かれる声じゃないってことは、音楽を始めた時から判ってる。それでもこうして呼んでもらえることが、本当に嬉しい」。独特のぼそぼそっとしたMCを挟みながら、計5曲が披露された。
♪ 自分のことばかりで情けなくなるよ
♪ 大丈夫
♪ 風邪をひく日
♪ さっちゃん
♪ 傷つける
ドラマや映画やCMで使われた曲が一つもないことに驚く。クリープハイプを知らない人に向けた「名刺代わりの曲」が一つくらい入ると思っていたのに。どの曲でも感動させられる自信があるということか……この人もまた挑戦者なのだろう。
クリープハイプのライブを最後に見てから2年ぐらい経っていたのだが、久々に尾崎の弾き語りを前にして、彼のライブの特異性が判った気がした。どんなにバンドが売れて、立派な会場でライブができるようになっても、この人のステージにはどこか悲哀がある。「盛り上がってこーぜ!」「楽しんでこーぜ!」だけでは満たされることのない心の領域を、律儀に見つめてしまう人だからなのかな、と思った。
MCの最後に、「落語は、社会から零れ落ちてしまうような人間を受け入れてくれる場所だと思う」という言葉があった。この日のファッションのコンセプトが見えた瞬間だった。
落語「らくだ」、アンサーソング「exダーリン」
「らくだ」には、動物のらくだは登場しない。代わりに「らくだ」というあだ名の男が出てくる。江戸の人々は、身体ばかり大きくて頭が空っぽな人間のことを、大きな身体でよだれを垂らしながらぼんやり草を食むらくだになぞらえて馬鹿にしたらしい(「でくのぼう」みたいな意味なんだろうな)。
噺の舞台は、江戸の貧乏長屋。身体の大きさと気性の荒さで周囲から避けられている男=「らくだ」の部屋に、彼の兄貴分のチンピラが訪ねてくる。しかし、らくだはフグの毒にあたって死んでいた。チンピラは、偶然やって来た屑屋(※江戸の廃品回収業)の男に、長屋の人間から金を集めてらくだの葬儀をしろと迫る。しかし、らくだの暴力に長年苦しんできた屑屋や長屋の面々も、家賃の踏み倒しにうんざりしていた大家も、当然葬儀代を渋る。チンピラは大家を脅して葬儀代を取り立てようと、らくだの遺体を動かして躍らせるという罰当たりな行動に出るのだった! ……ストーリーは大体こんな感じだ。
伝説になるほど喧嘩が強かった男が、フグに当たってあっさり死ぬ。誰よりもらくだのことを思っているチンピラが、らくだをきちんと葬り出してやるために取った行動が、結果的にらくだの尊厳を踏みにじっているようにしか見えない。運命の皮肉や、不器用だけど憎めない人間たちの引き起こす騒動が、ブラックな笑いへと昇華されてゆく。聴いていて、前例のない爽快感を覚えた。
そして、「あんな奴のために金なんか出したくない」と言っている人々も、心のどこかで金を出す理由を探しているような節があるのも印象的だった。迷惑をかけられたことへの怒りもありつつ、身体のことで周囲から散々馬鹿にされてきたらくだへの憐れみもちゃんと持っていることが、台詞や態度の端々に現れる。半端者への愛……尾崎世界観の言葉と、チンピラファッションが思い起こされる。
噺が終わり、アンサーソング「exダーリン」の弾き語りが始まった。歌の中では、恋人と別れた主人公が、別れた相手の癖、吸っていた煙草の銘柄、飲んでいた酒、好きだったアニメのキャラやAV女優など、どうでもいいような恋の断片をなぞってゆく。一緒に過ごした時間の中のほんの些細なことが、失った途端にかけがえのないものに思えてくる。
相手がいなくなるなんて想像もしていなかった頃は、不満ばかりが目に付いて、素直になれなかった。そんな歌の気分が「らくだ」と重なった。
不思議な三本締め、酢豚×パイナップルのような余韻
アンサーソングが終わると、談春師匠も姿を見せた。師匠のイベントの最後はいつも、演者と客が一緒に三本締めをするという。
「お手を拝借……よーッ」パパパン、パパパン、パパパン、パン。会場は拍手に包まれ、閉幕となった。
みんなで三本締めをした割に、残ったのは一体感よりも楽しい違和感だった。普段絶対に出会わないような人たちと、こうして同じ空間で、同じ舞台を共有している不思議……何だったんだろう、この時間は。誰かとまた会うことはあるのかな。
落語は奥が深いな。たまに新宿末広亭に行ったりするけど、また行きたくなってきた。あの三本締めは、私にとっては終わりというより始まりの合図のようだ。
この日の違和感は、初めてパイナップル入りの酢豚を食べた時の感じに近かった。中華料理なのに、南国のフルーツ入れんのか……? あ、でも意外と合う。パイナップルの爽やかさが、豚のギトギトした脂を抑えてくれるのか。「邪道だ!」という声もあるが、私はありだと思っている。
そして、パイナップルを入れるという挑戦そのものが尊いとも思う。カレーうどんも、たらこスパゲッティも、そういう挑戦の賜物なのだから。
否応なくやってくる別れのやりきれなさと、「好き」「嫌い」の二択で片付けられない人間関係のままならなさが、「らくだ」と「exダーリン」の相乗効果によって、心の奥深くまで滲みてきた。いつ離れ離れになるか判らないのだし、目の前にいる人と、丁寧に関わっていかなければ……でも単なる都合のいい人になってしまうのも嫌だな……。余韻に浸りながら、駅までの道を歩いた。
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