#14 祖父と私
私は小学生まで、母方の祖父母と同居していました。私の父は、サザエさんで言うと「マスオさん」でした。
前の記事で、姉が父方の曾祖母に可愛がられて育ったと書きましたが、
私は姉とは違い、父母、どちらの家にとっても、どこに行っても「2番目」だったので、可愛がられ方としては、それなりではありました。
個性を認めてくれたのは祖父
そんな中でも母方の祖父は、私のひょんな才能を見出してくれて、気にかけてくれていてくれたんだろうな、と、今は思います。
祖父は、第二次世界大戦後、シベリアに抑留され奴隷として働いた後、無事帰国した方で、昔気質の人で、家の中ではだいたい黙っているような、人に笑顔を見せることもないような人でしたが、
私がまだ、2歳くらいの時に、音程を外さずに歌をしっかり歌ったのを見て、
「この子は音楽ができるぞ、絶対に伸ばしなさい」
と言い、3歳の頃にはピアノを自腹で買ってくれたのです。
ピアノをもらった私は、早く習いに行きたいな♪と思いながら、勝手に左手で伴奏をつけて、両手で弾き始めるという、離れ業を繰り広げるのでした。
学校の勉強だけが好きなんじゃない
小学生の頃の私は、勉強も確かにできたので、父と母は塾に行かせたりして、勉強をさせることしかしなかったのですが、
私は、そういうんじゃなかったんですよね。
例えば。
お米を作りたくなって、母親の目を盗み、お米を5粒くらい拝借し、水につけて「芽が出るかな?」と様子を見ていたら、母親に「そんなんでは芽は出ない」と言われました。
母親は、
「お米が作りたい!」
とお米作りに集中してほかのことを全く聞かない私を見かねて、もみ殻のお米を購入してきてくれて、それを水につけていると、祖父がやってきて、
「何がしたいんだ?」と聞くので、私は
「お米育ててみたい!」と言うと、
祖父は、知り合いの農家さんに頼んで稲の苗をもらってきてくれました。
そうやって、祖父とお米を育てたこともあります。大宮の住宅街の庭で。
まあ、今の若い方からしたら、「ネットで調べろよ、いくら小学生でも」と思うかもしれませんが、私43歳、当時は昭和です。これだけのことよくまあ、やったほうなんですよ・・・。
祖父が見ていた私は、今、なりたい私
祖父が見ていてくれた私の心の中の声に、私自身が近づいて、私自身が認めてあげられる人生を送れているのか?と思ったら、
なんだか涙が止まらなくなってしまっています。
祖父が見てくれていた私は、今でも「こういう生き方したいな」「私はこういうことが好きだな」という私なんです。
少しネガティブに書くと、
「私、どうして途中で自分らしく生きることをやめたんだろう」と思ってしまうような。
いえ、今も、私は私以外の何者でもないですし、十分に自分らしく生きていますが、まだまだ、自分で自分を認めてないのかもしれない、と、
グルグル回っています。
もう少し、自問自答をしていくことにお付き合いをしてくださる方は、また読んでみてくださいね。
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