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#17 クラス委員長、いじめのターゲットに 【7年間の不登校から大学院へ】



 小学校3年生で不登校になり、そこから7年間ずっと不登校生活が続きました。
なんとか学校に通えるようにと、家族も先生も、私のために何度もいろんな方法で助けようとしてくれていました。

でも小学校低学年で不登校になり、さらには中学校で2度目の不登校になった自分。

高校では、入学からまずは1年間通うことができて、このままなんとか卒業まで日々を繰り返して生きていけば、より大きな選択肢が広がる領域に抜け出れると思っていました。

だから、高校では、3度目の不登校には絶対にならないと、なりたくないとずっと考えていました。


中学校で2度目の不登校になった、あの日を絶対に繰り返したくはない。

もうこれ以上、家族に迷惑も心配もかけたくない。

その思いは揺るぎませんでした。


だから、あのときの自分は逃げ道すら見えなかったのかも知れません。


絶対に耐え抜いてやる、絶対に負けない、絶対にもう逃げない。


でも、いま振り返ると当時の私は少し危うかったのかもしれません。


もしかしたら、ほんの一歩手前だったのかも、と思うときがあります。


大人になって26歳になったいま、当時の自分に伝えたい言葉は「ありがとう」です。


「なんとか、生きていてくれて、ありがとう」





 高校2年生
高校2年生になった。1年生からのクラス替えで新しい子たちにも出会って、新しいクラスメイトとも割とすぐに仲良くなれた。


高校2年生では担任の先生も変わり、私はなぜか「クラス委員長をやってくれないか」と言われ、クラス投票でそれが決定した。

みんなクラス委員長をやりたくなかったからか、自分以外の誰かだったら良いや、強いて言えば○○(私の名前)でいいんじゃない? というぐらいのノリと勢いで決まった。


大した仕事は何もしていなかったけど、集会や行事のときは何かと「ほら、委員長!」と背中を押されて、みんなの前に立つ機会が多くなった。すると、私は自然と学校に慣れ始めていたようだった。でも私は正直、学校に通うことの初心者だったから、そんなふうに慣れて少しずつ調子に乗った私は後々に痛い目に合うことになる。

また、この時点での成績は学年で中の下、特進クラスではない子たちよりも成績は下回っていた。毎日、学校の授業を受けて宿題をして、週2回の部活動に参加して、週1回の塾に通う。それ以外で勉強することなどあまりなく、放課後にもブラブラと遊んだり、特に何を頑張ることもなくただ高校生活を過ごしていた。


私は一体、学校生活のどこに憧れていたのだろう、ずっと待ち侘びていた学校に行くこと。授業に出席できることが嬉しくて、感動した、あの気持ちを私は忘れてしまったのかもしれなかった。




体育祭とドッジボールでの出来事

 高校2年生になってクラス替えなどにもちょうど慣れてきたころ、体育祭の季節になった。

「クラス委員長なんだし、みんなに何か作ったら?」という提案をクラスの副委員長からされて、私は体育祭に向けて、クラス人数分のそれぞれのイニシャルが入ったストラップを作ることになった。

自分のお小遣いで材料を買いに行って、体育祭まで毎晩チクチクと一人でクラス人数分を作成した。裁縫が大の苦手だった私は、夜中に何度も針を指に刺して、眠気と戦いながら毎晩せっせと体育祭当日までに頑張って作った。


それを当日の朝みんなに配ったのだけれど、「わ! すごい! ありがとう」と純粋に喜んでくれる子もいれば、「……ありがとう」みたいに受け取る子もいて、この頃から徐々に「あいつ、リーダー気取りでうざい」みたいに裏で言われていることに気がついた。


そして体育祭が終わったあたりの頃、体育の授業でドッジボールの試合があった日から、私を取り巻く雰囲気は一変してしまった。



原因は本当に些細なことだった。

ドッジボールを行う際にAの意見とBの意見があって、私は当初Aの意見に賛同していたのに、違う子の意見を聞くうちに「それもそうだな」と気が変わってBの意見に切り替えた。


するとAの意見を言っていた子は「裏切られた」と感じたようで、ドッジボールが終わって教室に帰ってきたとき、その子は自分の仲良しグループの子たちと一緒になって私に向かって怒っていた。

最初は教室で怒って「ムカつく!」と言っていたのだけれど、それからすぐに「ちょっとトイレ行こ」とグループごと教室を出て行った。だから私も「あぁ、いま私の悪口をひたすら言っているのだろうな」と思いながらそのことを知っていた。


たしかに、私も意見を途中で変えてしまったから、怒られてもしょうがない。でも改めて謝るほどでもないと判断した。体育の授業でやったドッジボールの、そんな些細なことで関係が一変すると思っていなかった。


明日は休みだし、また週が明けたら怒りは覚めているだろうと思ってあまり気にしなかった。もしかしたら、あのとき相手にちゃんと謝るべきだったのかもしれない。でも、相手はトイレに行って帰ってこないまま下校時間になったので、私は、そのまま帰ってしまった。


 月曜日の朝、いつものように登校して教室に入った瞬間、雰囲気が変わっているのを真っ先に感じとった。

もうこのまま帰りたい、と本能的に察するような雰囲気で、これから始まる1日にとっさに恐怖を感じた。ドッジボールの件で私に怒っていた子とそのグループが登校してくると、その雰囲気は一層濃くなり、口を開けば私のことを言っている言葉が聞こえてきて、私に向けられたヒソヒソ声が一日中続くようになってしまった。

終わった


と思った。


それから日に日に悪口はエスカレートしていき、それまではヒソヒソ声だったものが私の背中に向かって大きな声で言われるようになった。

授業で先生から当てられて回答を間違えると、それすらも即座に馬鹿にするネタにされ、その悪口の内容は容姿や性格といったものにまでどんどんと強くなっていた。


トイレで水をかけられるとか、直接なにかされるようなことはなかったものの、くる日もくる日も一日中、自分に向かって放たれる苦しい言葉の力が、私の心に水をかけてふやかすようにどんどんと弱くしていった。


スマホが普及し始めた当初だったこともあり、SNSを通して、私の知らないところで話が進んでいっていたようだった。容姿のことでも悪口を言われていたため、教室で「カシャ」というシャッター音が恐怖だった。


SNSで拡散されるのではないだろうか、私からは確認することのできない鍵垢で、グループLINEで、写真を貼られてネタにされてしまうのだろうか。自分がいないところ、自分が把握できないところが、ずっと恐かった。

主語も宛名もないSNSの投稿文。でも確実に私のことを言っているのだと、SNSでの投稿が目に入った瞬間に血の気が引いて頭を抱えることが何度もあった。頭の中がそれでいっぱいになってしまい、如何にもこうにも抜け出せなくなるぐらい、家にいても、教室以外でも、ずっと悩んでしまった。



「なにあいつ、うざ」
「月曜日の朝、どんな顔してるかな、わら」
「もう、バイバイ(笑)」



そんな投稿文をSNSで目にしてしまった週末。
家にいるのに、ずっとそれらの文字が頭から離れなかった。
確認するように何度も同じ投稿文をチェックしてしまう。自分以外に向かって放たれた言葉ではなかったか、違うことに対して放たれた言葉ではなかったか、それ以降になにか呟いてはいないのか。どうか、どうか。
でも何度、前後の投稿文を確認して考えてみてもやっぱり私のことだった。


最も安心できる場所の家でも、そんな感情に支配されて、逃げ場がない感覚だった。

クラスメイトからのそんな文字たちが頭のなかを駆け巡り続ける。無防備な状態で見てしまった文字が脳裏にこびりつく。つい頭を抱えてしまう。ため息が出る。また、頭を抱えたまま、学校に向かう。


教室では実際にどんな言葉を投げ掛けられたのか、ここでは覚えている範囲でも書けない。もうその言葉を自分に見せてあげたくない。

うざい、ブス、キモイ、存在自体が偽物、○ね


言葉の力は不思議だ。

毎日ずっと悪口を言われ続けてしまうと、相手はあまり気にしていなくても、言われるこちらは本当に心がそうなっていってしまう。

私は、授業中に悪口を言われないように、休み時間に写真を撮られないため、髪の毛をボサボサに伸ばして顔が見えないようにして、マスクは手放せないようになって、猫背になっていった。

自分の存在を消し去るかのように、自分はここにいないのだと思わせるかのように、自分で自分を小さくしていった。

自分で自分の存在を消そうとしていた。



放たれる言葉を真に受けては、その言葉が表現したように自分はそんなに醜く、嫌われてしまう人間なのだと痛感させられて、実際に当時の写真に映る自分は本当に暗くて表情がなかった。


「ブスが鏡なんか見ても無駄w 鏡を見るなw」「日焼け止めなんて塗るなw」「今日もキッモw」私がトイレで手を洗っていると、背後でそんなことを大声で言い放ってトイレから出ていく子たち。


毎日、朝から夕方までずっとそんな言葉を放たれ続けて、しんどかった。

学校がしんどくて、毎日がしんどくて、自分のことが本当に嫌いで、自分のことを一番自分が嫌っていた。もうそうなると家族も、塾のE先生すらも疑うようになってしまって、この人も本当は自分のことが嫌いなのだ、仕事だからこんなふうに接してくれているだけなのだ、裏では私のことを悪く言っていて嫌っているんだ、なんてどんどん周りの人を勝手に悪い人へと変換していった。


自分の世界が狭く感じて、窮屈で、逃げ場がないような感覚で、今から思うとそんなちっぽけな世界以外に、こんなにも広い世界がどこにでもどこまでもあるよ、と思う。
けれど、当時の自分にとっては、目の前のその世界が全てで、自分が生き抜くための道の全てのようだったのだ。



「学校を休む」という選択肢


悪口を言われるしんどい日々のなか、私はコンプレックスまみれになった。

自分のことを自分で責め続け、鏡のなかの自分を睨み続けては、自分の顔面を力いっぱい叩いたりしていた。自分の頭を何度も自分で本気で殴って、髪の毛を力の限りひっぱったりした。体にも自分で殴ったアザがあった。そんな日々を過ごしながらも「じゃあ学校行くのやめる?」と自問自答しては「それだけは絶対にしない」と揺るぎなく答えた。

「そんなの、負けたことになる」と歯を食いしばって、毎朝登校した。



でも、そんな日々がかれこれ半年以上続いたある朝、目覚ましが鳴って起きた瞬間から天井を一点に見つめたまま、「しんどいなぁ」としか思わなくなった。

「学校に行きたくないな」「もう、いいか」「こんなにも頑張った、たくさん迷惑をかけた」と思ってしまう日が何日も続いたことがあった。


そんなときには必ず、「2度も不登校になった自分はやっぱりダメなんだ」という気持ちがフラッシュバックしてきて更なる拍車をかけた。




「どうして?」

ずっと自分に向けていたその言葉。


「どうして学校に行けないの? どうして学校に来れないの? どうして、みんなにできることが出来ないの?」

「……どうしてだろう。逆にみんなは、どうして出来るの?」


「どうして?」

私もずっとそう思っていた。

自分に聞いてみても、返事はなかった。自分でも分からないのだ。



「……どうして、迷惑と心配ばかりをかけてしまうんだろう」

「……どうして、生きるのが下手くそなんだろう」

「……どうして、私は昔からずっとこんなに生きづらいんだろう?」




当時、自分がそんなふうにクラスで言われていることを一切誰にも言わなかった。その判断が正しかったのかどうかは、今となっては分からない。
もしかしたら、ヘルプミー! と叫んだほうが良かったのかもしれない。


でも、どうしても両親にもうそれ以上に心配をかけたくなくて、一切なにも言わなかった。そんな素振りすら家では見せないようにしていた。
言えなかった。言えるわけがなかった。だって、言いたくなかった。

自分の子どもがそんなふうに言われているのを知って、一番傷つくのは誰よりも両親だと思ったから。

自分は傷ついても、両親にはこれ以上傷ついてほしくなかった。
家族が他の誰よりも何よりも、世界中で、宇宙で一番好きだから。



だから一切言わない、見せない。3度目の不登校なんかにだって、絶対になるものか。そう覚悟を決めていた私は、もはや「学校に行かない」という選択肢は頭のなかになかった。




前に遮るものがない少し高いところに制服姿で立って、自分が今ここから前に倒れたら、どうなるんだろうなんてことを、その場に立ってじっと考えていたことがある。あれは登校前の朝だった。そんなことが脳裏によぎるのはいつだって朝だ。


1日のスタートで、学校に行かなければならない朝だから。
大人になるまで、永遠のようにひたすら続く朝だから。

学校って、いったいなに?


下に見える地面に透かして見ていた制服のローファーのつま先を今でも覚えている。あのときの日々は私の心にやっぱり爪痕を残した。いまでもあれらの日々が重しとなり、自分の足枷になっていると感じる時がある。


でも、それは今から何度だって変えられる。変えていける。やり直せる。



当時の自分に、言ってあげたい。叫んで伝えたい。


何度でもやり直せる。
だから、それまでどうか、なにもしなくてもいいから、とりあえず、生きていて。

死なないで、生き続けて。
そしたら、生きていたら、きっと会えるから、会おう。
だから、そんな奴らのために死んでやるな。

自分を苦しめるな、自分を追い込むな。

楽しめ。笑え。

無理と思うなら、逃げろ。

なにも考えずに、生きるために、逃げろ。

何とかなるから。何とかなるから。

生きているだけで素晴らしいのだと。だから生きて。




あれから数年が経って大人になった君は、もしそこで終わっていたら会えなかった人たちにたくさん出会う。

光あふれる人たちに出会う日々が多くある。

自分の素晴らしさに気づける日がある。

世界の広さを知るときがある。

自分の世界が小さく見えるときがくる。

学ぶ楽しさを知る日がある。

夢を語る楽しさを知る。

「生きる」ってこんな素晴らしいことだったのかと、「生きていて良かった」と感動する日がある。

出会えて良かったと涙する人がいる。

他の誰かのために笑ったり、涙したり、力になりたいと純粋に感じるときがある。

美しい風景に言葉が出ないほど感動する日がある。

自分を愛せるのは自分しかいないと気がつくときがある。

自分が許す以上に、許されていることを痛感するときがある。

こんなにも美味しいものがあるのかと、ほっぺたが落ちそうになる日がある。

自分が思っていた以上に、愛されて、大きな愛に包まれていたのだと気がつくときがある。

歌や歌詞の本当の意味を受け取って心ふるえるときがある。

あのとき流した涙の本当の意味を知る日がちゃんとある。

他人の一生懸命な姿に刺激をもらうときがある。

夜風が美味しいと感じる日がある。

芸術の美しさに見惚れることがある。

いつでも童心に返れるのだと知る。

みんな違うから、みんな良いのだと知る。

異なる楽器があるからこそ、ハーモニーが美しいのだと知る。

自分にしか出来ないことがもし見つからなくても、自分だからできることがあったのだと気がつく。

人と違う生き方も良いものだと思える日がある。

自分の弱さ、儚さ、小ささは全て他人も持っているのだと知る。

推しからのファンサに興奮で息が止まることを知る。

知らないことがたくさんあるのだと知る。

ちっぽけに思う夜が、起きたくない朝が誰にでもあるのだと知る。

そこで、完全な人間など存在しないのだと、安堵する。

だから生きていくのだと、生き続けていくのだと思う。

自分を許して、初めて他人を許せるのだと気づく。

生きている限り、何度でもやり直せるのだと思える日がくる。

時代が変われば、人々の考えが変わるのだと実感する。

そこから、目の前のことですら、不変なことなど一つもないのだと、また安堵する。

それならば思いのままに生きて良いのでは、と思い始める。

自分にも何かできることがあるのではと思い、この文章を書き始める。

書くうちに、一人でも多くの人の心が軽くなれと願うようになる。

誰にだって光あふれる未来があるのだと言ってあげたくなる。

だからどうにか死ぬな、と心の底から伝えたくなる。

そして、その言葉に過去の自分が救われていることを知る。

そこでこれらすべてが、もしあの時に違う選択をしてしまっていたら、知り得なかったことだったのだと改めて気がつく。

だから伝えたかった。私の物語を誰かに。

私にとっては過去の話が、どこかの誰かにとっては「今」かもしれないから。

"My story for you"



輝く未来のために、その光あふれる魂を絶やすことなく、信じて習え。

いつか飛べるかもしれないから。

もし飛べなくても、それはそれで良いから。

習ったこと、学んだこと、抱いた感情、経験は誰にも奪えない傷つけられない。

繰り返す日々のなかですっかり忘れてしまったのなら、どうにか思い出して。

今まで辛かったね。息苦しかった世界が変わってきている。

私たちの時代がきっとくる。

風の朝に、笑え。

心を軽く、楽しめ。

Enjoy!!







……あとがき。自分の一番弱い部分、隠したくて、誰にも見せたくなかった過去を詳細に書いてシェアすることに正直とても迷いました。でも、弱さが強さなのだと信じて、この文章を書きました。ありのままに書いたことで、それで少しでも救われた気持ちになる方がいたら本望です。

いつも「スキ」を届けてくれるそこのあなた。いつもありがとうございます。


 次回は #18 劣等感を燃やして上昇気流で舞い上がれ【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。

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