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「翻訳家」三島由紀夫

未読だったゲーテの戯曲を読もうと、図書館で全集を借りてきて読み進めているのだけど、『プロゼルピーナ』という戯曲(独白劇)を三島由紀夫が訳していた。ドイツ文学の専門家でもない三島がなぜこの戯曲を翻訳することになったのか、経緯がちょっと気になる。

このゲーテ全集が刊行されたのは昭和35年なので、三島35歳のときの訳業になる。昭和35年というと、『鏡子の家』や『宴のあと』の頃で、前者の不評や後者の裁判沙汰などで、それまで順風満帆だった三島のキャリアにようやく影が差してきた時期である。また、増村保造監督の『からっ風野郎』に主演して「映画俳優」としてデビューした年でもある。なかなか心身の落ち着かない多端な生活を送っていたと思うのだけど、そんな中で、なぜ三島は『プロゼルピーナ』の翻訳を引き受けたのだろう。

本業と離れたところで、さして重要でもない、一般には知られていないゲーテの戯曲の翻訳をすることは、一種の知的な息抜きみたい意味合いもあったのかもしれない。

ちなみに「プロゼルピーナ」とはギリシャ神話のペルセポネーのドイツ語名で、豊饒の女神デメテルの娘である彼女は、冥府の王ハーデスに見初められ強引に冥界へと拉致され冥府の女王となる。5頁ほどの掌編であるゲーテの『プロゼルピーナ』は、冥府へ拉致されたばかりでハーデスの妃となることをいまだ拒んでいる時期のプロゼルピーナ(ペルセポネー)の嘆きを、彼女の独白の形で歌ったものである。

冥府で永劫の苦しみを課されている、タンタルスやイクシオンやダナオスの娘たちの姿に同情するくだりは、「地獄を見た女」として後に三島が論じることになる謡曲『大原御幸』の建礼門院の姿を少しばかり思い出させる。

 ああ、流れる水を掬び
 タンタルスに
 心ゆくまで妙なる果実を味わわせてやりたい!
 哀れな老人!
 その身をこがす欲念ゆえに罰せられ!――
 さてはイクシオンの車に手をさし入れ、
 彼の苦患を断ってやりたい!
 さあれ私たち神々といえど
 永遠の責苦を止める術はない!
 見る身にも見られる身にも情けなや
 哀れなダナオスの娘たちの骨折りも
 そこに立ちまじって眺めるばかり!
 桶はいつまでも空ろのまま!(ゲーテ『プロゼルピーナ』三島由紀夫訳)

『プロゼルピーナ』には、冥府の石榴の実を食べたことにより地下世界の女王となることを運命づけられるモチーフなど、ネクロフィリア(屍体偏愛)的な雰囲気が濃厚に漂っているが、三島は『大原御幸』などお能の本質もまたネクロフィリアにあると村上一郎との対談で指摘している。そしてネクロフィリアのモチーフは、『豊饒の海』で三島自身大々的に展開することになる(本多の「転生」にかこつけた清顕への執着は一種のネクロフィリアといえるだろう)。また、冥府からの訴えという構図は『英霊の聲』とも重なる。いささか強引にこじつければ、『プロゼルピーナ』の翻訳も、一見、片手間仕事のように見えながら、三島のライフワークへと連なる響きを帯びている――といえないこともない。

他にも三島が翻訳した作品はあるのであれば、読んでみたい。

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