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龍神考(29) ー「田」が示す天孫降臨前史ー

天孫と天孫降臨の二面性

 太陽神天照大御神の御孫、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)は春に日照時間が長くなってエネルギーを増してくる「春の太陽」=「春の日」=「春日」猿田彦神は雷光で天孫に降臨の道筋をお示し雷=「申」の神、と自然崇拝の観点から解釈してきました。

 これが春日大社の勅祭「春日祭」の別名が「申祭」であり、かつては旧暦二月の申の日に行なわれていたこと、猿田彦神が春日の地主神として祀られていることの信仰思想上の背景にあると考えてきました。

 つまり「春日祭」=「申祭」は特に天孫降臨に関係の深い祭典だと言えます。


 そう考えることによって、天孫降臨の道案内をされた雷神の猿田彦神が地主神である春日に、大国主命の国譲りという天孫降臨の地ならしをされた雷神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)が後から来臨された、春日大社創建のきっかけを神話的に解釈することが可能になりました。

・天孫=太陽神の御孫=日照時間が長くなっていく春の日

・猿田彦神=天孫に「申(=雷光)」で降臨の道筋を示された雷神春日の地主神

・武甕槌命=天孫降臨の地ならしをし、鹿島から雷鳴を轟かせ春日に来られた雷神

 
 さらに前回は、「竜」と「電」の成り立ちを調べ、下部の「日+乚」=「申」=「雷光」であることを知り、以下の点に気づきました。

・「乚」=隠す/=「乙」=幼い・若い→「日+乚」=五柱の随神に守られた天孫

「日+乚」=「申」=「雷光」

・「日+乚」→猿田彦神の「申」に沿って降臨される天孫→天孫と「申」の一体化

「立(=即位)」+「日+乚(=天孫/=雷光=申)」→「竜」→「天孫降臨」

・広義の「天孫降臨=竜」=歴代天皇の皇位継承→天皇のご尊顔=「竜顔」の由来


 そして、天孫と「申」が一体化した「天孫降臨」=落雷による雷火が人類に火の使用を可能ならしめ、人類が他の動物と決定的に異なる存在にした点に思い至り、以下のことに気づきました。

・天孫の降臨先=「高千穂」=たくさんの高木が穂先のように並ぶ状態

太陽神天照大御神と高木神=高御産巣日神を祖とする天孫(春日)は雷光に乗る

雷と一体化した天孫(春日)の降臨先(=落雷の対象)=高木→落雷で高木に雷火→人類による火の獲得へ

天孫と結ばれた木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ=桜の女神)は一夜で懐妊燃え盛る産屋三つ子を出産落雷の一撃で桜に発生した雷火が三本の火柱に

・天孫と桜の女神の三つ子=火明命(ほあかりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)

・天孫=雷の場合の三つ子→落雷で桜に発生した雷火が三分される状態?あるいは火が明々と立ち昇り、勢いを増し、火の粉が飛ぶ様?

・天孫=春の太陽の場合の三つ子→灯明形の桜の蕾、勢いよく開いた桜花、火の粉のように遠くへ飛んでいく桜の花弁


「天孫」=「春の太陽」が「申=雷光」に沿って降臨されたことを自然崇拝の観点からこれまで考察してきましたが、それは「天孫」と「天孫降臨」が持つ二面性に目を向けることになってきました。

・「天孫」=「春の太陽」の側面→「天孫降臨」=日照時間が長くなっていく春の陽光/太陽の周波数がDNAを修復する作用

・「天孫」=「申=雷光」の側面→「天孫降臨日照時間がくなっていく」=人類に火をもたらした落雷雷鳴によるシューマン共鳴が細胞の損傷を癒す作用


 こうしてみると、雷神武甕槌命による天孫降臨の地ならし→雷神猿田彦神による天孫降臨の道案内という日本神話の展開が自然界の摂理に沿ったものであることが一層明らかになってきます。


 ここまでの過程で「天孫」に雷神的性格も見い出してきましたが、天孫邇邇芸命と雷神武甕槌命と雷神猿田彦神の三神はもちろん同一ではありません。

 しかし異なる神々が一緒になる、共同でお働きになるような場合は、その神々の間にある程度の共通性があり、お互いに性格=神徳が似ていることが、少なくとも日本の信仰思想の特徴です。

 雷神武甕槌命が雷神猿田彦神が先住の春日に来臨されたのも、ともに天孫降臨に貢献した雷神という共通性があり、それゆえに猿田彦神への従前の信仰が武甕槌命への信仰に継承されていった「承前の原則」が思い出されます。

 そして、「春日祭」の別名が「申祭」とされた背景も、「春日祭(天孫祭)」≒「申祭(=雷祭≒武甕槌命祭≒猿田彦神祭)」と受け止めると、一層深く理解することができます。

 そこで今回は、天孫≒猿田彦神≒武甕槌命という関係性を念頭に話を進めていきましょう。

狩猟と農耕の相補性を示す「田」

 まず「天孫降臨」が「竜」の一字に象徴されることに気づくきっかけとなった「竜」の下部「日+乚」が「申=雷」でもある点に再度注目しました。

「雷」は空を走る電気とも言えますので、「電」と「雷」を比較すると、「雨」が共通し、下部の「申(=稲妻)」=「日+乚(=天孫、春日)」と「田」も同じか類似のものであることが窺えます。

 ここで、幼少の頃から知っていて当たり前のような「田」について調べてみると大変興味深いことを知りました。

「田」「区画された狩猟地・耕地」の象形「狩猟・田畑」の意味だそうです。


 考古学的調査・研究の発展のおかげで、縄文時代にも農耕が行なわれていたことが指摘されるようになりましたが、20〜30年くらい前までは縄文=狩猟・採集、弥生=農耕の時代と単純に区分され、文明のあり方として対照的というよりむしろ対立的なニュアンスで語られることが一般的だったような記憶があります。

 縄文時代の人骨からは戦死の形跡が見られず、弥生時代になると戦死者の人骨が増えるとし、農耕によって富の集積が可能になって争いが増えたとか、渡来民族によって征服されていったと解釈し、神武天皇に始まる皇統や大和朝廷を渡来民族による征服王朝として、「先住の被支配者の視点」から批判的に描くものが流行ったようにも思います。


 しかし冷静に考えてみると、戦死した縄文人がいなかった(あるいはごく少数であった)ことは、渡来人や弥生人に殺された縄文人もいなかったか、あるいはごく少数だったことになるはずです。

 それどころか、日本史的に言えば、弥生=農耕時代の象徴的な文字「田」は縄文=狩猟時代に由来していたのです。

 すなわち縄文→弥生の移行は、渡来民族の征服による文明の断絶ではなく、縄文時代の農耕の受容・普及と漸次的な弥生への移行を「田」は暗示しているのではないでしょうか?


 私自身は狩猟はしたことがありませんが、若い頃に関心を持ち、ネットで日本や海外の情報を調べていた時期があり、それらの情報に触れて強く感じたのは、狩猟と農耕の対立性ではなく、相補性です。

 定年退職後に福岡県内のある山の麓に別荘を買って、米や野菜、果物を作っていた知人からも、山に棲む鳥獣類からの被害が予想外に大変そうな話を聞きました。

 現代では田畑を電線で囲ったり、檻も進化していますが、そんな技術がなかった昔は、鳥獣対策がどんなに大変だったろうかと想像を絶するものがあります。

 農耕の収穫を安定させるためにも狩猟は必要であり、両者は相補関係にあるとするのが自然の実態に即した見方だと思います。

 尤もここで言う狩猟とは、ただ角や牙を飾り物としたり、獲物の数や大きさを競うために動物の命を奪うスポーツハンティングとは違います。

 また、狩猟より農耕の方が食糧生産が安定的、効率的だから、時代とともに狩猟から農耕へと生産活動の重点がシフトしていったのだと想像しています。

 すると、縄文vs弥生という見方は不自然であり、非現実的ではないでしょうか?

 また弥生の大和朝廷が渡来民族の征服王朝だったという説も、私はかなり疑問視していますが、これについてはまた別途述べることにします。


「田」が暗示する国の支配者の存在

 さて、その縄文・弥生の両方の時代の特徴を包含する「田」の成り立ちの重要なポイントは「区画された」点にあると思います。

 それは、「区画する」力を持つ存在、つまり権力者の存在を暗示してもいるからです。

 天皇親政時代の最高権力者はもちろん天皇でした。したがって、狩猟・農耕用地の「区画」の正当性は最終的には天皇に由来することになります。

 これは例えば、すべての土地と民が公=天皇のものであるとする「公地公民制」という制度でも表現されます(それが実質を伴うものであったか、建前上のものであったかは別として)。


 また、「田」が田畑だけでなく狩猟地でもあった点は、天孫の三男=火遠理命=彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)の別名が山佐知毘古(やまさちびこ=山の幸を獲る狩猟神)であり、その長男(天孫の御孫)の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)は蛇体の穀霊、そしてその四男(天孫の曾孫)が人皇初代神武天皇となられたことにも窺えます。
*鵜葺草葺不合命についても別途取り上げます。

 つまり神武天皇は祖父(山佐知毘古)の狩猟神的性格、父(鵜葺草葺不合命)の農耕神的性格を受け継いで初代天皇に即位されたことになるのです。

 かつての大まかなイメージで言えば、縄文的性格と弥生的性格を引き継いで人皇初代に即位されたことになります。

天孫(春日=春の日=幼い太陽→日+乚)≒申=雷「雨+田(狩猟・田畑の区画)」

山佐知毘古(天孫の三男、狩猟神)鵜葺草葺不合命(天孫の孫、農耕神)→「田」=「狩猟と農耕」の意味

神武天皇(天孫の曾孫、狩猟・農耕神を継承)「田」(土地区画)の最高権力者→「公地公民制」の信仰思想上の背景


春日の地主神ー申田彦神

 ここで、天孫降臨の道案内をされた猿田彦神を「申田彦神」に置き換えてみるとどうでしょうか?

 すると「猿(=申)」の後に、「申」と似ている「田」が続く形が明瞭になってきます。

 しかし「似ている」とは、「似て非なる」ものでもあります。

 つまり「猿田」=「申田」は「申」と「田」という似て非なる字霊が並ぶ神号「田(狩猟・農耕の土地区画)」の権力を持ち、「申(日+乚=若い太陽=春の日)」の性格も併せ持った神格だったとも言えます。

 猿田彦神=申田彦神は、土地区画の権力を持つ春の日(=天孫)と「似て非なる」神なのです。

 その意味するところは、猿田彦神=申田彦神は天孫降臨前の春日などの土地の支配者だったということです。

 天孫降臨神話でも、天孫を空中で出迎えられた際に猿田彦神は「国津神」と自称されます。

 これまで「天孫」に比定してきた「春日」の地名を冠する春日大社で、榎本神社(猿田彦神)が春日の地主神とされる信仰思想の背景が、ここに一層明瞭になってきました。


似て非なる猿田彦神と大国主命

 春日の地主神の猿田彦神は武甕槌命に春日の地を鎮座地としてお譲りになった点で、武甕槌命の前で天孫への国譲りを承諾された大国主命と似ています。

 しかし猿田彦神と大国主命も似て非なる面があります。

 天孫降臨の地ならしに来られた武甕槌命に対して大国主命は国譲りについて即答を避け、御子の事代主命(ことしろぬしのみこと)に尋ねるよう促したところ、事代主命は国譲りにすぐ承諾されます。

 大国主命はまた別の御子の建御名方命(たけみなかたのみこと)にも尋ねるように促し、建御名方命は武甕槌命に最初は反発して勝負を挑まれましたが、負けてしまい、諏訪(長野県)に逃れて国譲りに承諾されます。

 こうして、大国主命は武甕槌命に対して天孫への国譲りに承諾されました。

 その大国主命は別名の大己貴命(おおなむちのみこと)として春日大社の水谷神社に祀られています。

 そして榎本神社も水谷神社も春日大社の境内において、主祭神と関係の深い神々を祀る境内・境外のお社に相当する摂社に位置付けられています。


 以上の点をもう少し深掘りするため、次のように整理してみましょう。
猿田彦神天孫降臨前の春日(日+乚)先住の土地区画権力者であり、天孫降臨に自ら協力を申し出て道案内

事代主命=大国主命の御子、国譲りにすぐ承諾

建御名方命=大国主命の御子、反対の後に国譲りに承諾

大国主命天孫降臨前の地上の支配者、国譲りについて、二柱の御子の対照的な二通りの承諾を追認

 事代主命と建御名方命の兄弟は共に天孫降臨に承諾はされましたが、その仕方は対照的で、前者はすぐに、後者は反対後に承諾。似て非なる形での承諾です。

 大国主命は息子兄弟の似て非なる形での承諾を併せ持った形で天孫への国譲りに承諾されたことになります。

 前述のように、事代主命は武甕槌命に国譲りを迫られてから承諾されましたが、猿田彦神は誰かに頼まれたり迫られたりするまでもなく、自ら天孫降臨への協力を申し出られましたので、同じく天孫降臨への協力と言っても、事代主命と猿田彦神も協力の仕方が似て非なる形になっていますが、両者には他にも似ている点があります。

 恵比須様(事代主命の別名)は「耳が遠い」とも云い、恵比須神社では社殿を拳で叩いて参拝する風習があります。

 春日大社の地主の猿田彦神は武甕槌命に鎮座地を分けて譲る際に、武甕槌命から土地譲渡の要望の内容を聞き間違えてすべての土地を譲ることになります。

 そのため「耳が遠い」猿田彦神が鎮まる榎本神社への参拝時も、柱を拳で叩いてからご挨拶をする風習が昔はあったそうです。

 長くなりますので詳述は避けますが、詳しくは次のサイト『てふてふさんぽ』の記事をご参照ください。


「耳が遠い」点では事代主命の兄弟の建御名方命も同じかもしれないことに、この記事を書きながら気づきました。

 国譲りを迫りにきた武甕槌命に対して建御名方命はこう問われたからです:
「…誰(たれ)ぞ我が国に来て、忍(しぬ)び忍(しぬ)び如此(かく)物言ふ

 猿田彦神や兄弟の事代主命と同じく、建御名方命も「耳が遠い」のでしょうか?

 それとも武甕槌命は「忍び忍び」小声で囁いて国譲りの話を切り出されたために、建御名方命には聞こえなかったのでしょうか?

 春日大社の参道の一つに「下の祢宜道」、別名「ささやきの小径」があるのも、こうしてみると意味深長です(春日大社HPの「境内マップ」参照)。


「田」が暗示する天孫降臨前史

 ここで大国主命と猿田彦神が国(土地)をお譲りになった経緯を再度整理します。

 ただ、これまでは結果的にどちらも「天孫」に国譲りをされたように記してきましたが、この先は大国主命と猿田彦神の違いも強調するために、大国主命が国譲りに承諾されたのは、天照大御神の御長男、天忍穂耳命の降臨が予定されていた段階だったことを予め注記しておきます。

・太陽神天照大御神の御子天忍穂耳命のために国譲りを迫られた武甕槌命に対して大国主命は即答せず耳が遠そうな息子兄弟の似て非なる経緯の承諾を経て国譲りを追認

猿田彦神は太陽神天照大御神の御孫邇邇芸命の地上への降臨に自ら進んで協力、しかし耳が遠く、武甕槌命の要望を聞き間違えて鎮座地を譲渡

 こうしてみると、天孫降臨前の国の支配者について、次のように想像できます。
 
・天照大御神が御長男の天忍穂耳命を降臨させようとしておられた時までの地上の支配者→大国主命(全国の神々が出雲に参集する神在月はその名残)

大国主命の国譲り確約の後、天照大御神の御子の天忍穂耳命の降臨辞退を経て、御孫の邇邇芸命が降臨なさる時までの「暫定の支配者」→猿田彦神

 それは、出雲国一之宮の出雲大社(大国主命)に対して、出雲国二之宮は佐太神社(猿田彦神)とされていることとも関係があるように思います。



 この点は、天照大御神が鎮まる神宮がある伊勢国では、猿田彦神を祀る椿大神社が一之宮であることとも併せて意識しておく必要があるでしょう。



 また、天孫であれ、猿田彦神であれ、大国主命であれ、国の支配者を狩猟・農耕用地の区画の権力者という視点で捉えることは、出雲大社の本殿が「田」の字形に仕切られている点からも有効だと考えています。

 恐らくは、大国主命が天孫降臨前の地上の支配者だったことが、「田」の由来を踏まえて、出雲大社の本殿の仕切りに反映されたものだと推察します。


 今回は「田」が暗示する土地区画の権力者の変遷を、大国主命→猿田彦神→天孫邇邇芸命という流れで捉えました。

 そしてこの過程への事代主命と建御名方命、武甕槌命の関わりにも触れました。

 これらの関わりは、登場した神々が相互に「似て非なる」存在であることを暗示するものでもありました。

 人間同士も、「似て非なる」が故に良くも悪くも縁ができ、関わりが生まれる、という真理も見えてくる気がします。

 しかも「非なる」部分より「似ている」部分の方がはるかに大きいようです。

 上記の神々に共通するもの……それは、やはり「竜」や「竜蛇」だと思います。

 これまで「龍神考」でずっと取り上げてきた天孫邇邇芸命や武甕槌命、猿田彦神はもちろん、大国主命と事代主命、建御名方命も「竜蛇」の性格をお持ちです。

 だいぶ長くなりましたので、これ以上は別途述べたいと思いますが、日本には竜や蛇の形で現れる神々が非常に多く、日本の「神」の本質は「竜蛇」ではないかとの印象が、調べれば調べるほど強くなっていきます。

 大国主命から猿田彦神、天孫邇邇芸命へと土地区画の権力者が移り変わっても、その本質は時空を超え、一貫して「竜蛇」なのかもしれません。 

福岡市東区和白丘の下和白大神神社(大物主神、大国主命、大黒天/右手の境内社には多加雄神=高龗神、菅原道真公、猿田彦神も祀られている)の満開の桜と、降りてくるような竜蛇形の雲(2022年4月2日夕刻)


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