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『草枕』論1:ラカンの三界と漱石の智情意

ラカンの三界とは言うまでもなく想像界、象徴界、現実界です。

漱石の智情意は理性と感情、意志の三つです。

これがどのような関係にあるのか関係ないのか多少の違いはあるでしょが対応を考えてみたい。

象徴界は理性

「対象a」は感情

想像界は非人情

現実界は意志

にみごとに対応しているように見える。

解説は『草枕』を読んでもらえばすべて詳しく書かれている。

というわけには行かないのでまず非人情とは感情はどう違うのかというと。

漱石は感情から人情を引いて残った部分が非人情でラカンの想像界とかんがえられる。

漱石は「住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画(え)である。あるは音楽と彫刻である。」という。

だから想像界とは具体的には詩とか画、音楽、彫刻でありイメージとか言葉で表現できない意味の世界である。

なお漱石は次のようにいう。

「こまかに云(い)えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも璆鏘(きゅうそう)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起(おこ)る。丹青(たんせい)は画架(がか)に向って塗抹(とまつ)せんでも五彩(ごさい)の絢爛(けんらん)は自(おのず)から心眼(しんがん)に映る。ただおのが住む世を、かく観(かん)じ得て、霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を清くうららかに収め得(う)れば足(た)る。この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色(むしょく)の画家には尺縑(せっけん)なきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点において、かく煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)するの点において、かく清浄界(しょうじょうかい)に出入(しゅつにゅう)し得るの点において、またこの不同不二(ふどうふじ)の乾坤(けんこん)を建立(こんりゅう)し得るの点において、我利私慾(がりしよく)の覊絆(きはん)を掃蕩(そうとう)するの点において、――千金(せんきん)の子よりも、万乗(ばんじょう)の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ)よりも幸福である。」


そこには交換法則は存在せず損得とか衝突、矛盾はなく自由無碍の世界をさすから言語は住めない。

感情から人情を引いて残った部分が非人情で詩とか画、音楽、彫刻であり。

漱石はさらに詩とか画、音楽、彫刻から言葉や画、音を引いた世界だという。

詩とか画、音楽、彫刻から言葉や画、音を引いたら「空」の世界になるという。

それは「煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)」した、生じず滅せずの『維摩経』の「不同不二」の世界でもある。

「この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色(むしょく)の画家には尺縑(せっけん)なき」という。

だから「心眼(しんがん)に映」って「観じ得る」だけの想像界というのです。

ここで漱石が詩とか画、音楽、彫刻のグループから小説を入れていないところに注目してほしい。

小説は言葉でつくられた虚構ゆえ象徴界であり想像界ではないのです。

漱石の考える象徴界は次回にします。

なを漱石がほとんどラカンと同じ考えを持っていたことは興味深いところです。

それでは何故ラカンにこだわるのか複雑な小説や人間世界を単純に理解できるからです。

そして人間のコントロールできる領域と出来ない領域が解れば悩むこともないのです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


引用参照は青空文庫です

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