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【今週の読書】自分探しと空気の狭間で循環する

本を読み終わった後はほぼ全部ブクログというサービスに読書感想文を書いているのですが、noteでも公開していこうと、とりあえず今週のまとめ、みたい感じで書いています。(時々過去のものも含めて書きたい)

今週は3冊(フィードバック大全もありますが、それは別noteに書いたのでここでは割愛)

  • 日本の進む道。成長とは何だったのか / 藻谷浩介、養老孟司

  • マイテーマの探し方 -学習探求ってどうやるの?(ちくまQブックス) / 片岡則夫

  • 「空気」を読んでも従わない:生き苦しさからラクになる / 鴻上 尚史

今回は、マイテーマ探しと空気の話を一緒に読めたことが個人的にはとても気づきの多い読書体験になりました。読後感ってタイミングによって全然変わりますが、今回は良いタイミングで二冊が重なりました。

自分探しって一人の作業のようで、でも、世間(空気)の影響を受けているわけで、だからこそ一人の時間と世間(空気)との関係を行ったり来たりしながら、自分探しってするのかなって思いました。

守破離という言葉が好きで、まず守が大事で、守から始めるからこそ、破離へとつながるって思っていたけど、どこから始めても良くて、守破離を循環させることの方が大事なのかもですね。なんか、小3の娘のピアノを見ていても、まず丁寧に引き方を習うのが先なのか、好きなようにピアノを引くのが先なのかは、考えさせられるけど、どちらが先でもいいんでしょうね。循環さえすれば。

「日本の進む道。成長とは何だったのか」も私がやっている自然農の話が出てきて、養老孟司さんと想いが共有できたようでうれしかったです。

では、以下が私のそれぞれの読書感想文です。


日本の進む道。成長とは何だったのか / 藻谷浩介、養老孟司

(オリジナルのブクログはこちら

自然と付き合うとは!?

自然と付き合うとはどういうことを忘れてはいけないですね。コントロールできないもの。努力しても報われない。そんな相手に無理をしてはいけない。
全体を見て適当なところで収める知恵、という表現が個人的にすごくよかったです。完璧やより成長する、という常に上を目指すのではなく、どこかで、これで十分、というところを見極めて、心を落ち着けるタイミングが欲しいですね。これが高原社会なのかな

あと自然農法の話が出てきたのも個人的には嬉しかったです。何かをしないといけない、という固定観念からの解放としての自然農、というのもありますね。放ったらかしでよい、というのは語弊があって、環境をどう整えるかが大事だと思っているのですが、環境を整えるだけで、それ以上はやらなくても良い。この線引きがとても大事だと思っていて、俺がやった、ではなく、最終的には相手が勝手にやった、という理解することで、循環の精神が育つと私は思っています。

持続的な社会って環境の話もあるけど、人間としての持続的はこの循環精神だと私は思っています

さて、循環精神を育てる場所としての自然農を続けていこう

(私は政府批判とか、何でお前はやらないのか、みたいな相手を見下す話があまり好きじゃないので、言いたいことはわかるけど、なんかモヤモヤが残る本でもありました。これがコントロール思考への違和感なのかな)


マイテーマの探し方 -学習探求ってどうやるの?(ちくまQブックス) / 片岡則夫

(オリジナルのブクログはこちら

10代のための本シリーズ。10代の時に出会えたら本当に良かったな。そして、10代の時に読書会に出会えてたらいいのにな、と思いつつ、きっと私の10代はなーんにもしてなかっただろうな

はい、今回のテーマはマイテーマの探し方で、最近私が考えている「気づきを与える」にドンピシャなテーマでした。

そんなマイテーマの探し方が研究の進め方みたいな感じだったので、自分のやってきたこと(一応10年以上研究者をやっていました)の振り返りみたいに読んでしまいました。

あなたはどうしたいのか

この問いの向き合い方としての研究の進め方。他人と被らないオリジナルを探すとか、社会のためも考えるとか、マイテーマ探しに一見関係なさそうなことも書かれていて、最初は、うん!?、と思うかもだけど、何周か回るときっと私の存在を感じて、私を信じて突き進めていくための大事な要素だと気づく時が来るんじゃないかなと思います。でも、いつか来るとこを先に言うのはもしかしたら良くないかもしれないですね。いやー、この辺の塩梅はわからない。

僕のマイテーマはだいぶ固まってきたので、今度は娘のテーマ探しに付き合う日を夢見て、マイテーマを引き続き育てていきます。

社会の評価と切り離して、テーマを探してもらいたいな


「空気」を読んでも従わない:生き苦しさからラクになる / 鴻上 尚史

(オリジナルのブクログはこちら

世間と社会と一神教

私を信じてください、は、私以外を信じないでください。そうしないと私はあなたを救いません。

信じるものから裏切られないなら、信じなくていいものとの距離感を自分で決められる。
世間という神を信じないといけないので自分で距離感を決められない。

ちょっと納得しました。

世間(世間がゆるくなって現代は空気になった)の例えで、みんなで遊園地に行く雰囲気だけど、私は映画を観に行きたい、という例が、最近私が見た劇「12人の怒れる男たち」と同じ構図でした。

この12人の怒れる男たちは、陪審員制度という、市民から無作為に選ばれた12人の陪審審が全員の意見が一致しないと判決が決まらないルールの中で、少年の親殺しが有罪か無罪かを決める話。状況証拠的にほぼ有罪の雰囲気のある中、一人だけ無罪(合理的な疑いがある)を主張して、少年の有罪を場の勢いだけで決めず、1時間でいいから話し合って決めよう、いうところから始まります。
これがまさに空気であり、空気に抗った例なんだって思いました。
有名な話なので結論を書くと、話し合いをした結果、少年を無罪(合理的な疑いがある)という判決に12人全員が変わります。自分の違和感を大事にしないとですね。正しいところまで理詰めしなくても、まずは違和感でもいいから手を挙げることで、結果は変わる!

裸の王様に出てくる子ども。こんな無邪気な幼児性にちゃんと目を向けておきたい。

でも、自分と対話して出てきた答えと、社会もしくは世間の答えが違う場合、どう行動するかはやっぱむずいな。社会や世間とも対話は重ねないといけない気がする。

もう一つなるほどと思ったのが、欧米人は自分の意見を言わないといけない強迫観念があるということ。本当かどうかわかりませんが、小学校などの小さい頃に、こうしなさい、と言われて実践してきたことは、大人になってもやらないといけない気持ちになっちゃうのかもと思いました。
大人になって、いろんな考えに触れると、考え方も変わるかもだけど、小さい頃の習慣は変えるハードルが一段上がりそう。

自分の学びと社会の接点が早めに見つかると、やっぱり人生楽しい気がします


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